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芥川龍之介の『お辞儀』をどう読むか

何の匀い?

 吉田精一が「身辺雑記的な私小説」とした「保吉もの」からもう一篇読んでみよう。そもそも吉田精一は、とうにこの世にないことからいささか残酷かもしれないが仕方ない。夏目漱石同様、芥川龍之介も誤読され、読み飛ばされては惜しい作家だ。誤読され、読み飛ばされても惜しくない作家は阿保程存在するが、そうでない作家は少ない。

 保吉は三十になったばかりである。その上あらゆる売文業者のように、目まぐるしい生活を営んでいる。だから「明日」は考えても「昨日」は滅多に考えない。しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を鮮やかに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年前まえに顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匀を嗅ぎさえすれば、煙突から迸しる火花のようにたちまちよみがえって来るのである。 

(芥川龍之介『お辞儀』)

 主人公・保吉が作者と同じ三十歳。『あばばばば』ではどうも大正五年から鎌倉で英語の教師をしているらしい。『保吉の手帳から』でも教師だった。『お辞儀』では売文業者だ。はい、「保吉もの」は「身辺雑記的な私小説」で確定! ……そんなTogetter民のような脊髄反射で芥川龍之介作品を読むことはできない。Togetter民とは、この程度の感覚の人たちだ。

エビ、フジツボ、ダンゴムシやワラジムシも甲殻類では。

 ……という私のコメントで歓喜のコメントは止んだ。みんなで楽しくワイワイやりたいだけなのに、空気を読まないで邪魔をしてしまったようでいささか気分が良くない。しかしいくら後味が悪かろうが、駄目なものは駄目だと言わざるを得ない。

 例えば谷崎潤一郎の『あくび』には明示的なあくびのシーンが書かれていない。そのことから私は『あくび』の肝を見つけ出した。書かれていないことから見つけ出す、それは脊髄反射ではできないことだ。

 実は「匀」の文字は『お辞儀』の作中三度しか現れず、全て冒頭の引用部分に含まれている。つまり「あるお嬢さんの記憶などはあの匀」は実際に御嬢さんを回顧しているくだりでは何とも書かれていないのである。である、って本当なのかと疑う方は、

 この青空文庫のテキストを開き、CTRL+Fで検索窓を出して、そこに「匀」の文字を入力して確認してもらいたい。
 いや「匀」の文字が使われないだけで、何が匀ったかは書かれているのではないかという人があるだろうか。いや、それもないのだ。

 このお嬢さんに遇ったのはある避暑地の停車場である。あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としていた。なぜまた毎日汽車に乗ったかと云えば、――そんなことは何でも差支えない。しかし毎日汽車になど乗れば、一ダズンくらいの顔馴染みはたちまちの内に出来てしまう。お嬢さんもその中の一人である。けれども午後には七草から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。午前もお嬢さんの乗る汽車は保吉には縁のない上り列車である。

(芥川龍之介『お辞儀』)

 特に匀うようなものは書かれていない。そこで仕方なく、ざっくり避暑地の停車場の匀いではないかと仮定すれば、それは理屈の上では一ダズンくらいの顔馴染みと結びつけられる筈であり、お嬢さん一人との連携キーにはならない。
 では出会いの場面ではなく、肝腎のお辞儀の場面ではどうかというと、

 保吉は物憂い三十分の後、やっとあの避暑地の停車場へ降りた。プラットフォオムには少し前に着いた下り列車も止っている。彼は人ごみに交じりながら、ふとその汽車を降りる人を眺めた。すると――意外にもお嬢さんだった。保吉は前にも書いたように、午後にはまだこのお嬢さんと一度も顔を合せたことはない。それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。
 お時儀をされたお嬢さんはびっくりしたのに相違あるまい。が、どう云う顔をしたか、生憎もう今では忘れている。いや、当時もそんなことは見定める余裕を持たなかったのであろう。彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照り出すのを感じた。けれどもこれだけは覚えている。――お嬢さんも彼に会釈をした! 

(芥川龍之介『お辞儀』)

 この場面でも特に何かが匀うようなことは書かれていない。確かに書かれていない。書かれているべきなのに書かれていない。御嬢さんの表情すら忘れているのだ。ただ「会釈をかえされた」という事実だけは記憶している。
 でもまた翌朝、お嬢さんに会うではないか、

 するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。彼は宿命を迎えるように、まっ直に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。
 ちょうどその刹那だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中にお時儀をしたい衝動を感じた。けれどもそれは懸け値なしに、一瞬の間の出来事だった。お嬢さんははっとした彼を後にしずしずともう通り過ぎた。日の光りを透すかした雲のように、あるいは花をつけた猫柳のように。………

(芥川龍之介『お辞儀』)

 ほらあった「花をつけた猫柳」、これだ、と思った人、どれくらいいます?

 挙手してみてください。

 なるほど、そうですか。

 この「花をつけた猫柳」というのは既に「猫柳の花のような銀鼠の姿」とあったので外観、見た目のことです。引用部は太文字しか読まないと決めていますか。

 ではお嬢さん一人との連携キーとなる匂い、「あの匀い」とは何かというと冒頭にそのまま書かれていた通り、「汽車の煤煙の匀」なのだ。芥川は「五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶」と「あの」を回顧の中に引っ張り込んで読者を幻惑しながら、その回顧の中では一切匂いを漂わせず、嗅がせず、何人も嗅ぎたいと思うはずはない「汽車の煤煙の匀」を今嗅いでいること、「汽車の煤煙の匀」でお嬢さんの記憶がよみがえったことを書いているのだ。べきではないところで勝手に結びつく嗅覚と記憶の罠を書いてるのだ。

 勿論保吉が今、汽車に乗っているとは一言も書かれてはいない。煤煙の匀いを嗅いだとも。しかし恐らく書かれていない部分で今、保吉は「汽車の煤煙の匀」を嗅いでいる。そして何人も嗅ぎたいと思うはずはない嫌なにおいと、顔は美人と云うほどではない、しかしちょいと鼻の先の上った、愛敬の多い円顔の御嬢さんがどういうからくりか結びついてしまった、という皮肉を書いている。臭い御嬢さんが出来上がる。十六か十七の臭い御嬢さんを「汽車の煤煙の匀」を嗅ぐと思い出す保吉が出来上がる。

 これは「す直に自己を流露」した小説ではない。臭い御嬢さんに気が付かない人に楽しめる小説でもない。 




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