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芥川龍之介の『魚河岸』をどう読むか①  大食いか!

 芥川龍之介の『魚河岸』はまず文章が巧みである、などと書いてはまるで本物の馬鹿のようだが、他の作品と比べてもやはり巧みなのである。

 片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた、とはなかなか書けない。しかし今日は中身の話を書こう。この『魚河岸』の大きな筋は、魚河岸の往来を歩いていた保吉らがたまたま入った洋食屋に後から悪役染みた肥った男が現れ、「当てられる」

 ……つまり何となく気圧されるような感じで雰囲気が悪くなったところ、実はその男が連れの露柴、河岸の丸清の檀那から「幸さん」と呼ばれると急に態度を変えて露柴の機嫌を窺い出した……昔の丸清に雇われていたか、丸清に世話になったか詳細は知れない。保吉は男が退治されるのを安堵したかと思えば意外や心を沈ませ、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの語録を思い出す……という程度の話だ。

 この『魚河岸』は、

①悪役染みた肥った男の押柄な態度が露柴の一言で一変する。(「幸さん」ってことは幸太郎か、幸一か。親は息子の幸せを願って名付けたんだろうから、そう悪ぶるなよ。)

②洋食屋でフライを注文しながらビールではなく正宗を飲む。(保吉らも平貝のフライを肴に、ちびちび正宗を飲む。肥った男のフライは何のフライなのか判然としない。ソースはタルタルか、ウスターか?)

※この「正宗」は「ビール正宗」かもしれない。

東京印象記


風月集


雲煙過眼


③魚河岸の通りにあるのにビフテキが出て來る。(魚を食え。)

④食い物屋で食い物の話をする。(グルメか!)

⑤俳人の露柴、洋画家の風中、蒔画師の如丹と保吉の友達が風流な雅号で呼ばれる。(保吉だけ野暮ったいぞ!)

⑥保吉は今更ライスカレエを食べる。(大食いか!)

 ……といった話である。そして大正十一年にまだ存在する日本橋魚河岸の風景を描いている。日本橋魚河岸が廃止されるのは翌年の大正十二年、物語の舞台は大正十年の日本橋魚河岸なので、これまで私が保吉ものに関して述べてきたところの「回顧の形式で失われたものを語る」という形式がやや崩れかかっている。一応は回顧の形式だが、一年と四か月前の出来事と勘定すると、これまでの保吉ものとは明らかにスタイルが異なる。

 そして「知的なひねりが目立たない」という吉田精一の指摘が当てはまりそうでもある。最後に保吉の心を沈ませたフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの語録の「ひっかかり」はここだろう。

【三二】傲慢の人は遊惰の人たる能はず、其虛榮を棄つる時に於てすらも能はず。【三三】吾人若し自ら傲慢ならずば他人の傲慢を呟かじ。【三四】傲慢は萬人齊しく有り、只之を表出すに同一の手段を取らざる而已。

『寸鉄 : 一名・人生裏面観』ラ・ロシフコー 著||高橋五郎 訳玄黄社 1913年

 店の中には客が二人、細長い卓に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰った。それから平貝のフライを肴に、ちびちび正宗を嘗め始めた。勿論下戸の風中や保吉は二つと猪口は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々なかなか健啖だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味みじゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有ありがたかった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽を阿弥陀にしたまま、如丹と献酬を重ねては、不相変らず快活にしゃべっていた

(芥川龍之介『魚河岸』)

 魚河岸の飾らない西洋料理屋で飲んでいた河岸の若い衆と職人は、俳人と洋画家と蒔画師と小説家に当てられない。ただ彼らの話は魚河岸には似つかわしくもないやたらと風流であったり高尚であったりするものであっただろう。

 するとその最中に、中折帽をかぶった客が一人、ぬっと暖簾をくぐって来た。客は外套の毛皮の襟に肥った頬を埋めながら、見ると云うよりは、睨むように、狭い店の中へ眼をやった。それから一言の挨拶もせず、如丹と若い衆との間の席へ、大きい体を割りこませた。保吉はライスカレエを掬いながら、嫌な奴だなと思っていた。これが泉鏡花の小説だと、任侠欣ぶべき芸者か何かに、退治られる奴だがと思っていた。しかしまた現代の日本橋は、とうてい鏡花の小説のように、動きっこはないとも思っていた。
 客は註文を通した後、横柄に煙草をふかし始めた。その姿は見れば見るほど、敵役の寸法に嵌っていた。脂ぎった赭ら顔は勿論、大島の羽織、認めになる指環、――ことごとく型を出でなかった。保吉はいよいよ中てられたから、この客の存在を忘れたさに、隣にいる露柴へ話しかけた。が、露柴はうんとか、ええとか、好いい加減な返事しかしてくれなかった。のみならず彼も中てられたのか、電燈の光に背きながら、わざと鳥打帽を目深かにしていた。

(芥川龍之介『魚河岸』)

 なんだだらしない。いなせな風格も何もあったものではない。それが「幸さん」と呼んで大逆転するのは、まさに「傲慢は萬人齊しく有り、只之を表出すに同一の手段を取らざる而已」そのままではなかろうか。

 腕っぷし、知性、財力、なんでもいい。自分が何か人より優れているとして、ついつい傲慢になっていることを忘れてはいまいかというのが『魚河岸』の主意であろう。ここにはさしたるひねりはなく、知的でもない。いや、知的に見せないだけ謙虚である。

 ひ、ひねっている。

 目立たないけど。



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