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頑固な理屈が恋愛で引き起こす問題

始めは奇妙に思える納得のいかぬ話かもしれませんが、私たちはパートナーと議論しているうちに、あまりにも合理的で、あまりにも論理的な話し方によって、激怒してしまうことがあります。

理性や論理を高く評価するのに私たちは慣れていますし、決して普段から証拠や合理性を敵視しているわけではありません。では、なぜこれらの話し方が愛の過程で問題になるのでしょうか?

注意深く観察し、十分に想像力を働かせて考えれば、その答えにも“論理的に”納得のいくものです。

私たちが困難に直面しているとき、相手に主に求めているは“自分が経験していることを理解している”という感覚なのかもしれません。それは答えを探しているのではありません。(問題がデカすぎて、明らかなものがあるとも限りません)だから、慰め、安心感、仲間意識を求めています。

このような状況下において、過度に論理的なスタンスを取るのは、親切な態度というよりは、むしろイラ立ちの種として、誤解して伝わるかもしれません。

例えばつり橋の上で足の震えている相手を発見したと想像してみましょう。高所恐怖症は単純明快に合理的ではありません。

足場はどう見ても、しっかりと固定されていますし、奈落の底と自分の間に頑丈な手すりが胸の高さほど聳え立っています。骨組みは専門家によって何度もテストを繰り返し、崩れる様子はみじんも感じられません。

これらのことを私たちは知的に理解はしているでしょう。しかし、実際問題それが胸糞悪い不安を軽減する効果は何もありません。もしも相手が忍耐強く物理学を力説したとしても、感謝なんてしません。単純に理解してくれなくてイライラします。

悩みの多くは、この足の震えと同じ構造をしています。すべての心配事は必ずしも合理的ではありませんが、感情は不安を抱えています。

例えばどんなに親孝行をしていたとしても、親を失望させることに罪悪感を感じ続けることができます。

客観的に経済状況はかなり安全であったとしても、お金について非常に心配だと感じることができます。

誰も自分の顔や体を厳しく評価なんてしていなくても、自分の外見に恐怖を感じることもあります。

あるいは、客観的に見て、かなり上手くやっているように見える場合でも、今まで成し遂げてきたすべてを、台無しの失敗作であると確信することだってできます。

せっかく注意しながら荷造りしたのに、何か持ってくるのを忘れてしまったと強迫観念に襲われることもあります。たいていの場合、ほとんどのものを向こうで購入することができるのに。

何千人もの人が毎日、かなり酷いスピーチをしていて、普段の生活を平気な顔で過ごしているのに、連絡事項の発表をしなければならないと、人生の終わりを感じるかもしれません...。

このような様々な私生活の悩みについて上手く表現できたとしても、相手から帰ってくるのは無慈悲な論理的回答だけです。「いい親に育てられてる」「歯磨き粉は入れてた」「スカートの大きさはぴったり」など

答えは正しく的を得ているのですが、何の助けにもならいだけでなく、おまけに相手を怒らせる独自のトリガーになってしまいます。
極度の理屈は私たちの心配事を見下しているようにも感じます。なぜなら、合理的に言えば、そんな恐れや心配事を持つべきではないので、当たり前な正気な人であれば、そんなこと考えない。と暗示しているように感じます。

彼らの述べている論理的な物言いに、怒りの反応が返ってくるのは当然のことです。人間の心がどれほど奇妙で、理性の通常のルールをどれだけ超えているか、彼らは忘れているのです。

それは心理的洞察を逸脱した、意外と浅はかな常識だとも言えます。

当然のことながら私たちは心に空想、予感、運命、ジンクス、そして恐怖を抱くことが時折おこります。それは、いわゆる現実世界には存在しない数多くの“何か”に恐れを感じているんです。

このような現象は、女性・子供に限ったことではなく、複雑な感情への共感に基づいた、より深い洞察をもとにすれば、その影響力がさほど「非論理的」なものでは無いことが分かってきます。

例えば、自分が魅力的かどうかの感覚は、実際にどんな容姿をしているかではなく、子供の頃にさかのぼって、冷やかされたり、批判をうけたり、差別をされたことによる、いわゆる合理的固定概念に沿っていることが多いものです。

人前で話す恐怖は、長い間、完璧を求められ、素直にはなれない羞恥心に縛られており、他人との比較や評判の目に関する恐怖と密接に関係しています。

不安への過度な論理的アプローチは、その起源を割り引いて理解し、なぜ不安(苦しんでいるうえ、気が狂いそうになるソレ)を持つべきではないのか理由に集中します。

それは相手に合理的にならないように求めるものではありませんが、彼らの知性を生かして安心させて欲しいのです。
苦い思い出の体験に記憶とともに寄り添って欲しいのです。
ちょっとおかしな動物であると、みんな理解されたいですし、何が起きても(きっと)大丈夫だと慰め、癒してほしい生き物なのです。

だとすれば、過剰な論理的反応は偶然や愚かさの現れではないのかもしれません。それは単なる仕返しに過ぎないのかも。

相手は私たちの悩みに対して効果的な再現性のある答えを努力して与えているにも拘らず、過去に感情的になった私たちから「上からものを言わないで!」っと足蹴りを食らったのかもしれません。

もしかしたら、私たちが彼らのニーズを無視し続けてきたのかもしれません。

もしお互いが、言葉の最も深い意味あいで適切に“論理的に行動”していたとしたら(つまり、感情の複雑さをしっかり理解していたとしたら…)

「私が苦しんでいるのに、なんであんたはそんなに理屈っぽいの!?」

という質問で口論するのではなく、表面的な論理を押し付けられた側は、そっと話題を変えて

「私があなたを傷つけたり、無視してきたことが何かある?」

と尋ねてみるべきです。

そして、それが本当の論理です。

🎥動画でおさらいはYouTubeチャンネルも覗いてみて↑↑

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