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良質な対話とは

今日は私にとって話すことの重要性をしみじみ感じる一日だった。

「話す」と一言で言っても、いろんな話のパターンがある。
今回は「お互いが話す。お互いが聞く」スタイルについて書きたい。

「相手の話に興味が持てない」と悩んでいる人をテレビで見た。
ただ、親しい友人の話には質問したりできるけど、どうでもいい関係の人の話の場合だったりする。

私なんかは「無理に興味持たなくていいのでは?」と思うのだが、職場では親しくない人たちと無難な雑談をしなくてはならず、それに困るということなのだろう。

女性に多い悩みなのかもしれない。おそらく初対面の女性を二人待合室に一時間待たせておくとどこかのタイミングで話し出しそうだが、男二人ならたぶん話しかけない。
必要がなければいつまでも話しかけないで平気なのが男で、二人いて長時間黙っているのに苦痛を感じるのが女性(おそらくだが)。

興味のない相手の話に興味を示すのはテクニックの領域だろう。

私はもともと自分の話ばかりする性格だった。
それがあるときから聞き役に回るようになったのにはいくつか理由がある。

①いつも「うんうん」とよく話を聞いてくれていた友人に話を確かめてみたら、ほとんど聞いてなかったのがわかった。

長い話を集中して聞き続けるのは疲れるものだ。
その友人は注意力散漫が特性だったのでなおさら話が頭に入っていなかったようだ。

②なぜ自分の話ばかりするのか、原因がわかった。

これは8年前に最初の就労支援事業所に通っていたころの話で、悩みを延々と職員に話して聞いてもらっていたのだが、あるとき職員に促されて「なぜ自分の話ばかりしたがるのか」を考えた結果、「相手の話に興味がないから(相手に興味がないから)」とわかって愕然とした。

③3年間やった当事者活動で、傾聴の勉強をした。

といっても図書館でいろいろ本を借りて読んだだけだが、電話相談を2年やったので(めったに電話が鳴らなかったが)、相手の悩みを受け止める中で「聞く」行為について考察した。

自分が話すとき、話している内容は自分がすでに知っていることだが、相手の話は自分にとっては未知の内容や考えだったりするので本来新鮮で刺激的なはずである。

相手の話を奪ってまで自分の話をしたがる人は「相手の話より自分の話の方が価値がある」という見下しがあるのではないだろうか。

私は傾聴の真髄はテクニックではなく、「相手を尊重する姿勢」だと思う。
小手先の技術ではなく、思いやりや心構えが大事なのではないかと思っている。

私が許せなかったり不愉快に思うのは失礼な人、相手を尊重しない人である。

自分の話ばかりしたがる人もそれに当てはまる。
以前「会話は餅つき」という記事を書いたが、こちらがテンポよく合いの手を入れていると延々と機嫌よく話しまくる相手は勘弁だ。
最初は自発的な興味をもって質問していても、だんだんと疲れてくる。

SNSの付き合いでも疲れを感じることはある。
以前アメブロで本やCDの紹介をしていたのだが、よくコメントをくれる人がいた。クラシック好きの女性なのだが、私はその人のブログがまったく面白いと思わなかった。なのに、よくコメントをくれるものだからお付き合いで読みにいってコメントもしていた。

一方的にコメントをもらう関係でよかったのに、相手の記事も読まないと失礼にあたると思って無理をしていたから疲れたのだ。

このような疲れはTwitter(私はXという名前は嫌いです😛)よりブログで起こりやすい。
Twitterは短文だから仮にお付き合いで読むのでも疲れないが、ブログの場合は長文である。興味を持てない相手の長文を定期的に読みにいくのは疲れる。

「そんなの適当にいいね押せばいいじゃん」と思った方もいるかもしれないが、私は雑なコミュニケーションが嫌いなので適当な気持ちでいいねすることがまずない。だから“読み疲れ”が生じるのである。

Twitterでも、なぜかタイムラインに表示されると嫌な気持ちになるFFさんが以前はいた。ネガティブな発信をしてるわけではない。何となく相手のセンスや文章が好きになれないのだろう。肌が合わないとでもいうのか。

以前はよくコメントをくれる人はフォローしないと失礼などと思っていたが、フォローした上でミュートにするというのはしたくない。
FFの関係でミュートにするくらいならフォローを外すのが私のスタイルである(必ずできているわけではないが)。

結局、無理が続くとだんだん疲れがたまってくるので、付き合いで相手の文章を読み続けるのはやめにするようにした。自然と興味を持てる相手との関係を優先したい。

会話していて、お互いが楽しく感じるというのは案外難しいことかもしれない。
しかし、お互い相手に興味があり、自分が話す以上に相手を知りたい、相手の話を聞きたいという気持ちがあれば、会話術が多少まずくても良質な対話になるのではないだろうか。

良質な対話ができたときの充足感は何物にも代え難い。
私はやっぱりコミュニケーションが好き、人間が好きなんだなと感じる。
コンサートや演劇の感動と一緒で、そうした充足感も形がないものだ。そして、その瞬間に消えていく。

私はつくづく実態のないもの、捉えようのないものが好きなんだなと思う。

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