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激動の時代 幕末明治の絵師たち〈後期〉:3 /サントリー美術館

承前

 この展示には、美術史の狭間に取り残された幕末・明治の魅力的な作家たちを掘り起こし、再評価の機運を高めるねらいがあると思われる。
 歌川国芳や月岡芳年、狩野一信あたりの認知度の高さを、ポスターなどの販促物では存分に活用しつつ、「それだけじゃないんだぞ、この時代は……」といいたげな企画者の声が、耳をすませば聞こえてくる。

 幕末から明治を生きた「日本画」以前の絵師・菊池容斎などは、まさに「狭間」の作家。重要な存在ながら、取り上げられる機会は多いとはいえない。本展には、代表的な作品を含めて13点も出ていた。
 《五百羅漢図》(江戸時代・文政10年〈1827〉  奈良県立美術館)。ほんとうに、500人いる!

 羅漢の “五百者五百様” の設定になるべく則ろうとしているものの、江戸間の1畳分はゆうにありそうな大幅(たいふく)をもってしても、おおかたの羅漢は頭、せいぜい上半身くらいしか描きこむことは叶わない。
 こういった根気のいる細密描写には、画家の力量が表れやすいものだ。本作ではどの顔も気を抜いておらず、しっかり描き分けられている。また、全体をみても、極密を誇示するわけでなく、ひとつの絵としてちゃんと成り立っている。この均衡を保つのは、難しい。
 同じく大作の《群龍図》(江戸時代・安政5年〈1858〉  個人蔵)にも、同じことがいえる。

 大小合わせて24匹の龍が描かれている……というけれど、一見してそうは思えない。それくらい、全体として無理なく成り立っている。そこで誰しもが、龍の数をカウントしはじめるのだ(ほんとうに24匹いた)。
 技巧・技術に偏るだけの絵であれば、こうはなるまい。

 ちょうど来年は辰年。龍ときたら、虎。
 昨年、すでに主役を終えてしまったけれど、来年に関しては虎の出番はまだまだ多いはず……そんなことを思わせるのが、河鍋暁斎《龍虎図屛風》(明治12~22年〈1879~89〉  板橋区立美術館)。

 ↑爪切りをしようと試みるわたし(右)と、逃げる愛猫・さとる(左)。

 ——龍虎、相見(まみ)える。
 しかも、超・至近距離で……
 本来ならば、橋本雅邦の龍虎(下図)のように、六曲一双をまるまる使って両者を対峙させるのがいちばんよいのだろうが、今回はわずかに屏風一隻分・正方形という制約の多い画面。

 この難題に対し、対角線できっかり2分割する処理で暁斎は応える。両者がカットインしてきたようで、テレビやマンガなどでそういった構図を見馴れた現代人には、案外受け入れやすいかもしれない。
 両者の間合いは、ほぼゼロ。一触即発の感は濃厚で、緊張があたりを包む。金地の上で水墨を自在に操る、暁斎の墨技が際立つ作品だ。

 小林永濯《黄石公張良図》(明治7年〈1874〉頃  東京国立博物館)。
 こちらのほうが、よりマンガっぽいだろうか。もとになった逸話を知らなければ、なにがなんやらで、絵を観ながら大喜利でもしたくなる。

 のちに名軍師となる若き日の張良が、黄石公という謎の老人から兵法の秘伝書を授かる場面。
 武家に好まれたモチーフで、中国風の老人から若者(唐子)が巻物を受け取る……といった図様で表されてきた(狩野周信《黄石公張良図》=ボストン美術館と《張良図沈金鞍》=馬の博物館、重文)。

 狩野派の粉本には他に、橋の上を馬で駆ける老人と、龍に乗って水中から現れる若者……といった図様もある(粉本=東京国立博物館)。こちらは鈴木春信によって《見立黄石公張良》(黄石公張良=東博)としてパロディ化されてもいる。
 永濯の《黄石公張良図》はこれら、どの図とも似ていない。張良はお世辞にも若々しくみえないし、黄石公は集合写真の欠席者のように上半身だけ宙に浮いている。それに、右奥の3人組の表情といったら……(下のツイートと同じことを思った)。

 おなじみのモチーフとはいえ、鑑賞者は初見で気づけただろうか。
 その点は心許ないけれど、定番の画題を再解釈して新しい絵をつくろうという、ただ気を衒うのとは異なる進取の精神は、確かに感じられたのであった。

 ——ほぼ総とっかえだった後期展示も、前期と同様、たいへん濃ゆいものだった。
 熱き時代の空気に元気づけられるような感覚をいだきつつ、展示室を後にした。


たわわに実ったキンカン



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