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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する93 夏目漱石『行人』をどう読むか⑤

兄は車で学校へ出た

 二三週間はそれなり過ぎた。そのうち秋がだんだん深くなった。葉鶏頭の濃い色が庭を覗くたびに自分の眼に映った。
 兄は俥で学校へ出た。学校から帰るとたいていは書斎へ這入って何かしていた。家族のものでも滅多に顔を合わす機会はなかった。用があるとこっちから二階に上って、わざわざ扉を開けるのが常になっていた。

(夏目漱石『行人』)

 ここに岩波は、

 地所を買って邸宅を新築し、抱え車夫を置くことが出世の一つのパターンとみなされていたようだから(西村渚山「原宿生活」『家庭雑誌』明治三十九年十二月)、長野家ぐらいの生活水準であれば当然自家用の人力車は持っていよう。

(『定本漱石全集 第八巻』岩波書店 2017年)

 と注解をつける。ここに大きな異論はない。しかし一郎は出世したとはいえ大学の教授であろう。これは贅沢と思える。いや、私ではなくて谷崎潤一郎がそう書いている。

 私が帝大生であった時分、電車は本郷三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかったので、漱石はあすこからいつも人力車に乗っていたが、リュウとした対の大嶋の和服で、青木堂の前で俥を止めて葉巻などを買っていた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大学の先生にしては贅沢なものだと、よくそう思い思いした。

(谷崎潤一郎『文壇昔ばなし』)

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