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『彼岸過迄』を読む 4381 漱石全集注釈を校正する⑧ 中折は茶が主流だったのか?

岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、

中折 中折れ帽。ソフト。頭の中央が縦にくぼんだ、つばののあるフェルト製の帽子。九四頁に「黒の中折」とあるが、九六頁に「色変わりより外に用いる人のない今日」とあり、茶が主流で黒は珍しかった。

(『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』岩波書店 2017年)

 ……とある。この点については既に散々調べてみたが、当時のことはなかなか分からない。

・明治四十一年、オリーブの中折が流行した。
・大正初期、青磁色の中折帽を被るものがあった。
・昭和初期、流行色は目まぐるしく代わる。昭和十年では、濃茶五、三、薄茶其他二の割合であった。
・支那でもの流行が入れ替わる。
・土耳古では灰色薄樺色又はオリユーヴ色……。

 要するに分からない。黒が珍しいとも茶が主流だとも決めがたい。青空文庫の中での出現度合いでは、色の説明のないのが半分、残りを黒、茶、鼠、その他が分ける。ただしそれを時代ごとに見て行くと、かなり大雑把な傾向ながら、黒の中折はやや古い時代に現れるように思われる。しかし、

 妻は黒いコオトに、焦茶こげちゃの絹の襟巻をして居りました。そうして鼠色のオオヴァ・コオトに黒のソフトをかぶっている私に、第二の私に、何か話しかけているように見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴァ・コオトに、黒のソフトをかぶっていたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で、眺めましたろう。如何に憎悪に燃えた心で、眺めましたろう。殊に、妻の眼が第二の私の顔を、甘えるように見ているのを知った時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底当時の私の位置を、再現するだけの勇気がございません。私は思わず、友人の肘をとらえたなり、放心したように往来へ立ちすくんでしまいました。その時、外濠線の電車が、駿河台の方から、坂を下りて来て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明しんめいの冥助とでも云うものでございましょう。私たちは丁度、外濠線の線路を、向うへ突切ろうとしていた所なのでございます。

(芥川龍之介『二つの手紙』)

 これが大正八年の作。

 今まで俊助の足下に寝ころんでいた黒犬は、この時急に身を起すと、階段の上り口を睨にらみながら、凄じい声で唸り出した。犬の気色に驚いた野村と俊助とは、黄水仙の鉢を隔てて向い合いながら、一度にその方へ振り返った。するとちょうどそこにはあの土耳其帽の藤沢が、黒いソフトをかぶった大学生と一しょに、雨に濡れた外套を給仕の手に渡している所だった。

(芥川龍之介『路上』)

 これも大正八年。
 こうした個々の事例を眺めつつ、考えた「黒の中折」問題に対する私の結論はこうである。

・田川敬太郎は「女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪に結っている」という早すぎる一般化という認識バイアスに陥っている。そういう性格である。

・現に松本恒三は黒の中折を被っている。

・田川敬太郎の「色変わりより外に用いる人のない今日」という時代感覚は間違っている。

・おそらく当時黒の中折は時代遅れ。
・中折の流行色は毎年のように変化したが、松本恒三は流行色を追わなかった。
・そこには松本恒三の「外套の裏は繻子でなくては見っともなくて着られない」といったこだわりがあった。

 ……と、大体以上である。

 独自研究の部分はどうでもいいとして、ぜひ加えたいのは「中折の流行色は目まぐるしく変化し」という点である。松本恒三は時代遅れの男ではなく、流行に振り回されない男なのだという性格付けのためにこの点は確認しておきたい。


[付記]

 註釈者の中島国彦氏はまだ七十二歳、戦後の生まれである。まだ若い。仮に私が百歳ならば二回り以上若いことになり、仮に私が七歳だとしたら五回りも年寄りだということになる。つまり「茶が主流で黒は珍しかった」とあるのは自身の目で見たわけではなく、「色変わりより外に用いる人のない今日」という田川敬太郎の認識に引っ張られただけなのか、それとも「茶が主流で黒は珍しかった」とする別の根拠があるのか。その点は明らかにして資料を示していただきたいところ。

 細かいところだがこういうことをおろそかにすると、

 こんなことになりかねない。


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