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芥川龍之介の『寒さ』をどう読むか

そこは同じプラットフォームだ

 ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、赤と熱した石炭に何か同情に近いものを感じた。

(芥川龍之介『寒さ』)

 詩人でもないのに地球の外の宇宙的寒冷と書いてみる。あるいは宇宙物理学者でもないのに、「宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない」(芥川龍之介『侏儒の言葉』)と呟いてみる。そこにどれほど言葉の誠があるものだろうか。目の前にある石炭ストーブは見えても、地球の外の宇宙的寒冷とはとても想像できないもののように思われる。

「堀川君。」
 保吉はストオヴの前に立った宮本と云う理学士の顔を見上げた。近眼鏡をかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭の薄い唇に人の好いい微笑を浮べていた。
「堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」
「動物だと云うことは知っているが。」
「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」
「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目に聞いてはいけませんよ。」
 これはもう一人の物理の教官、――長谷川と云う理学士の言葉だった。

(芥川龍之介『寒さ』)

 

「温度の異なる二つの物体を互に接触せしめるとだね、熱は高温度の物体から低温度の物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」
「当り前じゃないか、そんなことは?」
「それを伝熱作用の法則と云うんだよ。さて女を物体とするね。好いかい? もし女を物体とすれば、男も勿論物体だろう。すると恋愛は熱に当る訣だね。今この男女を接触せしめると、恋愛の伝わるのも伝熱のように、より逆上した男からより逆上していない女へ、両者の恋愛の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるはずだろう。長谷川君の場合などは正にそうだね。……」

(芥川龍之介『寒さ』)

 宮本は得意げに熱伝導の法則で恋愛を説明し始める。「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが」とやはり堀川保吉は真面目には聞いてはいない。それから四五日後、保吉は学校の生徒の轢かれそうになったのを助けようと思って轢かれた踏切番の轢死に出くわす。

 彼はこの間話し合った伝熱作用のことを思い出した。血の中に宿っている生命の熱は宮本の教えた法則通り、一分一厘の狂いもなしに刻薄に線路へ伝わっている。そのまた生命は誰のでも好いい、職に殉じた踏切り番でも重罪犯人でも同じようにやはり刻薄に伝わっている。――そういう考えの意味のないことは彼にも勿論わかっていた。孝子でも水には溺れなければならぬ、節婦でも火には焼かれるはずである。――彼はこう心の中に何度も彼自身を説得しようとした。しかし目のあたりに見た事実は容易にその論理を許さぬほど、重苦しい感銘を残していた。

(芥川龍之介『寒さ』)

 あるいは「宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない」として、伝熱作用では説明できない世界に人間は生きてはいまいか。よっぽど楽ではない世界、文学者になにがしかの値打ちのある世界に。
 薄ら寒い世界の中にも、温かい日の光のほそぼそとさすのは伝熱作用である。薄ら寒いのは人間の感覚である。人間がいなくては寒さなど存在しない。

 ……ところで、これも大正十三年に書かれていながら身辺雑記ではなく、海軍機関学校の教職員時代の回想の形になっている。

 季節が冬であることから『文章』よりも前、大正八年三月以前の設定であろう。

 その内に八時の上り列車は長い汽笛を鳴らしながら、余り速力を早めずに堤の上を通り越した。保吉の捉える下り列車はこれよりも半時間遅いはずだった。彼は時計を出して見た。しかし時計はどうしたのか、八時十五分になりかかっていた。

(芥川龍之介『寒さ』)

 このお嬢さんに遇ったのはある避暑地の停車場である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としていた。

(芥川龍之介『お辞儀』)

 どういうわけか列車の発車時刻が三十分ずれるが、この二つの小説で保吉が利用する下りの列車は同じものだろう。つまりここは同じプラットフォームである筈だ。この同じプラットフォームにおける汽車の煤煙の匂いが『お辞儀』ではどこぞのお嬢さんとだけ記憶の中で結びつき、

 踏切番の轢死事件とは結びつかないのはどういうからくりだろうか。

 その次のは不慮の溺死を遂げた木村大尉のために書いたものだった。これも木村大尉その人とは毎日同じ避暑地からこの学校の所在地へ汽車の往復を共にしていたため、素直に哀悼の情を表することが出来た。

(芥川龍之介『文章』)

 あるいはこの「汽車」も、煤煙を吐き、踏切番をひき殺した同じものではなかろうか。

 御嬢さんが不快な煤煙の匂いと結びつけられるのも、五六年後の春になって五六年前の寒さと共に踏切番の殉職が思い出されるのも、大正三年になって乃木大将夫妻の殉死が書かれるのも、みんな作者の勝手である。そうでなければ創作である。横須賀線の煤煙は『蜜柑』ではこう描かれる。

 すると間もなく凄まじい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。そうしてその四角な穴の中から、煤を溶かしたようなどす黒い空気が、俄かに息苦しい煙になって、濛々と車内へ漲り出した。元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆ど息もつけない程咳こまなければならなかった。

(芥川龍之介『蜜柑』)

 とてもどこぞのお嬢さんの記憶を呼び覚ますような余裕はない。あまり貶されない『蜜柑』が大正八年の作、書かれた時期と設定が比較的近い。『蜜柑』は「保吉もの」を名乗らないので、身辺雑記とは言われない。褒められる。

 どうも近代文学1.0の人々は柑橘類には甘いようだ。




[余談]

「半時間」という表現、谷崎も芥川も普通に使うが、村上春樹さんも使っているのを「ハーフタイムの訳語?」と勘違いしていた。お恥ずかしい。いや最近はあまり見馴れない表現だが、確かに昔は普通に読んでいた。芥川の全集など何往復したか覚えていないくらいなのに。

 あ、だから忘れているのか。
 なるほど。


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