#国語教育
芥川龍之介の『魚河岸』をどう読むか④ 鏡花の小説は死んでいない。
コント形式の漫才で、「俺、昔からやってみたい職業があって……」「ちょっとやってみようか」と、漫才師が刑事や犯人を演じることがある。このフォーマットの起源は解らないけれど、よくよく考えてもみれば、漫才という立ち位置を一旦消してしまえば、残るのは大きな意味での虚構である。それをコントと呼ぶか芝居と呼ぶかは別として、そういう虚構は、「実際にはないけれどもあったていで行われる」ものであり、その虚構の枠組
もっとみる芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑯ 戒之在色
夏目漱石に殺されるA先生
私はこれまでに『歯車』が「単なる偶然を偶然と思えない認知バイアスに陥っている人の話」だと書いて来た。そして「小穴隆一の手記を読む限り、芥川を追い詰め自殺に追い込んだのはどうも夏目漱石なのだ」とも。
そう考えた時、単なる偶然として、深読み、過剰解釈を避けるために飛ばしていたことどもも再考してもいいかと思い直した。つまり『歯車』が『羅生門』と同じく、師・夏目漱石の御霊
芥川龍之介の『魚河岸』をどう読むか① 大食いか!
芥川龍之介の『魚河岸』はまず文章が巧みである、などと書いてはまるで本物の馬鹿のようだが、他の作品と比べてもやはり巧みなのである。
片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた、とはなかなか書けない。しかし今日は中身の話を書こう。この『魚河岸』の大きな筋は、魚河岸の往来を歩いていた保吉らがたまたま入った洋食屋に後から悪役染みた肥った男が現れ、「当てられる」
……つまり何となく気圧されるよう
芥川龍之介の『鬼ごっこ』をどう読むか こっそりはめ込まれる「夫の死」
鬼ごっこ
これだけの話なのでどう読むかもないものだ。これはそのまま、
①昔は楽々と逃げられたのに、今度は捕まった。(結婚した。)
②刑務所から出て三日目でもう捕まった。
……という芥川龍之介独特の皮肉と、
③彼が死ねばまた彼女は妙に真剣な顔で新たな夫を求めるだろう。
④ここでも「夫の死」というものがこっそりはめ込まれている。
⑤つまり『死後』ほど深刻ではないにしろ、『死後』的なモ
芥川龍之介の『葱』をどう読むか① 「何しろ」「とにかく」「とか何とか」
作家が小説を書くこと、アマチュアが処女作を書くのではなく、プロの作家が依頼原稿を現に書くこと、その枠組みを明らかにして書くこと、書いたうえで、それがいかにもサイズ的には小品であることを承知しながら、話に落ちをつけ、そしてさしたる満足感もなく筆を置いたことまで書き、なんなら批評家のことまで意識していることを明示するのは……太宰治に伝承されたかと思えるほどの太宰節の原型であり、何某かの意匠と思える。
もっとみる芥川龍之介の『闇中問答』をどう読むか①
その年齢を考えるとあまりにも青くてもろい『闇中問答』をどう読むか、どう受け止めればいいのか、私はずっと迷っていた。今回遺作の『歯車』を整理し、
保吉ものを整理したことにより、
なんとかこの『闇中問答』ともちゃんと向き合えるんじゃないかと読み直してみた。うん、青くてもろい。
本が一番売れるのは、作家が死んだ時だ。誰も生きている作家に儲けさせようとはしない。兎に角何とか一圓でも金が渡らな
芥川龍之介の『少年』をどう読むか②「道の上の秘密」
僕の母は狂人だった……。そんキャッチーな言葉で始めれば、「保吉もの」も少しは真剣に読んでくれただろうか。
僕の母は狂人だった……キャッチーな言葉で始まった『点鬼簿』が『歯車』に自叙伝として現れ、吉田精一とかいう、まあ現代で言えば柄谷行人程度のおっちょこちょいによって「保吉もの」が身辺雑貨的私小説として貶められたことによって、「保吉もの」はまるで原稿料稼ぎの余技のような、真面目な評論の対象とは
『彼岸過迄』を読む 4360 作中人物の設定③「須永市蔵」
須永市蔵
親戚からは「市(いっ)さん」と呼ばれている。生年月日不詳。年齢二十六七歳。江戸っ子。独身。法学士。喫煙者。一塩の小鰺が好き。
高等遊民。叔父の高等遊民松本恒三を尊敬していて、影響を受けている。大学は卒業したものの信念の欠乏から来た引込み思案のために働く気がない。就職のことは一日も考えたことは無い。松本恒三の見立てでは須永市蔵は雑誌に写真が載るような良家の御令嬢を貰い受けられる御身
芥川龍之介の『寒さ』をどう読むか
そこは同じプラットフォームだ
詩人でもないのに地球の外の宇宙的寒冷と書いてみる。あるいは宇宙物理学者でもないのに、「宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない」(芥川龍之介『侏儒の言葉』)と呟いてみる。そこにどれほど言葉の誠があるものだろうか。目の前にある石炭ストーブは見えても、地球の外の宇宙的寒冷とはとても想像できないもののように思われる。
宮本は得意げに熱伝導の法則で恋愛を説
芥川龍之介の『文章』をどう読むか 横向きになっている
書くことの不可能性を巡って
この『文章』という作品は、大正十三年三月に発表されている。ほぼ同時期に谷崎潤一郎は『大阪朝日新聞』に『痴人の愛』の連載を始める。『文章』に書かれている景色は1919年、大正八年三月、芥川が雑誌「新小説」に『きりしとほろ上人伝』の連載を始め、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社する寸前の、そのぎりぎりのタイミングを捉えたものだと考えてよいだろう。
保吉は