見出し画像

芥川龍之介の『不思議な島』をどう読むか

 昨日この記事で、稲垣足穂テイストの一つとして擬人法を挙げた。もういくつか挙げれば、「ニッケルメッキ」といった言葉のチョイス、ハイカラーでお洒落な風俗、イロジカルな展開、リアリティをきらい、どこか嘘くさい。そして知的でスノッブな雰囲気と言ったものが挙げられる。知的という印象は、どこか当時の先端科学を齧ったような理屈によって与えられる。しかし全体としてはイロジカルなので諧謔となる。そしてどこか小意地が悪く、いたずら好きな感じがある。まあ一言で言えばとても不思議な文章である。

 そのコツみたいなものは「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君、本の御礼を云いたくてもゼンマイ仕掛の蛾でもなけりゃ君の長椅子へは高くて行かれあしない。」という形で、即席ながら芥川龍之介は掴んで真似をしている。三日月に腰かけるのはイロジカルでお洒落。この三日月に変わる長椅子は、この『不思議な島』(大正十二年十二月)の冒頭にも現れてはいまいか。

 僕は籐の長椅子にぼんやり横になっている。目の前に欄干のあるところをみると、どうも船の甲板らしい。欄干の向うには灰色の浪に飛び魚か何か閃めいている。が、何のために船へ乗ったか、不思議にもそれは覚えていない。つれがあるのか、一人なのか、その辺も同じように曖昧である。
 曖昧と云えば浪の向うも靄のおりているせいか、甚だ曖昧を極めている。僕は長椅子に寝ころんだまま、その朦朧と煙った奥に何があるのか見たいと思った。すると念力の通じたように、見る見る島の影が浮び出した。中央に一座の山の聳えた、円錐に近い島の影である。しかし大体の輪郭のほかは生憎何もはっきりとは見えない。僕は前に味をしめていたから、もう一度見たいと念じて見た。けれども薄い島の影は依然として薄いばかりである。念力も今度は無効だったらしい。
 この時僕は右隣にたちまち誰かの笑うのを聞いた。
「はははははは、駄目ですね。今度は念力もきかないようですね。はははははは。」
 右隣の籐椅子に坐っているのは英吉利人らしい老人である。顔は皺こそ多いものの、まず好男子と評しても好いい。しかし服装はホオガスの画にみた十八世紀の流行である。Cocked hat と云うのであろう。銀の縁のある帽子をかぶり、刺繍のある胴衣を着、膝ぎりしかないズボンをはいている。おまけに肩へ垂れているのは天然自然の髪の毛ではない。何か妙な粉をふりかけた麻色の縮れ毛の鬘である。 

(芥川龍之介『不思議な島』)

 困ったものだ。この『不思議な島』には、先ほど挙げた稲垣足穂テイストの要素がかなり当てはまる。ハイカラーでお洒落な風俗、イロジカルな展開、リアリティをきらい、どこか嘘くさい。そして知的でスノッブな雰囲気と言ったものが確かにある。まだ「小意地が悪く、いたずら好きな感じ」はない。しかしそんな意匠はニッケルメッキでしかない。
 ここにはやや唐突に天皇批判が現れるが、的を絞らせない。

 老人「まあ、そのほかはありますまい。また実際この島の住民はたいていバッブラッブベエダを信仰していますよ。」
 僕「何です、そのバッブラッブ何とか云うのは?」
 老人「バッブラッブベエダです。BABRABBADAと綴りますがね。まだあなたは見ないのですか? あの伽藍の中にある……」
 僕「ああ、あの豚の頭をした、大きい蜥蜴の偶像ですか?」
 老人「あれは蜥蜴ではありません。天地を主宰するカメレオンですよ。きょうもあの偶像の前に大勢お時儀をしていたでしょう。ああ云う連中は野菜の売れる祈祷の言葉を唱えているのです。何しろ最近の新聞によると、紐育あたりのデパアトメント・ストアアはことごとくあのカメレオンの神託の下るのを待った後、シイズンの支度にかかるそうですからね。もう世界の信仰はエホバでもなければ、アラアでもない。カメレオンに帰したとも云われるくらいです。」
 僕「あの伽藍の祭壇の前にも野菜が沢山積んでありましたが、……」
 老人「あれはみんな牲ですよ。サッサンラップ島のカメレオンには去年売れた野菜を牲にするのですよ。」
 僕「しかしまだ日本には……」
 老人「おや、誰か呼んでいますよ。」

(芥川龍之介『不思議な島』)

  この、

 僕「しかしまだ日本には……」
 老人「おや、誰か呼んでいますよ。」

 ……には見覚えがある。

「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」

(夏目漱石『虞美人草』)

 ここで言いさしにされた言葉の先にあるものは、「天皇など役に立たない」という苛烈な天皇批判以外のなにものでもなかろう。天地を主宰するカメレオンが何を意味するものかは分からない。野菜が積み上げられて山となる意味も定かではない。

「ええ、みんな売れ残ったのです。しかもたった三年の間にあれだけの嵩かさになるのですからね。古来の売れ残りを集めたとしたら、太平洋も野菜に埋うずまるくらいですよ。しかしサッサンラップ島の住民は未だに野菜を作っているのです。昼も夜も作っているのです。はははははは、我々のこうして話している間も一生懸命に作っているのです。はははははは、はははははは。」
 老人は苦しそうに笑い笑い、茉莉花の匂いのするハンカチイフを出した。これはただの笑いではない。人間の愚を嘲弄する悪魔の笑いに似たものである。僕は顔をしかめながら、新しい話題を持ち出すことにした。

(芥川龍之介『不思議な島』)

 確かにこの島の住民は愚かなのだろう。この「徒労」は天地を主宰するカメレオンに捧げられる「牲(にえ)」なのだ。この「牲(にえ)」は野菜ではなく生きた動物を意味する。ここで芥川龍之介は「野菜を殺します」と言った酒鬼薔薇君と同じ意味で「野菜」という言葉を使っているのだ。

 そして「もう世界の信仰はエホバでもなければ、アラアでもない。カメレオンに帰したとも云われ」るのであれば、「まだ日本には仏陀がいます」では逃げられまい。仏陀は日本のものではない。

 この話そのものは『ガリバー旅行記』を読むうちに寝落ちした主人公、「僕」の夢落ちといういかにも安易な形式をとる。

 なるほど『ガリバー旅行記』には社会風刺的な奇譚が綴られた。それで奇妙な夢を見たのだなと済まそうとしているが、世は関東大震災後の疲弊した日本、神である筈の天皇に代わって人間の息子が摂政として大権を行使している。『不思議な島』が日本そのものであることを疑う者はいまい。この「不思議」の文字に込められたものは、まださして批判性を持たない。何処か呑気なふりを装いながら、逃れるべくもない時代性を帯びている。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?