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芥川龍之介の『文章』をどう読むか 横向きになっている

書くことの不可能性を巡って

 半時間もかからずに書いた弔辞は意外の感銘を与えている。が、幾晩も電燈の光りに推敲を重ねた小説はひそかに予期した感銘の十分の一も与えていない。勿論彼はN氏の言葉を一笑に付する余裕を持っている。しかし現在の彼自身の位置は容易に一笑に付することは出来ない。彼は弔辞には成功し、小説には見事に失敗した。これは彼自身の身になって見れば、心細い気のすることは事実である。一体運命は彼のためにいつこう云う悲しい喜劇の幕を下してくれるであろう?………

(芥川龍之介『文章』)

 この『文章』という作品は、大正十三年三月に発表されている。ほぼ同時期に谷崎潤一郎は『大阪朝日新聞』に『痴人の愛』の連載を始める。『文章』に書かれている景色は1919年、大正八年三月、芥川が雑誌「新小説」に『きりしとほろ上人伝』の連載を始め、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社する寸前の、そのぎりぎりのタイミングを捉えたものだと考えてよいだろう。

 保吉は、いや芥川は「海軍××学校教官の余技は全然文壇には不必要である」の後に「!」をつける。ここで不必要とされた『きりしとほろ上人伝』は芥川のキリシタンものの傑作とされている。まあ、傑作だろう。

 この『文章』という小説は、海軍××学校教官の堀川保吉が授業の合間に弔辞を作ったり、教科書を編んだり、御前講演の添削をしたり、外国の新聞記事を翻訳したり、といった雑務をこなしながら小説を書いているという設定になっている。やっつけで書いた弔辞は家族を泣かせる。そこに保吉は気の毒を感じる。弔辞を読んでいるのは校長で、書いたのは保吉。保吉は「名文」を書いた。しかし保吉は死者の人物を知らない。ただこじつけでありきたりな文句を並べただけだ。それでも遺族を泣かせてしまう。

 この人たちには本物の文章など必要ないのだ、そう気が付いてしまった本当の天才作家、しかも雑用で弔辞を書かされている天才作家の心情やいかなるものか。

 この人たちには「保吉もの」を身辺雑記的私小説と貶めた吉田精一も含まれる。『文章』とはおそらく書くことの不可能性を巡る根源的な問いと正面から向き合った小説でもある。

「それから一つ伺いたい言葉があるのですが、――いや、海上用語じゃありません。小説の中にあった言葉なんです。」
 中尉の出した紙切れには何か横文字の言葉が一つ、青鉛筆の痕を残している。Masochism ――保吉は思わず紙切れから、いつも頬に赤みのさした中尉の童顔へ目を移した。
「これですか? このマソヒズムと云う……」
「ええ、どうも普通の英和辞書には出て居らんように思いますが。」
 保吉は浮かない顔をしたまま、マソヒズムの意味を説明した。
いやあ、そう云うことですか!
 田中中尉は不相変らず晴ればれした微笑を浮かべている。こう云う自足した微笑くらい、苛立たしい気もちを煽るものはない。殊に現在の保吉は実際この幸福な中尉の顔へクラフト・エビングの全語彙を叩きつけてやりたい誘惑さえ感じた。
「この言葉の起源になった、――ええと、マゾフと云いましたな。その人の小説は巧いんですか?」
「まあ、ことごとく愚作ですね。」
「しかしマゾフと云う人はとにかく興味のある人格なんですな?」
「マゾフですか? マゾフと云うやつは莫迦ですよ。何しろ政府は国防計画よりも私娼保護に金を出せと熱心に主張したそうですからね。」

(芥川龍之介『文章』)

 マゾヒズムとは変態性欲の一つで、鞭で打たれたり、辱められたり、奴隷のように扱われることに喜びを見出す変わった趣味の事です、とでも保吉は教えたのだろうか。クラフト・エビングの全語彙を叩きつけなかったのであれば、その程度の内容だろう。その著書は1913年(大正2年)『変態性慾心理』として紹介されており、マゾヒズムとは被虐嗜好性ではなく変態性欲として認識されていた筈だ。まさか、「谷崎潤一郎、あれですよ」というわけにもいくまい。

 その程度の説明で「いやあ、そう云うことですか!」と自足してしまう人々との距離が保吉には歯がゆいものであったのだろう。

 マゾフの愚を知った田中中尉はやっと保吉を解放した。もっともマゾフは国防計画よりも私娼保護を重んじたかどうか、その辺は甚だはっきりしない。多分はやはり国防計画にも相当の敬意を払っていたであろう。しかしそれをそう云わなければ、この楽天家の中尉の頭に変態性慾の莫迦莫迦しい所以を刻みつけてしまうことは不可能だからである。……

(芥川龍之介『文章』)

 本物の文章では伝わらないことがある。レイヤーを意識して、時には言葉を使い分け、コミュニケーションに徹する。具体的で印象的な事例を示す。できるだけ簡易で平明な言葉を使う。一文一意。要点を三つに絞る……。

 いや、そんなルールはそもそも余程読解力のない読者の責任を書き手の義務のように押し付けているだけで、根本の問題は矢張り読み手にあるのではないかと芥川は言いたいのではなかろうか。夏目漱石作品を一つも理解できていないにも関わらず、たった250円の私の本を買わないのは一体どういう神経なのかと、芥川龍之介は書いているのではないか。

 まあ、そこまでは書いていないが書いているも同じだ。

 保吉は一人になった後、もう一本バットに火をつけながら、ぶらぶら室内を歩みはじめた。彼の英吉利語を教えていることは前にも書いた通りである。が、それは本職ではない。少くとも本職とは信じていない。彼はとにかく創作を一生の事業と思っている。現に教師になってからも、たいてい二月に一篇ずつは短い小説を発表して来た。その一つ、――サン・クリストフの伝説を慶長版の伊曾保物語風にちょうど半分ばかり書き直したものは今月のある雑誌に載せられている。来月はまた同じ雑誌に残りの半分を書かなければならぬ。今月ももう七日とすると、来月号の締切り日は――弔辞などを書いている場合ではない。昼夜兼行に勉強しても、元来仕事に手間のかかる彼には出来上るかどうか疑問である。保吉はいよいよ弔辞に対する忌いましさを感じ出した。

(芥川龍之介『文章』)

 本当にそうだよ、「弔辞などを書いている場合ではない」と大正十三年の読者は理解してくれることだろう。令和四年の私もそう思う。「弔辞などを書いている場合ではない」と。

 大正八年三月に小説家としての芥川龍之介の転機はあった。それは確かに日本近代文学史を語る上での大きな事件である。この事件を捉えた『文章』を身辺雑記的私小説と貶めるのは、「海軍××学校教官の余技は全然文壇には不必要である」というN氏の批評同様「!」なものだ。

 いや「!」は保吉だ。書くことの不可能性を巡る根源的な問いと真正面から向き合った小説『文章』はこう落ちる。

 保吉はふと空を見上げた。空には枝を張った松の中に全然光りのない月が一つ、赤銅色にはっきりかかっている。彼はその月を眺めているうちに小便をしたい気がした。人通りは幸い一人もない。往来の左右は不相変らずひっそりした篠垣の一列である。彼は右側の垣の下へ長と寂しい小便をした。
 するとまだ小便をしているうちに、保吉の目の前の篠垣はぎいと後ろへ引きあげられた。垣だとばかり思っていたものは垣のように出来た木戸だったのであろう。そのまた木戸から出て来たのを見れば、口髭を蓄えた男である。保吉は途方に暮れたから、小便だけはしつづけたまま、出来るだけゆっくり横向きになった
「困りますなあ。」
 男はぼんやりこう云った。何だか当惑そのものの人間になったような声をしている。保吉はこの声を耳にした時、急に小便も見えないほど日の暮れているのを発見した。

(芥川龍之介『文章』)

 真正面から向き合っていない。横向きになっている。小説『文章』はある意味で立小便の困難さを巡って書かれていると言っても良いだろう。
 




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