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A猪木の呪縛から解放されたのか?映画『アントニオ猪木をさがして』感想

はい、どーも、りゅうパパです。
このブログは、子供が寝静まったあとにパパが本音を話すブログとなっております。

昨年の10月1日に亡くなられたアントニオ猪木、それから約1年、10月6日から劇場公開が開始された映画『アントニオ猪木をさがして』を一昨日観てまいりました。

このような映画が、小劇場ではなくTOHOシネマズのような劇場で公開され、1日1回ではなく1日数回も上映されていることに、A猪木の偉大さが分かります。ただし、自分はTOHOシネマズ東京日本橋の18時40分の回で観ましたが、お客は10人程度でした。

本日は、そんな映画『アントニオ猪木をさがして』について、お話したいと思います。


そもそもA猪木とは…

若い世代は、A猪木について、名前ぐらいは知っているかもしれませんが、実際にどんな人か知らない方も多いと思います。改めてA猪木について詳しく説明したいのですが、A猪木の人生ほど波乱万丈な人生を見たことがなく、話が長くなりますので、詳しく知りたい方は、A猪木のwikiをご覧ください(アントニオ猪木のWikpedia)(笑)

こちらのブログで簡単に説明させていただくと、A猪木は、1943年2月20日に生まれ、戦後に実家の石炭問屋が倒産。13歳のとき、その貧困から抜け出すために家族とブラジルに渡りました。1960年、興行でサンパウロを訪れた力道山にスカウトされ、日本プロレスに入団します。

同期入門には、あの世界の巨人・ジャイアント馬場がおり、エリートのJ馬場とは対照的に、新弟子時代のA猪木は、力道山に相当しごかれたようです。そのあたりの様子は、昔の漫画『プロレススーパースター列伝』を是非読んでいただきたい。原作者・梶原一騎先生の嘘かホントか分からない誇張された話も多いですが、A猪木の話は比較的真実に近いのではないかと思います。

プロレスデビュー後のA猪木は、すぐに頭角を現し、力道山亡き後、J馬場と共に日本のプロレス界を盛り上げます。1972年、A猪木は新日本プロレスを旗揚げ。同年、J馬場も日本プロレスを退団し、全日本プロレスを旗揚げします。

J馬場に対抗するA猪木の企画力

日本テレビをバックに有名外国人選手を独占するJ馬場の全日本プロレスに対し、日本ではまだ無名だったタイガー・ジェット・シンに買い物中のA猪木を襲わせ(1973年 伊勢丹襲撃事件)、A猪木とシンの因縁の抗争劇を演出するなど、その企画力でA猪木の新日本は対抗します。更に、1974年、まだ、外国人vs日本人選手がプロレスのスタンダードだった時代に、国際プロレスのエース・ストロング小林と日本人対決を実現させます。

有名なところだと、1976年、プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの異種格闘技戦は「世紀の一戦」として、のちの総合格闘技の源になったと言われ、今なお、TVや雑誌・本などで特集されるほどです。

ダメだ、A猪木の前半のキャリアを表面的に説明するだけで、もう1,000文字以上になってるではないか…A猪木のキャリア・人生は、自分なんかが簡単に説明できるものではないので、続きは、また今度。

ご興味ある方は、是非、柳澤健さんが書かれた『1976年のアントニオ猪木』をお読みください。オススメです。YouTubeの『有田哲平のプロレス噺【オマエ有田だろ!!】』では、その後の1986年のA猪木について語られいます。

映画の簡単な感想

やっとこさ映画の話に戻りますが、『アントニオ猪木をさがして』はドキュメンタリー映画であり、僕も本や雑誌でそれなりにA猪木については知識があるので、「ああ…今さらA猪木の生い立ちから説明されてもなあ…」と劇場に足を運ぶのが面倒でした。正直。

それでも、自分はA猪木信者ではないものの、プロレスファンだった自分への義務感からTOHOシネマズにて鑑賞しました。

映画が始まると、13歳の猪木少年が過ごしたブラジルの街並みやコーヒー農園などの景色が、劇場の大きなスクリーンに映し出され、本や雑誌では感じることのできないリアルな空気感のようなものがあり、それはまるでロードムービーのような始まりでした。

コアなプロレスファンの方々には、知らなかったA猪木の新事実などはないかもしれませんが、この映画には、A猪木の殺気とはほど遠い何か心地いい空気感が流れており、優雅で贅沢な時間を過ごした気になりました。

関係者の方には申し訳ないですが、映画レビューサービスFilmarkでも多く言われているとおり、ドラマパートだけは不要と思いました。(80年代の昭和のお父さんは「リベンジ」とか言わないのでは?)

A猪木から続く新日本プロレスの物語

映画では、新日本で活躍する現役選手の中から、棚橋弘至、オカダカズチカがインタビューに答えています。

棚橋、中邑の反発

特に棚橋は、2000年代の新日本の暗黒期を支えてきた選手であります。2002年2月の札幌で起きた俗に言う「猪木問答」の際には、格闘技路線を強めようとするA猪木会長の「お前は何に怒っている?」と言う問いに、棚橋は「自分は新日本プロレスのリングでプロレスをやります!」と宣言。

そう宣言した際、棚橋は、猪木ビンタを受けた後も猪木を睨み続け、ファンも気づけないような小さな反発をしています(今見直してみると、永田裕志とかは猪木ビンタに対し、普通にプロレス的リアクションをしています)。

この映画では、それらの話が、棚橋の口から説明されており興味深いです。

ちなみに、2004年、中邑真輔も猪木に反発し、猪木から鉄拳制裁を喰らっています(ソース:東スポ)。この中邑と棚橋が、2000年代の新日本を支え、盛り上げ、2011年にオカダカズチカが凱旋帰国したことをキッカケに、プ女子と言われる新規ファンを獲得、A猪木離れと共に新日本の人気は復活します。

(その後、中邑は、世界最大のプロレス団体WWEのトップレスラーとして現在も活躍中です。)

A猪木の呪縛から解放された新日本

それから10年ちょっと、棚橋が2002年に宣言したとおり「新日本プロレスのリングでプロレスをやります!」が実践され、新日本のプロレスは、技のレベルが高度になり試合は進化しました。しかし、A猪木の殺気があるプロレスとはまったくの別物になったようにも思います。

それでも新たなファンを獲得しており、会場は日々満員を記録しているようなので、僕のようなロートルファンが否定できるものではなく、プロレスの1つの正解だとは思います。

この映画の中で、そんな状況を受け、新日本の上野毛道場にあったA猪木のパネルを棚橋が再び飾る場面があります。過去にパネルを外したのも棚橋です。

多くは語られないが、そこには、過去にA猪木の呪縛やしがらみから解放されるため、道場にあったA猪木のパネルを外したものの、今はその呪縛などから解放され、A猪木を再び受け入れる棚橋の姿があり、感慨深いものがありました。

映画の終盤、棚橋が一緒に食事をする次期エース候補の海野翔太に、冗談ぽくA猪木の真似をして「お前は何に怒っている?」と言う問いに、海野は「僕には怒りはないです」と答え、その回答を聞く棚橋の表情がまた絶妙で印象的なんです。

今の若い選手は、A猪木への憧れも呪縛もなく、自由にのびのびと成長しているのでしょう。

まとめると…

否、今回はまとまりません…映画自体は、ロードムービー的な雰囲気もあり、心地いい空気感のある映画でした。A猪木は偉大であり、偉大だからこそ、反発する弟子たちがいて、今はそんな呪縛からも解放され、また新たな時代を作っていく…

A猪木が、J馬場、力道山とは違うプロレスを魅せたように。

そんな感じでしょうか…A猪木ファンの方は、是非。
それでは、また。

映画公式サイト↓



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