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激動の時代 幕末明治の絵師たち〈後期〉:1 /サントリー美術館

 12月3日に閉幕した本展に関しては、以前、4回に分けて書いている。

 このときのレポートは会期の序盤、前期展示に関するものであった。
 わたしが後期展示を訪れ、レポートの続きをこれから書こうとしているのは、以下のような理由による。

本展は、前後期でほぼすべての作品が入れ替わる。通期展示は狩野一信の《五百羅漢図》はじめ3件と、安田雷洲の小品の版画くらいのもので、他に中期のみ出品の浮世絵がいくつかある程度。あとは、総取っ替えである。

11月4日の投稿より)

 すなわち、同じテーマでありながら、ほぼ別物の展覧会が矢継ぎ早に開催されるに等しいほどの状況となっている。これだから、サントリー美術館の年パスはやめられない……

 ——展示の概要については、前期の「1」(上のリンク)をご覧いただくとして、本シリーズでは、拝見した順におおむね沿いながら、ざっくばらんに魅力的な作品を振り返っていくとしたい。

 狩野一信《七福神図》(安政3~文久2年〈1856~62〉頃  板橋区立美術館)。

 にぎやかな絵である。
 画中から人物(神様)や人工物を取り払ったとしても山水図として成り立ちそうであるが、さらにド派手な楼閣やクセが強めな七福神たちが加わることで、この賑々しさが生まれている。「盛りすぎ注意!」といった趣。
 蓮池に張り出した床の上で、3人がお先に宴会。踊る福禄寿、琵琶を奏でる弁財天、脚付のグラスを傾ける毘沙門天。遅れて向かう布袋は福袋をしんどそうに担いでのろのろ橋を渡り、大黒は舟で上陸、寿老人は鹿に騎乗。恵比寿は……ぴちぴち暴れる巨大な鯛を、押さえつけている。このまま捌きはじめそうな勢いである。
 本作のような大幅(たいふく)の掛かるおめでたい場には、たくさんの人が集ったのだろう。この絵はその中心にあって、時に話題の種ともなって、場の盛り上げに一役買ったに違いない。

 鳥取藩の御用絵師・沖一峨による《因州侯庭園図》(嘉永2年〈1849〉  東京国立博物館)。主君・池田家の芝金杉下屋敷の庭園を描いた真景図である。

 現在のJR浜松町駅・南側あたり。駅すぐの旧芝離宮恩賜公園とは隣接こそしないものの目と鼻の先で、こちらは紀州徳川家の屋敷であった。
 今でこそ直線距離を歩いて行けるが、古地図を確かめると、当時はいずれの土地も湾に突き出ていた。浜松町から田町にかけての山手線は、ほぼ昔の海岸線を走っている。その外側の竹芝や芝浦、ゆりかもめの通るあたりは埋立地なのだ。
 画中で庭園の向こうに描かれるのは品川沖と思われる。芝離宮、さらには浜離宮からも、かつてはきっと、一峨の絵と同じような景色が見えたことだろう。
 初夏、芝離宮に遊んだ際に「ほんとうならば、東京湾が借景になったのだろうな……」などと、園地の向こうにそびえるガラス張りのビル群を見やりつつ大いに嘆いたものだけれど、意外な形で当時を偲ぶことができた。

芝離宮。右手が浜松町・品川方面


 服部雪斎《花鳥》(明治4年〈1871〉 東京国立博物館)。

 雪斎は博物図譜を描いた画工。その描写力は目をみはるほどだが、挿絵でなく単体の絵画作品として再構成された本作はなんだかチグハグで、キッチュさが漂う。南蘋派の花鳥図なども思わせるけれど、やっぱり違う。他の絵からは得がたい、濃密な空気がむんむん漂う。ふしぎな魅力の絵だ。
 幕末・明治という過渡期の時代を、いみじくもよく象徴している絵だと思う。本展くらいでしか、お目にかかる機会はなかっただろう。(つづく




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