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【書評】金成隆一『ルポ トランプ王国』--大統領より配管工の方が偉い

 15年ほど前に英会話を習っていた。僕の最寄り駅の前に建っている雑居ビルの5階ぐらいにオフィスがあって、そこでアメリカ人のおじさんと日本人の女性スタッフ2人がこじんまりした教室を運営していた。
 おじさんは50代くらいの白人で、この仕事をする前はインテルで働いていたらしい。それで一念発起して会社を辞め、日本で英語を教えることにしたのだ。
 僕はアメリカに3年留学して日本に戻り、だいぶ経った頃で、ふだん英語をしゃべることもなく、忘れるのが嫌で通い始めたのだが、結局、英語力が伸びるというよりは、おじさんの人生ばかりに詳しくなる教室だった。
 マンツーマンで喋るのだが、歳がいってから外国に暮らす苦労や、なかなか受講生が増えない悩みなどいろいろと聞かされる。結局のところ英語で何を喋っても分かってくれる僕をカウンセラーとしておじさんは利用し始めたのだ。お金を払っているのは僕なのに。
 その時にふと話題に出たのが、ドナルド・トランプだった。おじさんはトランプが司会者をやっているバラエティ番組『アプレンティス』が大好きで、しきりに勧めてくる。You are fired!みたいな決め台詞のマネなんかもして盛り上がっている。なんとなくアメリカのビートたけしみたいな人なのかなあ、と僕は思った。だからトランプが大統領候補になって日本でも報道されるようになった時には驚いた。
 日本で報道されるトランプは、人種差別やら女性差別やら、まあそれは凄まじくて、でもなぜか人気者で、あれよあれよという間に本当に大統領になってしまった。あれ、おかしいなぁ、と思ったのを覚えている。
 アメリカでは日本よりさらに政治的公正さが重視されていて、ちょっとでも差別的なことを言う政治家やアーティストは謝罪に追い込まれ、そのあと人気がガタ落ちする決まりじゃなかったのか。なんでトランプは批判されればされるほど人気が上がっているのか。これはなかなか大きな謎だった。
 それで、トランプを支持しているのってどういう人達なんだろう、とずっと気になっていた。もちろん人種差別や女性差別が大好きで、他人への恨みに満ちた人たち、と考えれば単なる悪人である。だがそもそも一つの国にそんなに悪い人ばっかりいるわけもない。そうした僕の混乱した気持ちを解きほぐしてくれたのが本書である。
 著者の金成さんも僕と同じ疑問を抱いていた。そもそもどうしてトランプを支持する人たちがいるのか。これは実際に会わなければわからない、と言うので1000人以上に実際に会い、インタビューして、酒を酌み交わし、挙句の果てにはそうした町に住み着いて仲間になってまで彼らの心に寄り添う。もうその時点で金成さんははっきり偉人だ。
 だってそうでしょう。サンフランシスコやロサンゼルスに住むとか、ハワイに住むとか、ニューヨークに住む、という人は聞いたことがあるけど、田舎でかつ大学町でもないところに住む日本人なんて聞いたことがない。いや実際にはいるんだろうけど。それで彼らの話を上から目線で馬鹿にするでもなく、逆に彼らに取り込まれて謎のトランプ支持者になるわけでもなく、淡々と耳を傾ける姿勢が本当にすごすぎる。
 何より驚くのは、トランプを支持している白人の人々が、本当に勤勉で、倫理的で、親切で、愛情に溢れた、全く普通の人々だ、ということだ。そうした普通の人々がやがて年を取ると、自分が勤めていた鉄鋼の会社がなくなる。再就職しても極端に給料が安い。周囲の人々は職を失い、自尊心まで失い、酒やドラッグに手を出して健康を害し、若くして死んでいく。お金を持っていそうな人々は遠く海岸部や大都市に住んでいて、そもそも会ったこともない。
 そこで登場したのはトランプで、君たちの幸せが消えたのは白人ではない人々や、不法移民や、強欲で不正な金持ちなんだよ、と憎しみを煽る。すなわち、不幸の原因を他人のせいにしたい人々の心の弱さにつけこんだわけだ。それで、そうした敵を排除すればまた幸せが戻ってくるんじゃないか、と支持者たちは思わされてしまう。
 彼らは決して馬鹿ではない。むしろトランプに問題があることもわかっているし、彼に希望を託すのは間違っているんじゃないか、とすら思っている。それでも、だ。僕はこの本を読んでいてものすごく切ない気持ちになってしまった。
 人に親切に、真面目に、倫理的に、勤勉に生きている人こそ報われるべき。永久に歳も取らず、自分の持っている能力の価値も決して下がらず、健康で愛に満ちた暮らしがずっと続くべき、という彼らの気持ちはよくわかる。だがそれはもはや宗教の領域で、救世主が地上に現れでもしなければ、そうした希望は叶えられることはない。
 もちろん偽の救世主としてのトランプは、彼らを若返らせることもできないし、健康にもできないし、今まで続けてきた仕事をそのまま続けていれば高い給料が保証される、という世の中を取り戻すこともできない。だって常に世界は変わっているからね。そして変化に抵抗する人々は時代の流れに押し流されてしまう。
 こう考えてくると、キリスト教を基盤とした宗教運動としてトランプ支持が盛り上がっていることがよくわかる。そしてもちろん、支持者たちにとって政治は常に物足りないものでしかない。宗教では幻想の中で完璧な幸せを手に入れられる。しかし現実では、実際の世の中に妥協しながら、常に物足りない成果しか手に入らない。
 そうすると問題はひとつだろう。努力しても貧しさに喘ぐしかない彼らに寄り添うことを言う大統領候補はトランプしかいなかったこと、以上。学歴があまりなく、現代に通用する高度な知識もない人々も、それだけで人間としての価値までが低いわけではない。そのことを口だけではなく本気で思ってくれる政治が必要なのだ。
 マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』で、トランプ問題は学歴差別の問題だと言い切っている。学歴の高い人々が支配者として君臨し、学歴が低い人々はいくら頑張ってもチャンスが与えられない。それが問題なのだ。
 歴史的には長いことをそこまで高学歴の社会ではなく、あらゆる人に成功の機会が与えられていたアメリカは、ここ数十年で大きく変質した。だからこそ、学歴の高い、たとえばヒラリー・クリントンみたいな人に道徳を説かれても、結局、お前はわれわれを見下してるんだろう、ということになってしまう。
 そして確かに、社会は学歴が高い人だけで回っているわけではない、チャールズ・ブコウスキーが『パルプ』で言うように、大統領より配管工の方が偉い。だって水漏れしたとき大統領が来ても、役に立たないじゃないか。
 そうだ、忘れていた。あの英会話の先生はどうなったのか。結局リーマンショックで株の価格が半分になり、資産の多くを失い、もともと暗かった彼はより元気をなくして、女性スタッフの一人と再婚したあと、教室を閉じてそのままアメリカに帰ってしまった。そのあと彼がどうなったかはわからない。幸せに暮らしていてくれればいいんだけど。

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