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愛と笑いの夜

 そして私たちは、遊びに興じたり、怪物じみた恋愛や架空の宇宙を夢見たり、不平不満を言ったり、この世のさまざまな外見にケチをつけたりしながら、生きてゆくことだろう。

 アルチュール・ランボー 『地獄の季節』 


 夜道を歩いているとき、昼下がりの電車に揺られているとき、熱いお風呂につかっているとき、コーヒーを飲んで一服している時。ふと、過去の出来事が頭の中で再生されることがあります。そしてその思い出の中の自分は、あまりにもアホで、恥ずかしさで胸がいっぱいになることがあります。

 おそらく、今こうしている自分も、未来の自分が回顧して恥ずかしくなる自分かも知れません。爺さんになった自分が、晴れた日の縁側で一人回想にふけり、顔を赤くしている、という光景が容易に想像出来ます。

 そんな恥ずかしき過去を描いた『あの日々の話』という映画を観てきました。

 『愛がなんだ』のレビューを書いた時に、“あるある”が記号的に見えてむしろ実存性が感じられなかった、というようなことを書いたので、この映画が自分にどう映るだろうと、ちょっと斜に構えた状態で映画に望んだのです。結果、めちゃくちゃ楽しんでしまいました。久しぶりに映画館であんなに笑ったわ。素晴らしい密室劇であり、会話劇でした。

 某大学のサークルの男女9人が、深夜のカラオケボックスを舞台で朝まで過ごす一夜の話。劇団、玉田企画を主催している玉田真也さんの初監督作品です。そして、演劇で上演された作品の映画化で、出演者も実際に演劇に出演された役者の方がほとんどです。
 正直、大学に進学しなかった僕にとって、関係ない話だし過去に似たような出来事すらありません。18歳〜20代前半、僕はアルバイトをしながらバンド活動をしており、この映画に描かれるような大学生を忌み嫌っておりました。吉祥寺のアーケードで騒ぐ彼らを、僕はギロリに睨みながらみずぼらしい格好で歩いていました。

 なぜ、そんな僕がこの映画を楽しめたのだろう。それは、まずこの映画が舞台をカラオケボックスという限定したを舞台にしたことが大きな部分だと思います。(別にカラオケも好きじゃないです。最後にカラオケに行ったのとか10年くらい前)

 映画の舞台を限定した空間に圧縮すると、象徴性が生まれます。その空間、映画で描かれる世界は、この世界の象徴となるのです。大林宣彦監督論のときにも書きましたが、学校や病院、刑務所、会社、などなど、映画で描かれるそれらはこの世界の象徴です。『あの日々の話』の場合、それがカラオケボックスという、かなり限定した空間だったに過ぎません。よく考えると演劇だから当たり前なのか。
 その中での男女のアレコレ。これは、“あるある”ではなく、実際に“ある”なぁ、と思ったのです。人間が複数人いる場所、つまりこの世界でのコミュニケーションを戯画化して描いているだけで、皆同じようなことやってます。俯瞰すると、もう本当に、腹抱えて笑えるくらい、滑稽なのです。
 チャップリンは「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇だ」と言いましたが、この映画はまさに悲劇を時間という距離を使ってロングショットで捉え、喜劇にしているのでしょう。

 僕が何よりこの映画を観て感動したことは、こんなにも馬鹿で愚かで軽薄な大学生達を、監督や役者がひたすら純度を高めて演じ、このくだらない欺瞞に溢れた世界を、こだわりにこだわって作ったこと、です。だって、こんな人たちなんて関わりたくないし、できればこんな場なんて経験したくないですよ。そこに立ち向かうのではなくて、歩み寄る。そこに僕は愛のようなものを感じたのです。

 そして僕は、映画の中の、このしょーもないやつらのことを好きになってしまいました。現実にいたら憎むべきやつらでも、映画の中なら愛せてしまうんです。すると、現実でも憎むことなんて出来なくなってしまいます。映画が現実を越えて、自分を変容させてしまう。人間なんて愚かで滑稽だし、世界は欺瞞に溢れてる。それでも、まぁ、いいかな、と思わせてくれる素晴らしき映画でした。

 クライマックスに登場する太賀(カラオケボックスの店員)の、あの言葉にすべてが詰まっているのではないかな、と思います。こんな長ったらしく論じるより、あの一言で全てが表現されているのではないかなと。

 渋谷ユーロスペースでのロングラン上映を経て、現在吉祥寺アップリンクで上映中。6/27(木)まで。必見だと思います。

https://anohibi.com/

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