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【文学紹介】(続き)除夜と込み上げる興奮と 蘇軾:守歳

1:前回の続き

前記事 【文学紹介】除夜と込み上げる興奮と 蘇軾:守歳からの続きになります。

ユーモアな知性に富んだ文化人、蘇軾の詩を見て行きましょう。

2:守歳

【原文】
欲知垂尽歳,有似赴壑蛇。
修鱗半已没,去意誰能遮。
況欲系其尾,雖勤知奈何。
児童强不睡,相守夜歓嘩。
晨鶏且勿唱,更鼓畏添撾。
坐久灯燼落,起看北斗斜。
明年豈無年,心事恐蹉跎。
努力尽今夕,少年猶可夸。


【書き下し】
知らんと欲す 尽き垂(なんな)んとする歳の
壑に赴く蛇に似たる有るを。
修鱗は半ば已に没す、去意誰か能く遮らん。
況んやその尾を系がんと欲するをや。
勤むると雖も奈何(いかん)すべきかを知らん。
児童は強いて睡らず、夜の歓嘩を相守らんとす。
晨鶏且く唱うこと勿れ、更鼓撾(う)つこと添(くわ)うるを畏る。
座すること久しくして灯燼落ち、起ちて看る北斗の斜めなるを。
明年豈(あに)年無からん、心事蹉跎たるを恐る。
努力して今夕を尽くさん、少年猶お夸(ほこ)るべし。

【現代語訳】
今まさに終わろうとしている年の瀬は
まるで谷に這う蛇のよう。
長い鱗はもう半ば穴に姿を消している、
一体誰が彼の意思を妨げられるだろう?
まして尻尾を繋ぎ止めるなど、どうしてできようか
努力しようとせんなき事だ。
子供達は必死で眠るまいとし、夜の喧騒を見つめている。
朝を告げる鶏よ、今宵はしばらく鳴いてくれるな、
時刻を告げる太鼓の音が聞こえるのが恐ろしい。
長く座っていたためか灯燼はすでに落ちてしまい
立って夜空を見上げれば、北斗七星も傾いた。
新しい年が来ないことなどないのだろうが、
時の虚しく過ぎゆくのを恐れている心がある。
ただ今日は今日の夕を過ごそうではないか、
若い力にはなおも誇るべきものがある。


3:作品解説

今回の詩は五言古詩と呼ばれる形式です。

4句からなる絶句や8句からなる律詩と異なり
句数や音韻規則が比較的自由な形式です。

蛇(じゃ)、遮(しゃ)、何(か)
嘩(か)、撾(た)、斜(しゃ)
跎(た)、夸(こ)という感じで
偶数句末で押韻しています。

この作品は大きく3つのパートに分かれます。
「欲知垂尽歳〜雖勤知奈何」の部分(便宜上前段とする)
「児童强不睡〜起看北斗斜」の部分(便宜上中盤とする)
「明年豈無年〜少年猶可夸」の部分(便宜上後段とする)

【前段】

まずは前段。年の瀬の所感を述べています。
この部分では過ぎ去っていく年を谷を這う蛇に例えています。
「垂(なんな)んとする」は〜しようとしている、という意味で
「尽き垂(なんな)んとする歳」はまさにもう終わろうとしている歳のことになります。

長い1年という年月をニョロニョロと動き去っていく蛇の姿と重ねて表現しています。
「修鱗」の「修」は長いという意味です。長い鱗なので蛇の体です。
巣穴に戻るからでしょうか、体はもう半分以上穴に入ってしまい
頑張って掴んで止めようとしてもスルッと逃げられてしまいます。

「行く川の流れは絶えずして。。」のように
とどめ難い時の流れは水として表現されることが古今問わず多いですが、
蛇の姿に例えるのは珍しいと言えます。

by Karsten Paulic @Pixabay

掴もうとしても逃げられる感じや、
ニョロニョロとゆっくりしかし着実に進んでいく様子がいつの間にか過ぎ去っていく時間を捉え難さを絶妙に表している点も面白いです。

【中盤】

続いて中盤。ここでは視点が変わり、大晦日の子供達の様子が表現されています。
「強いて」は無理やり、無理して。相守るの守るはガードではなく見つめるの意味です。
大晦日の日は中国でもみんなが集まって酒を飲んだりご飯を食べたりして、
寝ずに年の変わり目を待つ習慣があるようで、このことを「守歳」と言います。
なので子供も頑張って起きているんですね。

このシーンは自分自身もとても共感できます。
眠たいんですが、特別な日だし夜更かししていい日なので起きようとするんですよね。歓嘩は賑やかな喧騒のこと。夜通し騒いでいます。

by b13923790 @Pixabay

そんな中でこの夜がもっと続いてほしいと願います。
鶏が鳴くと朝になるから鳴かないでほしい、
時刻を告げる太鼓は鳴らないでほしい。

特別な夜が終わるというだけでなく、
ゆく年への名残惜しさがあるためでしょう。


しかし夜は少しずつ更けていきます
灯燼は蝋燭の燃えかす、北斗は北斗七星です。
夜も深まって時が確実に経過しているのを匂わせています。

by51581 @ Pixabay

【後段】

最後の後段部分。
こうやって時が過ぎ去っていくことへの恐れと
新年に向けた気概とが同居しています。

「蹉跎」とは時が虚しく経過すること。
来年もきっと同じようにやってくるんだろうが
虚しく過ぎ去ってしまうだけになるのが怖い、という感じでしょうか。


最後の「少年猶可夸」の少年は若者、夸は誇るです。
「いや、それでも今日を楽しもう。我々はまだ若いのだから」という言葉で
最後が締めくくられています。

4:最後に

この詩が書かれた背景には、当時蘇軾が陕西省の地方に派遣されており
汴京の父や弟と一家団欒を望めず、弟にあてて送った、という事実があります。

詩の中で最後に見えた「来年も虚しく過ぎ去るのが怖い」とは
来年も家族と会えないかもという心配や自身の立身出世など様々な不安が背景にあるのでは、と想定できます。

本来なら遠く家族と離れた場所で一人で新年を迎えるため
非常に寂しい気持ちを表現するはずです。

ですがこの詩にはそういった孤独や寂しさは顔を出さず
過ぎ去る時間を蛇のようと表現し(ともすればちょっと面白おかしい表現です)、夜更かしを頑張る子どもの姿など夜を楽しむ様子が描かれ
色々不安はあるがまずは今宵を楽しもう、と楽観的な形で締めくくられています。

悲しみを止め、目の前の生に楽しみを見出し前向きに生きようとする姿勢は
宋詩の、特に蘇軾に特徴的なスタンスでもあります。


この詩は彼の比較的若い頃の作品ですが
彼自身、その後政治闘争に巻き込まれて何度も左遷をくらい、その度に逆境に立たされます。

そんな中でも、彼の詩は絶望を描くわけでも暗い影を落としすぎるわけでもなく自分の発見や思想を時にユーモアを交えながら表現していきます。
また比喩や擬人化も上手で、それが彼の詩の面白さでもあります。


僕の知り合いで古典が好きな中国人の中には
蘇軾が一番好きだという友人も数多くいます。

思想のしなやかさや柔軟さ、人としての魅力が詩を通じて伝わってくる感じがとてもして、僕も蘇軾は好きです。
解説付きの書籍も多数出ているので、興味のある方はぜひ読んでみてください!

それでは今回はこの辺で。
良いお年をお迎えください。

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