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短文学集

25
筋も思想も体系も、全部気にせず楽しむことを短文学と称して日々の感傷を綴る。
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#雨

門前の人にも橙を

門前の人にも橙を

 手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。
 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。
 

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忍び泣き

忍び泣き

 その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。
 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけること

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夕立の降らない夏。

夕立の降らない夏。

 これも全部、ノストラダムスの野郎がしくじったせいだ。あの頃のオレは愚直に信じていた。ヤツの言うところのなんちゃら大王がやって来て、何もかも全部ぶっ壊してくれるんだって。机に突っ伏してばかりの昼も、長すぎる夜も、蔑みの声や同調を意味する記号的な口角の上げ方も、おべっかも堅苦しい詰襟も何もかも、根こそぎ。

 それがどうだ。リヤカーに空き缶を山ほど積んでいた浮浪者たちはどこへいった。ブルーシートの家

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鉛色のカーテン

 涙袋で水滴が弾け、思わず見上げた。今にも落ちてきそうな、重たい色をした雲が空一面に広がっていた。降りそうだな、という呟きに合わせて雨垂れが私の額で軽やかにステップを踏む。儀礼的に辺りを見回してみるが、この山間にあるのは田んぼと用水路ばかり。肩に提げた小さなカバンには読み終わった小説が一冊と目薬くらいで両手は自由だ。早くも周囲で木霊する、時雨の足音に対して抗う術はない。

 当分はこの人影のない下

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代替品

代替品

 長雨の下から出て傘を畳むと、頭上の山門が作る軒の下に水滴が落ちて黒いシミを作っていった。耳に染みついていたビニールの膜に雫が弾ける音がようやく遠のき、遠く山野を濡らす音が辺りに満ちている。傘を柱に立て掛けると腰掛け、鞄からライターと、久しく箱を開けてすらいなかった煙草を取り出した。
 ジーパン越しに湿気が伝わる。腕の産毛の先まで満遍なく包んだ湿気が、煙草まで達していないかが気がかかりだった。もた

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