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運動会の入場行進

私は小学校低学年の頃、数年間ですがイングランド南部の港町サザンプトンとロサンゼルス近郊のパサデナという街に住んでいたことがあります。当時は日本人学校などありませんでしたので、現地の普通の小学校に通っていました。当時のサザンプトンには日本人どころかアジア人もあまり住んでいませんでしたので、私はクラスメイトから非常に珍しがられました。もちろん最初は英語なんて全く分かりませんでしたし、通い始めた頃こそものすごく緊張したのを覚えていますが、「なんでお前の瞳と髪は黒いんだ?」「日本ってどこにあるの?」という感じでほぼ毎日、好奇心の塊のような子供たちの質問攻めに合い、すぐに友達が出来て英語も覚え、溶け込むことが出来ました。

妙な自慢ですが、この頃が人生最大のモテ期でした。極東の島国から来た変な転校生の誕生日パーティにクラスの誰が呼ばれるかが学校中の話題になり、来ることになった子は大喜びで私にキスしてきたりしました(男の子でしたが)。

パサデナに移ると、今度はクラスに日本人を含むアジア系の子供が何人かいました。私は全く特別扱いされず、白人の友達は一人も出来ませんでした。なぜか日本人も全く相手にしてくれず、友達になってくれたのは韓国人と中国人の子供たちだけでした。当時チェーン展開し始めたばかりのマクドナルドの店に、小遣いを握りしめて韓国人と中国人の友達と自転車で遊びに行ったのを覚えています。友達の数は多くはありませんでしたが、楽しい毎日でした。

ところが日本に帰ると状況は一変しました。帰国して初めて小学校に登校した日、幼稚園時代からの旧友を見つけ私は懐かしくて思わずハグしてしまったのですが、これが問題でした。当時の広島の田舎の小学校では、誰も海外経験などあるはずもなく、いきなり私はエイリアン扱いされることになってしまったのです。日本語が下手で漢字が全く分からず、そろばんが出来ない。子供たちの遊びも全く知らない。当時初優勝したカープの話題にも全くついていけない。誰も私と遊んでくれず、遊びの輪に入ろうとしてもルールが分からないので無視される、そんな日々が始まったのです。

私は私で「なんでみんな髪の毛が黒いんだろう?」「どうしてみんな同じ制服を着ているんだろう」と自分も似たような外見であることはさておいて、疑問に思う毎日でした。母国に戻ったのに疎外感と違和感ばかり感じていたのです。

極めつけに私の孤立を決定付けたのが、運動会の練習でした。イギリスでもアメリカでも運動会のようなものはあったのですが、適当に集まって適当に駆けっこしたりして順位などあるような無いような、まるで集団ピクニックのようないい加減さで、単に楽しく遊ぶという運動会しか経験していませんでした。

ところが帰国してすぐに始まった運動会の練習では全く様相が違いました。グラウンドに整列して「前へならえ!」「右向け右!」といった先生の大号令に従ってみんなが一斉にそろって行動します。音楽が鳴り、先生の笛の音とともに左足からあげて綺麗にそろった行進を始めるのです。実は競技よりも何よりも先生たちが重視したのは入場行進で、グラウンドのカーブの部分を、生徒たちが足並みと歩調と姿勢を揃えて綺麗に歩いていく練習が何度も繰り返されていました。

当時の私には一体何をしているのかすら理解出来ず、号令の意味も分からないので毎回私一人が動きを乱してしまい学年全員がストップをかけられてしまいました。そのたびに先生に叱られ、長い竹の物差しでお尻を叩かれました。今となっては半分笑い話ですが、あの頃に感じた違和感は今でも消えずに深く心に残っています。

なぜ子供のうちから軍隊のような行進をしなければならないのか。なぜ組体操のような「全員がそろって同じことをする」種目が重視されるのか。なぜ競技そのものではなく、行進の練習に一番時間が割かれるのか。今でも理解出来ません。

大げさな話に聞こえるかもしれませんが、私は日本社会の同調圧力はこういったことから来ているような気がしています。人と同じことをしていれば問題ない、逆に人と違ったことをしてはいけない。自分がやりたいことではなく、全体が求めていることに従うべき。こういった思考停止とでも言うべき集団主義が日本をおかしくしていると感じることが多々あります。

もちろん今では入場行進などやらない学校が多いと思います。子供の頃の私が感じたような違和感は、今の学校ではあまり感じないのかもしれません。海外経験のある子供の数も飛躍的に増えているでしょうし、外国人家庭の子供も多くなっています。それでも根本の部分で、日本人が持っている集団主義から来る同調圧力は、あまり変わっていない気がしてならないのです。昨今のコロナ騒動でよく言われるような自粛圧力やいじめ問題にも同じ気配を感じてしまいます。

何がなんでも海外の方がよいなどと言う気はさらさらありません。日本の方が優れていると思う点は山ほどあります。個々の人間としてのレベル、意識は概して日本人が高いと感じます。しかし、だからこそ無意識のうちに持っている集団主義の発想が個を殺すことにつながり、日本が本来持っているポテンシャルの発揮を阻害していると感じてしまうのです。この話題については、また稿を改めて触れてみたいと思います。

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