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激動の時代 幕末明治の絵師たち:4 /サントリー美術館

承前

 本展の後半には、浮世絵がわんさか登場する。

 歌川国芳《忠臣蔵十一段目夜討之図》(天保3年・1832頃  川崎・砂子の里資料館)。こちらもまた、舶来の出版物から図様を借りたために、非常に珍奇な建物の表現となっている。

 国芳としては、忠臣蔵がどうのというよりも、原図の建物の描き方や遠近法をみずからの手で試行することのほうに強い興味があり、重点が置かれたのであろう。しかし、高すぎる塀や豆粒のような赤穂浪士の姿からは、かえって「巨悪に挑む」困難さが出ているといえなくもない。
 ちなみに本作には、摺りの異なる別バージョンがある。夜空に藍がかかると、こんなにも印象は変わるのだ(本展には不出品)。


 国芳の弟子・月岡芳年の《和漢百物語 渡辺源治綱》(慶応元年・1865  町田市立国際版画美術館)。

 羅城門に鬼が棲むと聞き、駆けつけようとする渡辺綱。門に近づくと急に激しい雷雨に見舞われ、馬は歩みを止めてしまう。下馬した綱は鬼の襲撃を受けるも、腕を斬り落として返り討ちにする。
 なんといっても、風雨の表現である。横なぐりの墨線は豪胆でありながら、絵の要所が潰れて見えなくならないよう、また効果的に見え隠れするよう、かすれ具合が調整されている。おまけに、この墨線の黒は磨かれ、少し角度を変えるとキラッと反射するようにもなっているのだ。
 同じく芳年の《英名二十八衆句 因果小僧六之助》(慶応2年・1866  千葉市美術館)にも、同様の工夫がみられる。抜き身の刀が、ギラリ。

 その刀身や手元、足元にねっとりまとわりつく血のりは、あえてムラのある塗り方とされており、どろっと、生々しく映る。

 おどろおどろしい絵ばかりでもない。
 開国後、横浜にやってきた異人たちを描く、歌川芳員《横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図》(文久元年・1861  サントリー美術館 ※リンク先は慶應義塾所蔵のもの)。
 中央の、片足立ちでおどける異人さんがひょうきんである。テンションが上がって踊りはじめたのか、あるいは拳遊びでもしているのだろうか。
 ここは遊廓であるから、ほんとうのところはいろいろとあるのだろうが、出てくる人はみな、にこやかである。お食事もおいしそうで、明るい絵だ。
 左奥の壁には、許由と巣父。隠棲・遁世の象徴である。遊廓という場所もまた、俗世間から切り離された別天地といえるだろう。花頭窓や欄干の透かし彫り、扇面散らしの意匠などのオーバーな内装が、当時の廓のようすをいまに伝える。

 ——本展は、前後期でほぼすべての作品が入れ替わる。通期展示は狩野一信の《五百羅漢図》はじめ3件と、安田雷洲の小品の版画くらいのもので、他に中期のみ出品の浮世絵がいくつかある程度。あとは、総取っ替えである。
 つまり、当ページで4回にわたってご紹介した作品は、あさって11月6日の閉館後に、一信以外のすべてが引き上げられ、8日からの後期展示はまるで違った内容となる。わたしはまだ、全体の半分も拝見できていないのだ。
 後日、後期展示を拝見して、補足を試みるとしたい。


鎌倉・円覚寺にて



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