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忘れ去られた名盤ガイド

名盤。

かつて日本中のクラオタたちが胸をときめかせた名盤。

侃侃諤諤の議論が巻き起こった名盤。

その名盤も、『レコ芸』が休刊になり、巷で話題に上ることが減ったような気がする。

飽きずに懲りずに「名盤300」といったマンネリ企画を繰り返していた『レコード芸術』。

はたしてその意義はいったい……?

クラシックに限らず、世の初心者は取っ掛かりがわからない。「何から聴けばいいのかわからない」というやつだ。

そこで役に立つのが目利きのセレクト。ガイドブックはクラシックに限らず、ジャズもロックも、映画も小説もある。

ただし、一人の権威的評者によるガイドブックは要注意だ。

名前は出さないが、日本にはポリーニよりハイドシェックを推した音楽評論家がいた(どちらもピアニスト)。

ジャズのガイドブックも読んだが、後藤雅洋はオスカー・ピーターソンが嫌い。

このようにガイドブックは評者のバイアスに左右される危険性が否めない。
そういう意味では、面白味には欠けるが複数の評者によるガイドブックが無難だろう。

私が宇野功芳の案内でクラシックの森に迷い込んだ話は散々書いたが、まだ聴いてない名盤は山のようにある。

宇野さんの紹介した名盤もだが、ハイティンクやヤンソンス、パールマンやルプーなど何となく聴きそびれて今に至っているアーティストの何と多いことか(実演ではなく音盤のことです)。

いまはサブスクで昔の名盤に簡単にアクセスできるが、じゃあ聴くかというとお馴染みのブランデンブルク協奏曲とか自分の好きな曲ばかり聴いていて、己のキャパの狭さを痛感する。

さて、現代のクラシックファンで特定のアーティストの追っかけの人がいる。

フジコ・ヘミングなどその筆頭だが、かてぃん(角野隼斗)、亀井聖矢、牛田智大などは固定ファンが多そうだ。

彼らのファンは自分の推しを神格化して、推しのコンサートにしか行かない人が多いのではないか。
フジコも行くし内田も行く、という人はあまり聞いたことがない。

推しを作るのはいいのだが、亀井聖矢の定番のアンコールであるリストの「ラ・カンパネラ」をいろんなピアニストで聴き比べよう、とはおそらくならない。
聴き比べはクラオタの入口であるから勿体ない話だ。

名盤ガイドは名演奏を知るよりも前に「何の曲を聴くべきか」という名曲ガイドにもなっている。
一枚ずつ聴いていくことで、音楽史の流れも何となく掴んでいるのだ。

推しの演奏だけ聴くという「点の鑑賞」ではなく、系統立てて聴く「線の鑑賞」で、芸術鑑賞は何倍も深くなる。

私自身の話で言えば、ジャズの名盤であるキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」とハンク・モブレーの「ソウル・ステーション」に大層感動した。

ガイドを参考にいろいろ聴いてみて、自分の感性に引っかかったものがあれば、そこからそのアーティストを深掘りしていけばいいのだ。

最近は「みんな違って、みんないい」などと軟弱なことを言い出すクラシックファンもいるが、よい演奏とそうでない演奏はれっきとして存在している。

クラシック業界ではレコード・アカデミー賞があったし、本なら読売文学賞、演劇なら読売演劇大賞がある。
オーケストラの客演指揮に何度も呼ばれる人もいれば、一回呼ばれて二度と呼ばれない人もいる。

オタクよりプロの方が厳しい評価で動いている。

そんな芸術の世界において、本物を見極めるためのエピソードを二つ紹介する。

一つは映画評論家の淀川長治が無名時代の永六輔にステーキをご馳走した話。
一流ホテルの飛びきり美味しいステーキと安い食堂の固いステーキ。

それを食べさせて、「君は最高のステーキと最低のステーキを知った。これでどんなステーキを食べても自分の舌で判断できるね」と言ったという。

もう一つのエピソードは小林秀雄が紹介していたのだと思うが、昔の骨董屋の主人は丁稚にひたすら本物の骨董品ばかりを鑑賞させ、本物を見る目を養わせたという。

名盤も、プロの目利きたちが認める正真正銘の本物。
それが最近顧みられなくなっている。

文芸の世界でも古典が顧みられなくなっている。
ただの小説ファンなら最近の本だけ読んでいればいいだろうが、文芸評論家ともなれば古今東西の古典を読んでいて当たり前。
傑作を自分の中にいくらストックしているかで、審美眼は変わる。

とすれば、本棚で埃をかぶっている名盤ガイドをいまこそ取り出して、まだ聴いてない名盤を聴いてみようではないか。

名盤を一枚でも多く知ることが、あなたの審美眼の醸成に役立つのだから。

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