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芥川龍之介の『葱』をどう読むか④ 葱二束は多い

 リンク先にある阿部公彦氏が「読解力がないとはどういうことか」について考察した資料を読んだ。内容としてはまさにそのとおりではあろうが、少し引っかかる。例えば他人はそもそも自分と異なる読み方をするもので、自分と異なる読み方をしていることに苛立つ、という状況があるのだと考えた場合、そもそも他人の読み方を許容できない側が読解力がないことにされてしまいかねないのだが、このロジックでは多数決になってしまわないのかということ。
 私は例えば『騎士団長殺し』に「オレンジ色の東京タワー」を見つけた時、それが昼間の東京タワーであるとは認めがたいと考えている。東京タワーは紅白に塗分けられていて、乱視でも昼間は紅白にみえる。また繰り返し書いたように「ブラックホールは宇宙に空いた黒い穴だ」と書かれていることに対して「ブラックホールは天体であり穴ではない」と指摘している。

 その程度のことも「他人はそもそも自分と異なる読み方をするもの」という粗い前提を置いて考えてしまうと、「自分と異なる読み方をしていることに苛立」っているだけでお前が読解力がないのだ、と切り返されかねないことになってしまう。
 私がこれまで芥川について書いてきたことはもう少し複雑で、例えば芥川作品に関しては「読み」が疎かにされていて、これから小説でも書こうかという人たちにおいても「よき」や「さすが」という読みが記憶に残っていてないらしいという問題を指摘した。

 これは「そういうことって案外忘れちゃうよね」で済まされる話ではない。つまり「ね」で他人に同意を求め、多数派として逃げてはいけないことではないかと私は考えている。いや、むしろ圧倒的に多くの人たちが「よき」や「さすが」という読みに気が付かず、あるいは忘れてしまっているのだろう。読み返せば思い出すかもしれないが忘れてしまう。しかし芥川が四歳を「しさい」と読み、九歳を「くさい」と読むことを覚えていれば、それと併せて「しすん」の読みも記憶に残るのではなかろうか。
 そういう意味で「保吉もの」を貶めた者の罪は重い。

 それから私は「読解力がない」のはどこかの学生ではなく、教える側、どこぞの名誉教授でもあることを発見した。

 さらに全集の解説者からして曲解していることを確認した。

  卒論の指南者が全然読解力のないことも確認した。

 ならばこんなことや、

 こんなこと、

 ……なども案外理解されていないのではないかと指摘した。実際『隣室』を理解しないで『あばばばば』で卒論を書こうとした人、書かせようとした人がいたのではなかろうか。
 だから私はやはり「他人はそもそも自分と異なる読み方をするもの」という粗い前提に対して「だからと言って他人の読みを否定してはならない」と考えるのではなく「だからこそ独自の読みに拘るのではなく、できるだけ正確に読むことが必要だ」と考えたいと思う。
 

 が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一切の幸福を脅かすように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂かせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処女の新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大人じみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書に感嘆の声を洩らす時のほかは、滅多に雲の影などへ心を止めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通りだから、そこを読み返して頂きたい。

(芥川龍之介『葱』)

 例えばここから正確に読み取ることのできる事実に、「おれ」がお君さんと知り合ってから最低でも一年半は経過しているという点がある。確かにお君さんは冒頭では「年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人らしい」とあるのにここで「お君さんはいくら大人じみていても、十六とか十七とか云う少女である」とされている。読み返すとそういうことになる。

 何時の間にそんな時間が経過したのかと考えてみれば、「お松さんは勿論、この収入の差に平かなるを得ない。その不平が高じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている」という表現の内に何度かの給金の支払いがあったことに気が付く。月給制であれば数か月の経過があったことになる。
 気が付いていました?

 さらに「ある夏の午後」のアイスクリーム事件に関して「葛藤が一週間に何度もある」としてまた時間を進ませる。ここで「この一週間に何度もあった」としないで、「一週間に何度もある」として、ある特別な週の出来事ではなく、常態として週に何度もあると表現することにより、さらに季節を進める。
 そして「桜頃のある夜」で年が変わっている。「そのお君さんがある冬の夜、遅くなってカッフェから帰って来ると」でまた年が変わっている。この間にお君さんの誕生日があり、彼女は確実に一歳は年を取ったことになる。正確に言えば夏から始まり春そして「ある冬」と進むことから、お君さんは二歳以上年を取っていてもいいことにはなる。これが「その年の冬」ではなく「ある冬」とあることから、むしろ「十六とか十七とか云う少女である」とあるのは「十七とか十八とか云う娘盛りである」とされた方が正しいようにさえ読める。つまり少々時間に矛盾が生じかけている。
 これは齟齬ではなく意図されたものであろう。

 お君さんは長い間、シャヴァンヌの聖サン・ジュヌヴィエヴのごとく、月の光に照らされた瓦屋根を眺めて立っていたが、やがて嚏を一つすると、窓の障子をばたりとしめて、また元の机の際へ横坐りに坐ってしまった。それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消息は、残念ながらおれも知っていない。何故なぜ作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。

(芥川龍之介『葱』)

 ここから読み取れることは何か。芥川龍之介は「おれ」に「今夜中にこの小説を書き上げなければならない」として、やはり身体性を与え、そのことで本来フィクションでしかないお君さんの「それから翌日の午後六時までの詳しい消息」は不明だという謎の理屈を捏ねる。小説は今夜中に書き上げるのだから忙しくてお君さんを観察していられないというだけではない。今夜中に翌日以降のことを書くのだから、それはまだ起こっていないことなのだということになる。いや、まだも何もフィクションはそもそも起こっていないことなので、ここで「おれ」を制約し、物語を制約する身体性が余計なものであることは間違いない。この時間に関する矛盾は、齟齬ではありえない。あからさまに仕掛けられたものだ。

 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺の御召しのコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広の黒い帽子を目深くかぶって、洋銀の握りのついた細い杖をかいこみながら、縞の荒い半オオヴァの襟を立てて、赤い電燈のともった下に、ちゃんと佇んで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水のにおいまでさせている容子では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
「御待たせして?」
 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。
「なあに。」
 田中君は大様な返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
「歩こう、少し。」
 とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須田町の方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝浦である。歩くにしてもここからは、神田橋の方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃風に飜えるクリイム色の肩掛へ手をやって、
「そっち?」
と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、
「ああ。」
 と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振ふるった柳の並樹の下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺いながら、
「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜でおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」
「そう、私わたしどっちでも好いわ。」 

(芥川龍之介『葱』)


 冬の夕方、小川町の停車場で男女が待ち合わせて、食事とはまるで『彼岸過迄』ではないかと気が付いていた人はどれくらいいるものだろうか?
 しかも田中君は「黒の中折」ならぬ「鍔広の黒い帽子」なんぞを被っている。

 この話を「おれ」は夕べ書き終わっている。別途探偵を雇って後で報告を受けても間に合わない。

 お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで「不如帰」を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透して見た、小川町、淡路町、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳暮大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾り、蜘蛛手に張った万国国旗、飾窓の中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵葉書や日暦――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦やかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風も、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……

(芥川龍之介『葱』)

 夕べのうちにこの小説を書き終わっている「おれ」の知り得ない、未来の光景が描かれている。書き得ないことが書かれている。この決定的な矛盾はしかし何も今に始まったことではない。

 そもそも『羅生門』は書かれえない話だった。下人のゆくえは誰も知らないのであれば、これは誰かから伝え聞くことのできる話ではない。老婆は楼の下の下人の様子を観察していないので、老婆からの伝聞も期待できない。その場にドローンカメラを飛ばし、撮影録音していなれば書くことが出来ない。当時はまだドローンはなかった。『羅生門』はそうした矛盾の中に拵えられた小説だった。『葱』もまたそうである。

 その内にふとお君さんが気がつくと、二人はいつか横町を曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋があって、明るく瓦斯ガスの燃えた下に、大根、人参、漬け菜な、葱、小蕪、慈姑、牛蒡、八つ頭、小松菜、独活、蓮根、里芋、林檎、蜜柑の類が堆く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴を挟んだ札の上へ落ちた。札には墨黒々と下手な字で、「一束四銭」と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今日、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂である。薔薇と指環と夜鶯と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間代、米代、電燈代、炭代、肴代、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群って来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、鮮かな瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指すと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束下さいな。」と云った。

(芥川龍之介『葱』)

 ここから読み取れる事実には何があるだろうか。一人暮らしのお君さんには葱二束は多いということであろう。二束は多い。葱と云えば冬の鍋には欠かせない食材だが、あくまで脇役である。そして繁華街の小川町なのに葱が安いということである。普通に考えれば下町の方が葱は安いのだろうが、何故か葱が安い。

 埃風の吹く往来には、黒い鍔広の帽子をかぶって、縞の荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄然として立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格子戸造りの家が浮んでいた。軒に松の家やと云う電燈の出た、沓脱の石が濡れている、安普請らしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後には徐ろに一束四銭の札を打った葱の山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣な、眼に滲むごとき葱のにおいが実際田中君の鼻を打った。
「御待ち遠さま。」
 憐むべき田中君は、世にも情無い眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗にまん中から割って、忘れな草の簪をさした、鼻の少し上を向いているお君さんは、クリイム色の肩掛をちょいと顋でおさえたまま、片手に二束八銭の葱を下げて立っている。あの涼しい眼の中に嬉しそうな微笑を躍らせながら。

(芥川龍之介『葱』)

 正直に言えば若き日の私はここで「鴨が葱背負ってやってくると男は萎える」と書いて、何か特別気の利いたことが思いついたような顔をしていた。この鴨葱の落ちを誰かに自慢したいとさえ思った。馬鹿なやつだ。話はここで終わっていない。何が鴨葱だ。

 とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。外では寒そうな鶏の声がしているが、折角これを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。お君さんはその晩何事もなく、またあの女髪結の二階へ帰って来たが、カッフェの女給仕をやめない限り、その後も田中君と二人で遊びに出る事がないとは云えまい。その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱こう。左様なら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

(芥川龍之介『葱』)

 今夜はあの晩から見て過去にある。「ここから」とは女髪結の二階なのか『葱』という小説の事か? 批評家に対峙されるのは「おれ」ではなくてお君さんなのか?

 阿部公彦氏が「読解力がないとはどういうことか」について考察した資料の中では、読み手にばかり責任があるのではなく、書き手の書いている内容が難しかったり、説明が不十分である場合にも「読解力がない」ようにみられる事態が生じうることが指摘されている。それはその通りだ。

 ここで「おれ」が時間の矛盾の中で書き得ない未来を過去に置いて書き、ペンを置いてもう書かれないお君さんの行動が批評家に退治されうるかのように書いているのは、明らかに作品の中に「おれ」の身体性を持ち込んだことから生じた矛盾である。
 逆に言えば『羅生門』から『歯車』に至るまで芥川は小説の材料と現に書かれている小説の書き手であることの関係性について問い続けて来た。そしていくら小説の背後に事実のあるなしはどうでもいいと説いても誰にも理解されなかった。遺作『歯車』は間もなく自殺する精神異常者の告白として読まれた。

 そんな馬鹿な。
 そもそも何故作者は身体性を持たなくてはならないのか、書かれている小説の書き手であるからといって、書かれている内容とどうして関係を持たなくてはならないのか。
 そこが解ると、葱二束は多いという事実をようやく理解できるだろう。何が鴨葱だ。鴨なんていないのだ。お君さんは鴨ではなく、通俗小説なのだ。通俗小説と渾名されたお君さんは確かに批評家に退治される資格がある。しかしそう簡単には食えない。神保町と小川町は近いので歩ける。ETCはElectronic Toll Collection Systemの略ではない。お君さんにはこのカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖というほかに、まだいくらでも書かれていない秘密がある。




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