2023年2月の記事一覧
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する98 夏目漱石『行人』をどう読むか⑩
Hさんは迷惑な人だ
どういうわけかHさんを悪く言う人はいない。だから私が「お喋り野郎」などと書くと不快に思われる方もいるかもしれない。しかし私ならHさんとは旅行をしたくない。
小説なのだから、ここは笑うところだ。しかし大いびきをかく男と実地で十日間も旅行させられてはたまらない。相手は寝ているのにこちらは寝られない。こんな不平等なことは無い。Hさんは一郎と同輩くらいの年齢だろうから、家族もい
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する97 夏目漱石『行人』をどう読むか⑨
誠実さって何んだろう?
久々に他人のnoteを覗いてみた。相変わらずここまでどうでもいいことを堂々と書くものだなと呆れてしまった。評論家の読み方に誘導されて読んでいるのに「自分なりに」などと書いてしまう。何故他人の読み方に誘導されているのに「自分なりに」などと書いてしまうのか、全く意味が分からない。しかも相変わらず「あらすじ」さえ掴んでいない。「あらすじ」が掴めていないのに感想も何もないものだ
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する96 夏目漱石『行人』をどう読むか⑧
おかずが何なのか分からない
私が近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だ、と書くのは、夏目漱石からそう書くように命令されているからです。
夏目漱石自身は大変な食いしん坊ですが、その作品においてはけしてグルメらしいところを見せず、何を食わせても美味しいの一言もありません。
本当にそう確信したのは三四郎が美禰子のサンドウイッチを食べるところです。三四郎は本当に一言も感想を言いません。坊ちゃん
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する95 夏目漱石『行人』をどう読むか⑦
一郎は何歳なのか
夏目漱石作品ではどういう了見かわからぬ年齢が明示されて強調され、あるいはどういう了見か徹底的に伏せられるということがある。徹底的にというのは明かしてもいいところで敢えて明かさないというニュアンスを言っている。例えば『行人』では直の年齢が問われるも答えはない。
これでは何歳なのかが分からない。仮に二郎が二十六歳なら二十五歳か二十四歳、十八で嫁に行ったお兼さんの五年後の今と同
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する94 夏目漱石『行人』をどう読むか⑥
私は『行人』という小説の面白さを伝えたい。これまで誰かが適当に読み流し、適当なことを書いていたことを責めるのが私の目的ではない。違うものは違うと言わねばならないが、できれば良いものの良さを伝えたい。ここが面白いよと伝えたい。
しかしいかにも距離があり過ぎる。これまでの近代文学1.0の読みは余りにも杜撰過ぎて、そこから修正していくのでは時間がかかりすぎる。だからこれまでの読みとは随分違う読みを
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する93 夏目漱石『行人』をどう読むか⑤
兄は車で学校へ出た
ここに岩波は、
と注解をつける。ここに大きな異論はない。しかし一郎は出世したとはいえ大学の教授であろう。これは贅沢と思える。いや、私ではなくて谷崎潤一郎がそう書いている。
岩波書店・漱石全集注釈を校正するベストセレクション④
「日向と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ」とは言っていない
延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ、と言われている理由については正確に解釈しなくてはならない。日向と延岡は違う。あたりまえのことだが、こじつけてはいけない。こじつければ何とでも云える。冗談としてこじつけるのは良い。ただ本当にその線引きが出来ない人間には、真面目なものを書く資格がない。人に物を教える資格もない。
大違いの勘
岩波書店・漱石全集注釈を校正するベストセレクション③
這裏とは禅語では単なる場所を意味しない
禅語と云うのは取り扱いが難しい。その使い手がどの程度の解釈で用いているのかが曖昧だからだ。しかしここは俗語の説明になっているので駄目。改めるべきだろう。
橋本の名は入れなくてよろしい。
いかにも曾呂崎が橋本三五郎であるかのような印象操作になっていないだろうか。
「旻」は「閔」である
解るところまで説明しないと意味がない。
「糞箆」は洗わない
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する91 夏目漱石『行人』をどう読むか③
この『行人』という小説の表の筋はいい加減な使いとしての二郎がお貞の縁談をまとめ、その裏の筋としていい加減な使いとして二郎が直の縁談をまとめたという書かれていない設定があると書いて来た。そこが読めていないと二郎と直が先から知り合いだったという関係性が宙に浮いてしまい、何か真面な事を書いているように『行人』を論じてもネジが一本抜けたようになってしまうと。
お貞の縁談という筋が見えないで勝手に一郎を
夏目漱石『それから』をどこまで正確に読めるか⑱ あれとあれが戦う話じゃないのか
これまで頑なに信じて来たもの、例えば自分自身が読書家なり、先生なり、文芸批評家なり、學者なりと自認していて、あるいはそこまでではないとしても真面な知性の持ち主であり、高校時代には芥川龍之介の書いている『羅生門』や中島敦の『山月記』はちゃんと読めたと信じていて、その上で私が書いた、
こんな記事を読んでたちまち自分の読解力を疑い、「自分はちゃんと読めていなかったのではないか」と自分自身を疑うこと
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する90 夏目漱石『行人』をどう読むか②
懇気に
岩波はこの「懇気に」に対して、「当時としても普通には見られない表現」としている。
などの用例がある外、漱石の書簡に「あなたは能く懇氣にあれ丈の仕事をなさいます感心の至です」と使われている。
むしろ「洋食屋」の注解に現れる「それ以外にもシチュー、オムレツ、ミンチエッグ、コロッケ、グラタン、カツレツ、スープなどが親しまれていた」とある説明の中の「ミンチエッグ」が国立国会図書館デジタル
夏目漱石『それから』をどこまで正確に読めるか⑰ 無意識はどこまで考えているか
夏目漱石の『それから』が自我とか意識と言うものを繰り返し疑いつつ、しかも自分と云うものを腸の皴にまで拡大しながら、代助の無意識を試しているような作品であることに対して、私は自分が右手一本で文字を打ち、それが半ば無意識であり、意識しては打てないことを以て半ば疑い半ば同意してきた。それにしても独特な感覚の捉え方だと書いて来た。
しかしこれはやはり夏目漱石がタイムトラベラーである証拠の一つであるか
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する89 夏目漱石『行人』をどう読むか①
これまで『行人』に関しては、「『行人』を読む」として15本の記事を書いて来た。
本来ならその続きとして、つまり「『行人』を読む⑯」として書くべきところを敢て「『行人』をどう読むか①」として書くのは、これまで書こうとして敢て書かなかったところ、金でも貰って書くべきところを書いてみようかと思うからである。
おそらくこの記事をきちんと読むと、これまで曖昧だった『行人』という作品の大きな構造が理
夏目漱石『彼岸過迄』における主人公の役割に関する一考察
夏目漱石作品はどう読まれてきたか
読書、あるいは黙読という極めて個人的な体験において、何かよほど特別な理由でもない限り、自分がその作品を「どう読んでいるのか」などということを意識することは殆どないだろう。
どう読むも何も、ただ自然に文字を読んで、何某かの意味を求めているつもりであることが殆どではあるまいか。
読んでいる最中に「私はこの作品をどう読んでいるのか」などと考え始めると