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ぼくはさびしんぼう

 「好きな映画は何ですか?」「好きな映画監督は誰ですか?」
 映画好き同士で必ず交わすこのやり取り。僕は決まって、
「大林宣彦監督が好きです」「さびしんぼうと転校生が一番好きな映画です」
 と答えます。きっと、これは僕が歳を重ねてヨボヨボのじいさんになっても変わらないでしょう。
 なぜ、僕はここまで大林宣彦監督が好きなのでしょうか。今から百年以上も前、エジソンが映写機を発明し、リュミエール兄弟がシネマトグラフを使い映画を創作してから、映画が生まれ、星の数ほどの数えきれない映画がある中で、なぜ、いびつさ、不自然さすらある、大林監督の映画が好きなのでしょうか。尾道で製作された、僕がオールタイム・ベストにあげている二つをピックアップして、綴ろうと思います。

 眉間にしわを寄せて論じるつもりは毛頭ございません。映画愛に溢れ、とてもロマンチックで、唯一無二の美を持つ映画を創作する大林監督への思いを、綴りたいのです。余命三ヶ月を覆し一本の映画を完成させた大林監督を讃えたいのです。
 あまり知らない?大林監督の映画を観たことない?押し付ける気はありませんが、こんなにも美しい映画をまだ観たことないのが、逆に羨ましいくらいです。そして、老いてなお、作る映画が若々しくなる監督を、僕は他に知りません。是非、掛け値無しに独創的な映画を作る監督の作品を観て頂きたいです。

 大林監督の映画を形容するのであれば、ロマンチック、ノスタルジック、センチメンタルという言葉がまず浮かびます。特に僕の好きな大林監督の映画はそれらの要素が非常に強いです。甘美な、見ているだけで陶酔させてくれる、ロマンチシズム。そして、胸を掻きむしるようなノスタルジィ。

 しかし、大林監督は古里をノスタルジィで撮っているつもりはなく、結果としてノスタルジックに映るだけで、観ている人が感情移入するからです、と言っています。
 なぜ、ノスタルジィを感じるのか。そこは、失われた『何か』が存在する世界だから、なのではないでしょうか。失われた、あるいはそこにあるはずだった『何か』、あってほしい『何か』。それらを心が喚起する時に、人はノスタルジィを感じます。それは、そこに収まるはずの何かがない、空虚さを感じること。『さびしい』ということです。
 大林映画における『さびしさ』は、とても重要な要素です。その感情は、どれもが監督の個人的な思いです。とりわけ自伝的要素の強い『さびしんぼう』では色濃く現れています。監督は「わたしが作る映画はどれも『さびしんぼう』と名付けてもいいのです」と語ります。

 ところで、僕は「世界のおわり! ドッカーン!」という仰々しいテーマよりも、スケールの小さい、ミニマルな世界で個人の思いが深く掘り下げられる映画が好きです。映画の中の世界を限定した空間として描くと、そこに象徴性が生まれます。
 皆が知ってる分かりやすい映画で例えると、『ショーシャンクの空に』は刑務所の話ですが、あの刑務所は僕らが生きる場所、会社や学校など、もっと大きく言えば社会のメタファーであり、その中で生きるには、そしてそこからの脱出、という話に転化できます。これは、映画の舞台を学校や病院に置き換えたり、一つの街に置き換えたりされ、様々な作り手によって繰り返されてきました。
 

 大林監督は、街を舞台に映画を作ります。その街が尾道であれ、長岡であれ、唐津であれ、そこは観る人が住む街になり、そこで暮らす、心にさびしさを持つたちの物語となります。そこには、監督自身の個人的な思いが深いところに核として存在します。それは、難しい思想や複雑な哲学ではなく、誰もが持っている、普遍的な感情でもあります。
 そうして、映画の中の虚構の街にリアリズムが生まれ、虚実が渾然一体となり、「この物語は、僕の物語であるかも知れない」という親近感が湧くのです。僕にとって大林監督の映画はそういうものなのです。

 生きていると、さびしくなる事は多々あります。別に孤独を気取るわけじゃありません。フィジカルで表層的なさびしさではなく、自分が失ったものを思う時、自分の中の空洞を感じるとき、そこにあって欲しいけど、無いものを思うとき、「ああ、さびしいなぁ」と思うのです。僕は、あります。

 僕は、夜が好きです。宵闇が町にとっぷりと溢れ、上空では月明かりが揺れる、静かな夜。そんな中考え事をしていると、心の中に様々な映像が、浮かび上がります。もう戻る事ができない、過去の出来事。別れてしまったアイツの事。もう何年も会ってないアイツの事。死んでしまったアイツの事。胸が裂かれるほど苦しく悲しかった出来事。喜びを分かち合い、歓喜した事。それらの情景が、痛みを伴う感傷や甘美なノスタルジアと共に心のスクリーンに映し出されます。大林監督の映画を観ると、そんな時の気持ちに、なるのです。

 『さびしんぼう』では、冒頭で尾美としのりがファインダーの向うに富田靖子を発見する、というシークエンスから、僕はもう胸がいっぱいになります。過去の叶わなかった思いと、現在の叶わない思いが、雨の中重なるカットは、胸が締め付けられるほど切なくなります。ラスト、ショパンの『別れの曲』が流れる中、叶わなかった想いを享受する尾美としのりの表情が映し出されると、僕はもう涙が止まりません。(よく考えると『さびしんぼう』は、倒錯的な関係が描かれている非常に恐ろしい話でもあるのですが、そのあたりも非常に好きです)

 『転校生』では、「さよなら、わたし!」というセリフに全て集約されているのではないでしょうか。成長し、大人になると言うことは、他者を受け入れるということ。そして、これまでの自分に別れを告げること。もう戻らない、あの頃の自分。大林監督は、そんな自分の想いを、己の空白を、失ったものやもう戻らないものへの憧憬を撮り続けているのかも知れませんね。あとは、少女への憧憬か(笑)。転校生のラストカットはそういう意味だと、僕は思います。「これが、僕が映画を撮るということだ」と言っているように、僕には聞こえます。

 自主制作時代の映画となると、監督のロマンチシズムは過剰なまでに映画の中に盛り込まれています。一九六六年に十六ミリで撮った『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』は甘く夢見るような陶酔感に溢れています。映像としてもかなり実験しており、刺激的なフィルムです。ちなみにYoutubeにアップされているので、ご興味ある方は削除される前に観てみて下さい。

 話は変わりますが、僕が好きな監督でアキ・カウリスマキという人がいます。カウリスマキも、小さな町で暮らす人々を描くことが多い監督です。『マッチ工場の少女』の撮影中、小津安二郎について語る時にこんな風に言います。
 「今日の撮影にこの古い工場を選んだのは、わたしは未来よりも過去を見つめるのが好きな人間だからです。そして小津さん、あなたもそうだったに違いないと思います」

 僕は、大林宣彦監督もそうに違いないと思います。そして僭越ながら、僕もそんな人間のようです。失われた何かを思い、その空白を感じ、そこに何を詰めるのかが、生きる上でとても大切なことなのです。

 最後に、『さびしんぼう』の中の、セリフで締めようと思います。

 「ひとを恋することは、とってもさびしいから、だからあたしは、さびしんぼう。でもさびしくないひとより、あたしずっと幸福よ」

 夢想家? ロマンチスト? ナルシスト? 中二病? いやいや、僕は、さびしんぼうです。きっと、爺さんになっても。

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