ティッシュにくるまれた希望の話——伝えられないかもしれないお礼の言葉
今日まで42年生きてきて、その間いろんな人に手助けされてきた。だが、お世話になった人たちに必ずしも満足のいくお礼を言えてこなかった。
ものすごくお世話になって20年たった今でも感謝しているのに、相手のフルネームも知らない。知っているのは20年前の顔と名字だけだ。
私がお礼を言いたいのは、入院していた精神科病院の患者友達のお父さんである。当時白髪で60代に見えたから、今は80歳を越えているだろうか。
大学2年の冬休み、私は精神に異常をきたして、埼玉の精神科病院の閉鎖病棟に医療保護入院していた。
「医療保護入院」というのは、本人の意思に関係なく、保護者と主治医の判断で強制的に入院させるというもの。自分が病気だという認識(病識)が持てない統合失調症などでよく用いられる入院形式だ。私もまさにガチの統合失調症だった。
大学2年になって昼夜逆転生活がひどくなり、出席率が悪いので前期の段階で単位を取るのを諦めてしまった。週3回夕方から練習のある合唱サークルだけが社会との接点だった。
精神科には大学に入る前から通院していた。出された薬との相性が悪かったのだろう、何回も躁転(ハイテンションな躁状態に陥ること)を起こし、頭が2日間フル回転して寝れなくなってしまった。
頭に次々と湧いてくるアイデアを忘れないように必死でメモをとった。やがて現実離れした妄想が脳内が支配した。
一人暮らししていた大学近くのアパートで、深夜に自分の身体が異様に臭く感じた。体調が悪くて数日銭湯に行けてないせいだと思ったが、今考えると統合失調症の症状である幻臭だったかもしれない。
濡れタオルで身体をゴシゴシ拭いても一向に臭いが取れない。やがて無性にお腹が空いたので、桃の缶詰を開けて手掴みでむしゃむしゃ食べているとハッとした。
「脳の司令塔がおかしくなってる!」と自覚したのだ。慌てて布団に戻って包まったが、寒くてたまらない。真冬にスウェット一枚でいたから当たり前だが、現実を冷静に判断できなくなっていた。
携帯で119番通報をした。夜中だからか、思ったよりサイレン音を響かせずに救急車がやってきた。アパートの玄関に出て行って、救急隊員に「精神病院に収容してください!」と訴えた。しかし隊員は困惑した様子で、「それは警察でないとできない」と言う。
携帯を取ってくるように言われ、救急隊員は母と話した。自宅まで送ってもらえるのかと期待したが、「救急車はタクシーではないから」と言われて帰ってしまった。私は相当混乱した状態で、部屋の鍵を閉めたか確認もしないままタクシーに飛び乗り実家へ向かった。
その後、数日実家で療養していた。両親は日中仕事で、妹も大学の後バイトに出かける。危ない精神状態なのに一人の時間が長かった。
深夜に救急車を呼んだのが新聞の社会面に載ったと思い込んだ。向かいの家の窓に監視カメラが設置され、24時間部屋の様子が2chに中継されていると思った。
私が家に潜んでいることは決してバレてはならず、給湯器の電源を入れたりテレビの特定のチャンネルを見続けることで外部と交信できていると思った。
ある日「笑っていいとも」を見ていたら、ゲストの高嶋政宏が舞台「黒蜥蜴」(美輪明宏演出)の宣伝で出ていた。16歳のときに初めて観て、その後美輪明宏の舞台はすべて観るくらい傾倒するきっかけになった舞台だ。私が見ているせいか、高嶋政宏の話し方が不自然に感じた。
妹の部屋で支離滅裂な話をする私を心配しつつ、妹はバイトに出かけ、家には私一人になった。その間、家の上を旋回するヘリコプターの音が私の耳に聞こえていた。
それも妄想からくる幻聴だったのだろう。なのに、私にはテレビが今まさにこの家の様子を上空から生中継していると思い込んだ。
私はいいアイデアを思いついた。そのとき着ていたグレーの無地のスウェット上下はまるで囚人服に見えた。この格好で妹の部屋にある「アレ」を持って出ていったら、テレビの前の視聴者はアッと驚くに違いない。
また119番に電話した。今度は救急車を待ち構える余裕があった。その間もヘリの音は聞こえていた。
やがてインターフォンが鳴り、私はくまのプーさんの大きなぬいぐるみを抱きかかえて玄関の扉を開けた。大勢の報道陣が待ち構える中、ディズニーキャラクターを抱えた囚人の救出劇は視聴者を鮮烈に驚かせるに違いない!
と思って扉を開けたら、救急隊員が待っているだけだったのでびっくりした。また携帯を取ってくるように言われ、隊員が母と話したら、母は私の体調を不安視して仕事を早退して最寄り駅まで帰ってきたところだった。
通常なら救急車が精神科病院に連れていくことはしないらしいが、大の大人がくまのプーさんを抱っこして現れたので歴戦の救急隊員も只事ではないと思ったのだろう、母も同乗した救急車であちこちの病院に問い合わせをして、日が暮れたころにようやく見つかった病院に私たちは到着した。
はっきり記憶していないのだが、母によると私は医師に「美輪さんが! 美輪さんが!」としきりに何か説明していたらしい。
その後看護師に連れられて案内された病室は、診察室からはだいぶ離れた場所にあって、むき出しの便器とペラペラの煎餅布団があるだけの土牢とも言うべき部屋だった(いわゆる「保護室」というやつだ)。
そのとき感じたのは「何でこんなとこに入れられちまったんだ!」ではなく、大きな喜びだった。「美輪さんにとって長崎の被曝体験が人生の原点になったように、僕の人生もここから始まるんだ!」というものだった。
冒頭で「ガチの統合失調症」と言ったのは、このように病識がないのが特徴だからである。
やがて看護師が持ってきた白い錠剤(抗精神病薬や睡眠薬だろう)を飲んだ私は眠ってしまい、後から様子を見に来た父が「こんな所にいたらショックを受ける」と思い、民間の救急タクシーで家に連れて帰った。
翌朝、私は両親の車ですぐに医療保護入院させてくれる埼玉の精神科病院へ連れられていき、その場で入院が決まった。
このときの主治医に私は散々な目に遭わされた。今もそうなのかもしれないが、精神科病院(特に閉鎖病棟)では主治医が絶大な権限を握っている。患者が退院できるかどうかは主治医の胸三寸なのだ。
医者としても人としてもまともな主治医ならともかく、そうではないケースもある。そのために患者の人生が犠牲になることもある。
私の主治医は70代に見える人相の悪いおばあさんだった。他の患者から「なかなか退院させてくれないらしいよ」と悪評高い人だった。
私は混乱したまま救急車で運ばれ、土牢みたいな部屋に入れられ、今どこにいるのかがよくわかっていなかった。病室の名札やスリッパにはたしかに自分の名前が書いてある。しかし、入院治療を受けているという認識がない。
家族と会えていれば今までの経緯を聞けただろうが、私が動揺するといけないという理由で、家族との面会は最初に2、3回あったのみで主治医に禁止されてしまった。
私は混乱から抜け出す術がなかった。考えてみてほしい。ある朝、あなたが気づいたら病院に収容されていて、職員に理由を問いただしたり「出してくれ」と訴えても相手にされなかったとしたら。
自分は精神病じゃないからそんなことはありえないと思っていないだろうか。あなたは仮に精神病だったとしても「自分は精神病じゃない」と確信しているのだ。理由がわからないまま収容される恐怖を感じてもらえるだろうか。
私は母が買ってくれていたトイレットペーパーに鉛筆で今までの経緯を書いてはナースステーションに持っていって看護師に見せていた。それくらい混乱していたのだが、主治医から丁寧な説明はなかった。
診察の曜日は決まっておらず主治医の気が向いたときで、それもナースステーションの隅で行われた。面倒くさそうに私の話を聞いていた。
大量の抗精神病薬のせいで、私の顔はすっかりこわばっていた。表情がなくなり、半開きの口からはよだれが垂れている。
洗面所でそんな男を目にするたび、「これが自分か」と思うと悲しくて仕方がなかった。しかし、薬のせいで感情が麻痺して涙も出ない。泣くことすらできない現状がつらくてたまらなかった。
「合法的に廃人にさせられている!」と思った。家族は病院の中の様子がわからないから、適切な治療が行われていると信じている。看護師は主治医の方針に意見できない。主治医に薬の副作用のつらさを訴えても、「あなたは病識がない」と言って知らん顔。自分がどんどんダメにされていくのをただ眺めているしかなかった。
たまりかねて薬を飲んだふりしてトイレの個室で吐き捨てたことも何度かあった。それでも全部飲みたくないとまでは思わなかった。
効果のある薬なのかもしれない。ただ、自分には「量が多い」だけだ。
主治医には恵まれなかったが、やがて大切な患者友達ができた。私より9歳上のAさんだ。柔和な顔立ちで、ムーミンのようなお腹をしていた。彼の腰を掴んで映画「タイタニック」の真似をしたり、兄弟のようにふざけて遊んだ。
彼の存在はつらい入院生活で心の支えだった。彼の先生は私の主治医より話を聞いてくれそうな中年男性だったが、退院の許可はなかなか下りなかった。「親が心配して退院させてくれないんだ」と悲しそうに言っていた。
Aさんは私と違って、毎日のように両親がお見舞いに来ていた。自営業だから日中でも来れるらしい。差し入れのフルーツゼリーを食べているAさんが羨ましかった。
ある日、Aさんが両親を紹介してくれた。仲のいい患者友達と話してくれたようで、「いつも息子によくしていただいて、ありがとうございます」と黒縁の眼鏡をかけた白髪のお父さんが頭を下げた。お父さんもお母さんも人のよさそうな優しい顔をしていた。
Aさんは看護師に隠れてお菓子をくれたりもした。患者同士の物のやりとりは厳禁だ。彼の優しさが嬉しかった。
患者が使える電話は病棟にある公衆電話1台だけ。テレフォンカードはナースステーションが管理する。毎日のように母に電話した。母は会社員なので、電話に出れないときも多かった。
ふだんは患者仲間と和やかに話しているのに、ロビーで国会中継を見ながら自分のせいで審議が停滞していると感じたりする妄想もまだ残っていた。ちょうどイラク戦争の真っ最中で、テレビや新聞のニュースに現実感を持てずにいた。
あるとき猜疑心と不信感の塊になった私は、看護師の目を盗んで新聞のラテ欄に書いてあったNHKの番号に電話をかけた。女性オペレーターに「記者会見したい」と訴えた。不当に収容されている誤解を解いて、身の潔白を証明したいと思ったのだ。
会見したい理由を話していると相手が困惑している様子だったので慌てて切り、今度は119番に電話した。事情を話すと「どこからかけてるんですか?」と聞かれ、「病院です」と答えると驚いていた。看護師に代わるように言われ、いつも親身に相談に乗ってくれる若い女性看護師が平身低頭謝っていた。
その日から電話も禁止にされた。面会も依然禁止のままなので、外部とまったく連絡が取れなくなり、私はすっかり孤立してしまった。
母が差し入れを届けに来ても、通用口の扉の小窓から覗くことはできても対面は許されない。後になって母に聞いたら「恨めしそうな顔で私を見ていたのが忘れられない」と言っていた。
母には映画「ショーシャンクの空に」の原作小説を差し入れしてほしいと頼んだ。冤罪で刑務所に入れられた男が独房の壁を長年掘り続けて脱走する話だ。
たまに出られる中庭の高いフェンスをよじ登って脱走しようか本気で考えていた。孤立無援で追いつめられていた。
ある日、ロビーのソファーでAさんと両親がテレビを見ながら話しているのを後ろから見ていた。どんな顔で見ていたかはわからない。憔悴しきった顔だったかもしれない。
ふと気づいたら、お父さんがこちらを向いて立ち上がり、廊下を歩きながら目で合図を送る。何だろうと思いながらついていくと、お父さんがトイレから出てきた。後に入ると、窓枠のところに大きなティッシュの塊があった。
開けてみたら、飴やチョコレートやたくさんのお菓子だった。慌てて病室に持ち帰った。お菓子には手紙が添えられていた。
K君へ
気楽に 気楽に
おひさまに命をいただいた野に咲くスミレの様に
地に生をもらった野草の様に
生きていきましょう
ロビーのお父さんのところへ行ってお礼を言おうとしたら、「二人だけの秘密だよ」という顔をした。
ティッシュのお菓子はもう一度あった。そのときも手紙が添えてあった。
K君へ
静かに 静かに 静かに 過ごしましょ
人に負けてもいいでないですか
自分に克てばそれでいいでないですか
今は一時のおやすみです
心静かに過ごしましょ
病院にバレたら息子の立場が悪くなるかもしれないのに――。
このとき抱いた感情が「感謝」だったのか「驚き」だったのか、今思い返してもはっきりわからない。
唐突に予想外の出来事に遭遇したせいで、感情の記憶が飛んでいるのかもしれない。
それくらい私にはびっくりする出来事だった。
退院のきっかけは思いがけないところから舞い込んだ。家族と面会謝絶でつらいと患者仲間に話したら、「ハガキなら出せるかもよ」と教えてくれた。ナースステーションに預けてある小遣いで、看護師にハガキを数枚買ってもらった。
久しぶりに鉛筆を握ると薬の副作用で力が入らず、小さくて弱々しい文字しか書けない。それでも気力を振り絞って母宛てに何枚もハガキを書いた。
受け取った母は仰天したそうだ。息子がそんなつらい思いでいるなんて露ほども思っていなかったらしい。
病院のケースワーカーに母が事情を話すと、「主治医の変更も可能」と教えられたという。ハガキを出したことを知った主治医は「お母さんが心配してるから『僕は元気です』って手紙出しなさい!」と私に言った。事前にバレていたらどうなったかと思うと恐ろしくなった。
主治医が代わると、退院の話がすぐに決まった。Aさんとは退院した後も仲よく友達付き合いしたかった。「連絡先を交換しませんか?」と言ったら、彼の返答は「ごめん。病院だけの付き合いにしたい」だった。精神科に入院していた過去は消してしまいたい様子だった。
私の退院日、Aさんのご両親もいつも通り来ていた。母と二人で皆さんにお礼を言った。Aさんは浮かない顔をしていた。退院の見通しが立っていないのがつらかったのだと思う。
入院していたのは2か月半だったが、出口の見えない毎日で、1年以上にも感じた。
退院後に一度だけAさんをお見舞いに訪ねたことがある。駅前のパン屋で差し入れを買っていったが、受付で「Aさんは外泊中」と言われた。本当にそうだったのか、会いたくなかったのかはわからない。
それからはお見舞いに行くこともなく、彼にも彼の両親にも会っていない。
それから20年が経過した。Aさんのお父さんにお菓子と手紙のお礼を言いたいが、居場所がわからず言えずにいる。テレビを通してなら本人に伝わるかもと思って、NHKの「のど自慢」に理由を書いて応募したこともある(もちろん落ちた)。
便箋の手紙はまだ手元にある。入院中にもらった家族や友人からの励ましの手紙もあるし、自分が出したハガキもすべて取ってある。
20年経ったのでさすがに遠い昔の出来事になってしまったが、2023年の今でも2003年に私が味わった孤独や恐怖に震えている大学生がどこかの精神科病院にいるかもしれない。退院できる状態なのに受け皿がないせいで退院できない「社会的入院」は今も日本にたくさんあるのだ。
Aさんのお父さんに手紙を書くとしたらどんな内容になるだろう。この手記の最後はその手紙で締めくくりたい。
※
Aさんへ
2003年、入院していた埼玉の精神科病院でお世話になったKです。
病院に内緒でお菓子をたくさんくださいましたね。
そのとき頂いた手紙は今も大切に取ってあります。
あれから20年たって、僕は42歳のおじさんです。
精神科病院はあの後2回入院しました。開放病棟ですけどね。
なかなか体調がよくなりませんでしたが、8年前からいくつかの就労支援事業所に通って障害者枠での就労を目指しています。
一人暮らしを始めて8年たちました。
入院していたころより見違えるように元気になりました。
あのころの僕は家族と面会謝絶で孤立していました。
一人ぼっちでした。
だから、Aさんの優しさが人一倍身に沁みました。
息子さんにもお世話になりました。
僕が電話を禁止されてるときに、お願いしてこっそり母に電話してもらいました。
でも間違えて僕の番号を伝えてしまったので、留守電になっちゃったんですけどね。
とても優しい息子さんでした。
Aさんにお会いして、20年前のお礼を言いたいです。
その節は本当にありがとうございました。
絶望のどん底にいた僕にAさんが希望を手渡してくれたのです。
僕もいつか誰かにその希望を手渡すことをお約束します。
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