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あらためて、歴史を伝える意味を考える

 代表の岡田です。
 古城の塔の保全活動開始から約1年半が経過しました。この間、単に「ちょっと気になる建物」だった古城の塔について私自身多くの発見があっただけでなく、としまえんの歴史そのものの面白さに惹かれていくようになりました。

 最近は調べた成果について人前でお話する機会もいただくようになり、今後もより多くの方に古城の塔を保全する意味をお伝えしたいと思っているのですが、その中で「そもそも歴史を伝える意味とは」についてきちんと自分の中で整理できていない事に気づきました。

 私自身は元々歴史に興味があり、実家の先祖の話なども親戚や父親から聞くことが多い家に育ったため、歴史を伝えていく事は当たり前の事でした。しかし地域の中でこの活動を続けていくためには、歴史に興味関心が無い方にも歴史を伝えていく意味も含め、古城の塔の保全についてお話しなければいけません。
 そこで今回は歴史を伝える意味について、私なりに文字化を試みたいと思います。

私たちも歴史の中の人間

 そもそも岡田は父親が相当な歴史好きで、子供の頃から日曜8時は大河ドラマを家族で視聴、家族旅行も大体史跡関係は外さずに回るという家庭で育ちました。しかし歴史はあくまで遠い昔の話。大河ドラマなどで見る、極限状態の人間ドラマ、知恵や武力の争い、生存競争というのはあくまで"ドラマの世界の話"でした。歴史上の話は自分とは直接縁の無い遠くのお話であるという感覚は、現代日本人の多くの人が持っているのではないかと思います。

 しかし、ある時父が滋賀県のある寺院に私を連れて行ってくれた事がありました。そこには先祖代々のお墓があり、そこで父からわが家の歴史について教えられました。私の先祖も南北朝時代の動乱を生きぬき、その後は歴史の主役レベルまで有名になる事は無いながらも各代が各時代を一生懸命に生きてきたからこそ、現代まで存続してきた家である事を知りました。
 また私の大叔父は戦時中祖父とともに広島で被爆し、定年後はその体験を自ら語るようになりました。

 それらの出来事によって、私の中で初めて歴史が身近なものとなりました。そして先祖たちの事を知れば知るほど、先祖に感謝し、リスペクトをしつつ、同時代に主役級の活躍して教科書に載るような人物たちの凄さを実感するようになりました。

 歴史を知る事によって、私は先祖や家族にあらためて感謝し、自分自身が何者なのかというアイデンティティを持つ事が出来、その上で歴史に名を遺す人々へ敬意の気持ちを持てるようになったと思っています。

 私自身はプレッシャー世代の人間ですが、私ぐらいの世代からZ世代の若者の特徴の一つに「自分が何者かが分からない」という人がいるという話をよく聞きます。

 これは個人的には、今は自由な生き方ができる一方で、自分の礎を築くきっかけが足りないから起きている事であり、自分たちの家族の歴史を知る機会が無い事も一因のように思っています。
 自分自身が何者か、の答えは自分自身にしか見つからないものではあるのですが、私にとって先祖たちが何者かを知り、先祖たちもその時代その時代を一生懸命に生きてきた事実を知る事は、現代を生きる自分自身の生きる活力にもつながると思うのです。

地域で歴史を共有する

 私たちにとって身近であるべき歴史というのは先祖の歴史だけではありません。私たちが住む地域の歴史もそうです。

 私たちは日本人が海外で活躍すると嬉しくなります。
 大谷翔平選手がメジャーリーグで活躍していたり、ラグビー日本代表がワールドカップで大躍進をしたり、山中伸弥教授がノーベル賞を受賞をすると、たとえそれまで縁もゆかりも無かった身だとしてもなんだか嬉しくなります。一種の同族意識から来るものだと思います。

 しかしそれらは単に「嬉しい」というだけではありません。それぞれの界隈に学びをもたらしているのです。
 大谷翔平選手は日本人選手のみならず野球における人間の限界そのものの常識を覆したと言われています。投打の二刀流の実現の証明はこれからの野球界での人材育成の在り方の見直しや、監督の選手への限界ありきの指導の転換をもたらす事でしょう。

 ラグビー日本代表は、ラグビーにおける日本人の世界での戦い方を示しました。これまで日本はフィジカル的に世界の上位とは戦えないという常識を覆し、世界で戦う為のマインドセットを促し、日本の国内リーグは世界的にもスピーディーなパスラグビーの戦いの場として発展しつつあります。ルーティンワークや組織作りなど、ラグビー以外の世界でもその成功は注目を集めています

 山中伸弥教授はその時点での日本の研究水準の高さを証明した一方で、日本の研究環境が恵まれていない実情を露呈させました。研究費を集める事もままならない日本の科学界がこのままでは衰退の危機にある事を多くの人が知る機会にもなったと思います。

 ある人の活躍と言うのは、その周囲にいる人に学びをもたらします。多くは同じ業界にいる人々に吸収されていくものですが、地域の歴史というのはその地域に住んでいる人たちの中で本来無条件に共有できるはずものです。
 スポーツの世界の学びやビジネスの世界の学びはその世界に興味が無ければ一般の人がしっかりと全てを汲み取る機会を作る事も、それを活かす事も難しいかもしれません。また、ある地域の歴史をその地域外の人が関心を持つことは難しいでしょう。
 しかし地域というのは非常に同族意識を持ちやすい集団であるので、自分の住む地域に起きた出来事は身近に感じやすく、地域の人々と無条件で共有できるものです。だからこそ、地域の歴史は地域にとって大切な財産なのです。

私たちはもっと歴史から学べる。なぜなら日本に住んでいるから。

 私たちは日本という国で生活しています。日本は世界的に見ても歴史が長い国です。しかし、しばしばSNS等で目にする単に自分の国の歴史の長さを賞賛する事は非常に空虚な行為だと思います。
 歴史が長い国だからこそ、歴史から学べる事が多くあるのです。歴史の長さに誇りを持つのはその歴史を学び、現代に生かしてこそだと思います。
 でははたして、今の日本は約2000年の歴史、縄文時代も含めれば約1万年の歴史を活かした国になっているのでしょうか。先人たちからの学びを昇華できているのでしょうか。

 例えば、私は個人的に東北の歴史が好きで、特に奥州藤原氏が治めた平泉を中心とした100年間に興味があります。古代東北は8世紀まではエミシと呼ばれる人々がアテルイを中心に朝廷と戦い、12世紀までは奥州安倍氏・清原氏が源氏と戦った戦乱の地でした。その戦乱の後東北を治めた奥州藤原氏は平和を祈り、奥州17万騎と呼ばれる軍事力と巧みな朝廷との外交力、金産出による財力を背景に、平泉に極楽浄土を作ろうとしました
 この平泉の平和に対する概念は歴史界隈で広く評価されている一方で、現代にどう活かすかまでは落とし込まれていないように思います。奥州藤原氏の思想を起点として平泉や岩手県は、日本の平和維持を戦略的に考える国際関係学者や外交政策家を地域で育てるような仕組みを作り、それを元に地域づくりをしてもいいのではないかと思うのです。

 また、一時期はどの小学校にも銅像があった二宮金次郎。彼を単純に歩きながら勉強した人物であると思っている人が多いかと思いますが、実際には報徳思想という経済学説を元に、様々な藩の財政立て直しを行った経営コンサルタントの先駆けです。地域経営学の開祖という人もいます。
 二宮尊徳については出生地の小田原市栢山と栃木県真岡市に記念館が建っていますが、その地域に彼の理念が息づいているという印象は残念ながら今のところありません。
 日本の経済が後退し、各自治体の財政も困窮する中、財政立て直しのメッカとして、事業再生コンサルタントが学びに集まる地域づくりをしてもいいのではないか、と個人的には思います。

 ところで、多くの日本人は日本の歴史において戦国時代への関心だけは高いと思います。
 しかし今の戦国時代への視線は、各大名の領国の産業や財務基盤を無視して、「この武将がかっこいい」「この武将は勇敢」という属人的な受け止められ方をされている事が多いように思います。

 例えば武田勝頼は織田信長に長篠の合戦で戦い、敗れました。その敗因について「武田軍が騎馬隊に自信を持ち過ぎていたからであり、勝頼が凡才だった」とする事が見受けられますが実際にはそんな勝頼個人の問題ではありません。
 当時の武田の領国には鉄砲の弾となる鉛の産地がほとんど無く、そもそも長篠の合戦も武田が鉛鉱山を奪う為の戦いだったとも言われているのです。
 戦国の合戦の要因とは内政事情と外交事情によって本人の意思とは異なり、有無を言わさずに引き起こされるものなのです。それは近代の多くの戦争もそうです。時代の中で生き残るには時代の変化に対応しつつ、繁栄を持続させる基盤が必要であるという事がこの戦いからは学べるのではないでしょうか。
 戦国史はそういった学びの宝庫です。

 さらには日本人には敗戦国として「戦争反対」を言う人はいても「どうしたら戦争は起きないのか」、国際社会は競争社会である前提で「戦争を起こさず、自国が極力損害を被らない形で争いを鎮めるにはどういう方法があるのか」まで考え、説明できる人がどれだけいるのでしょうか。

 歴史については有名な言葉に以下のものがあります。

過去に学ばない者は、過ちを繰り返す/ジョージ・サンタヤーナ
歴史から教訓を学ばぬ者は、過ちを繰り返して滅びる/ウィンストン・チャーチル

 個人的には日本は織田信長と言う新しい事をやり尽くして天下統一に近づいたイノベーター的な人物を輩出したにも関わらず、現代日本は新しい事に挑戦する事がネガティブな時点で、歴史を活かせていない国なのではないか、とも思っています。イノベーションについていけなかった勢力の多くは彼に敗れたのです。

 「歴史を重んじて懐古主義に陥る」のではなく、「歴史を軽んじてスクラップアンドビルドを繰り返す」のでもなく、「歴史に学びを得た上で新しい事に挑戦する人をポジティブに迎え応援する」、そんな日本であって欲しいと思います。

産業遺産、としまえん古城の塔

 あらためて、としまえんの話に戻ります。
 これまでもnoteでお伝えしてきた通り、としまえんは100年間の経営の知恵が詰まった施設であり、順風満帆ではなく時代の変化に対応しながら何度かあった閉園の危機を乗り越え、今日まで存続した施設です。
 遊園地は昭和から平成の日本人の娯楽を支えた産業であり、としまえんはその産業を代表する施設の一つです。
 100年間の歴史の中で空襲も経験しました。
 小川栄一氏による観光業における事業スキームの原点でもあります。

 その基盤は当時の日本の経済界で名を馳せた3人の経営者がそれぞれに知恵を働かせ、バトンタッチしながら築き上げたものです。

古城の塔発表20220429-2

古城の塔発表20220429

 現代に生かすのであれば、このリレーによる夢のある事業の作り方は大いに学べる事があると思います。
 この3人に憧れて、「としまえんのような人々に夢を与える場を作りたい」という志を持つ人物が育ち輩出される、そういう地域になっていく未来もとしまえんがあった練馬区にはあり得ると思っています。

 また今の練馬区内には戦争について語る場がほとんどありません。戦争遺跡としての可能性を探りながら戦争を風化させない場としての活用もできると思います。

 歴史を伝えていくにはシンボルが必要です。
 人間はある種単純な所があり、頭では分かっていても視覚的な情報に左右されます。視覚的にとしまえんを残す装置がないと、としまえんの歴史もいつか忘れ去られる事は間違いありません

 シンボルが必要だからこそ、原爆ドームは今でも残されているわけだし、陸前高田の奇跡の一本松はお金をかけて残されているのです。

 としまえんの古城の塔は戸野琢磨先生が設計された豊島園開園時から残る建物なのです。この建物をシンボルにとしまえん100年の歴史を残さない理由はあるのでしょうか
 これからも古城の塔をシンボルにとしまえんの歴史を伝え、としまえんの歴史を学ぶ地域づくりをしていければ、きっと練馬区も活気づく事でしょう。


 練馬区では平成28年に区内経済の発展・振興を目指す"産業振興ビジョン"が制定されました。そのサブタイトルは吉田松陰の言葉「夢なき者に成功なし」です。
 「練馬区は夢を持って頑張る事業者を全力で応援します」とも書かれています。「夢を持って頑張る」とありますが、練馬区の事業者は誰からその方法を学ぶのがいいのでしょうか?

 ちなみに練馬区にはかつて、3人の事業者が夢を形にして作り上げた夢のような場所がありました。としまえんって言うんですけどね。


 引き続き、古城の塔の保全活動への賛同と応援をお願いします。



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