見出し画像

学問はあなたのさいわいを願っている。

byみっこ


小学生のとき「地域のご老人にお話を聞く」みたいな会があった。

その会のあと、みんなが下校していく中で、担任が「〇〇さんの所のお嬢さんです」と言って、ある女の子をご老人に紹介していた。ご老人はその子の手をとり、「ああ!」と頭を垂れんばかりだった。その子の家は世田谷区で代々の地主だったんだけど、あの時も今も、フム、と思う。

フム、というのは「ああ、自分の知らない世界があるんだな」と再認識する感じ。あと、にこにこと紹介していた担任への微妙な批判の気持ち。

真面目真面目が自身を縛っていたような担任で、嫌いではなかったけど、「フム」っていうのは多かった。

例えば泣いてる子に、「ドライアイの人は涙が出なくて大変なんだから、こんなことで泣かないの」って言ったり、毎日帰りの会でその日の同級生のダメなところを逐一報告させて、1時間以上「いけないと思います」「これからは気をつけます」を繰り返させたりね。

最近妙に読書感想文が気になるのも、この担任の時に感じたことを思い出すからだ。

彼女は3・4年のときの担任で、そのいずれかの時、文章を書くのが得意だった私に「応募しましょう」って声をかけてきたんだけど、断りきれずに受け入れた結果、何度も居残りで指示通りに書き直させられた。

そうして応募した先で金賞になった作品を見たら「おじいちゃんが死んだ思い出に絡めて書かれた泣ける読書感想文」で、その時に心底馬鹿馬鹿しくなった。

今、当時の気持ちを言葉にするなら「子供は消費されているな」という感じだろうか。あの担任が(当時から既に今と同じ問題意識だった)私のひねくれた作文に赤を入れたら真っ赤になっただろうと思うし、それを彼女は「修正」だと思って熱心に指導したんだろう。

じゃあ、私たるゆえんのものを全て抜き取られたクリーンな文を何度も何度も書写する作業が報われたかって、それも報われない。私も、金賞とった子も、消費されてるような気がした。

小中の学校生活で出会った数人の「善良」な教師は、多かれ少なかれ、私に「社会はあなたの意見を異端だと思っているし、同じ異端でも、ケアされるべき異端ではなく、我々が消費してもいい異端である」というメッセージを繰り返し伝えてきた。

そのメッセージのメカニズムを明らかにし、無効化もしくは有効化するまで、私はそのひとつひとつを鮮明に覚えているんだろうと思う。それを可能にしたのが、社会学、民俗学、文学、国語教育学といった学問だった。

彼らは皆「善良」だった。当時のポリティカルコレクトネスの象徴とも言えるだろう。その時に良しとされていた空気を無批判に受け入れ、行っていた。だから、私は今も彼らが「嫌い」ではない。彼女のことを思い出すといつも、教師に適した朗々とした美声も共に思い出す。

あの頃の「空気」に違和感を覚えつつも、私の中にもその「空気」は音もなく忍び込んでいる。それ自体が良いことか悪いことか、それさえもわかりにくいままに。

学問はそれを相対化し、解体し、対象化してくれた。

教育学の先賢たちの言葉は、度々、あの頃一人で「私だけがおかしいことを考えているんだ」と思っていたことに同意してくれた。

それは異端ではなく、学問的問題意識の発露なのだと、学問が教えてくれなければ、私は今も、私だけがおかしいんだと信じていただろう。


ご老人に勝手に紹介されていた彼女は、その時のことを覚えているだろうか。

私はすこし、心配だった。みんながガヤガヤ帰っていく廊下で、担任に肩を抱かれて、見知らぬご老人の前に「?」という顔で立たされていた彼女。

離れたところから見ていた。要らぬ心配をしていたんだと思う。そんなことをしている児童は誰も居なかった。要らぬ心配だったんだろうか。私だったら嫌だと思っていたけど、彼女は私ではないから、嫌ではなかっただろうか。


何が嫌だっていうの?


そう聞かれたら、答えられなかっただろう。そんな私に言葉を授けてくれたのは学問だ。


「子ども」の発見

物語消費

他者

国語の道徳化

バイアス

スキーマ


心でも、事象でも、学問は「もやもや」に名前をつけて、解体し、それを選ぶか選ばないか、権利を我がものにする力を授けてくれる。そこから更に、力それ自体を自ら生み出す力も育ててくれる。

名前のないものを手に取ることはできない。これは科学でも同じことだ。人に認められることのないものは公的に存在できない。

何のために学問があるのか。

あなたのためだ。わたしのためだ。


名前の分からぬものは時に命を奪う。子どもの頃に生命力を蝕まれたのも、一部の命を奪われたと言っていいだろう。

学問は、学問と言って別世界のものだと思われるなら、かつて人々が懸命に取り組んできた全ての証は、あなたのさいわいの為にある。

そばに誰も居ないなら、本でも、工業製品でも、食べものでも、人の力が目一杯込められたと思うようなものに触れてほしい。


それらはあなたが黙って不幸になるのを許したりはしない。

人の力が目一杯込められた全てのものは、あなたのさいわいを願っている。




#学問への愛を語ろう

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,092件

#学問への愛を語ろう

6,233件

サポートしてもらえたら、そりゃあとっても嬉しいです。とうぜんじゃないですか。