おかずが何なのか分からない
私が近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だ、と書くのは、夏目漱石からそう書くように命令されているからです。
夏目漱石自身は大変な食いしん坊ですが、その作品においてはけしてグルメらしいところを見せず、何を食わせても美味しいの一言もありません。
本当にそう確信したのは三四郎が美禰子のサンドウイッチを食べるところです。三四郎は本当に一言も感想を言いません。坊ちゃんもうらなり君の送別会の料理を不味いと評し、下宿では芋攻めに閉口します。唯一褒めているのは『吾輩は猫である』の羊羹ですが、これも味ではなく見た目の美しさを褒めているのでグルメではありません。アンチグルメの極みは『坑夫』の蠅のたかった饅頭や南京飯ですかね。
そしてこの場面、おかずが何なのかさえ解りません。
ここでおかずが何なのか分かる人がいますかね?
糸ごんにゃくの煮たものですか?
そうは書いていないですね。
これではおかずが何なのか解りませんよね。ご飯しか食べていないかのようです。しかし米の飯には何か塩気が必要でしょう。しかしまだ汁さえ書かれていません。汁なしで飯を食うとしたら、お茶くらい必要でしょうが、そんなものもまだ出てきません。
これがホームドラマならやはりおかずは必要なわけです。しかし漱石は敢えてここでは「おかずは書かない」という遊びをしていますね。要するに近代文学1.0が顔出しパネルと文豪飯だということに我慢がならないからです。坊ちゃんとマドンナには一言も会話をさせていないのに、強引に顔出しパネルが作られてしまっています。そのことに漱石は文句が言いたいわけです。
私は逆に夏目漱石は東海林さだおは認めるんじゃないかと思います。あそこまで行ければそれはそれでありだと。恐露病に罹っていないと。
しかし兎に角この場面ではおかずが何なのか分からないように書いています。文豪飯批判です。まるでここではお貞がおかずになっているかのようです。しかし岩波はここにおかずが何なのか注をつけませんね。当時はお米のごはんだけの朝食が当たり前だった、とか何とか。
はっきり言えることは、一郎がお米のご飯をたくさん食べているということだけです。『歯車』の「僕」とは違って一郎は食欲旺盛だということだけです。
ただそう気が付いて読み直してみると……(何回読み直す気?)
ご飯が出たのかどうかが分からない
かと思えば漱石はこんな書き方もしています。
ここではおかずが分かっていて、ご飯が出たのかどうかが解りません。ビールを飲むときはご飯は後で食べるという人が多いと思いますが、ご飯がないと普通は晩飯とは言いませんよね。これはおかずだけ出てきてお米のご飯は無し、という昔の村上春樹さんの晩飯スタイルでしょうか。
それとも書かれていないだけでご飯は出て来たのでしようか。
何しろ「なに後が引けるほど飲ませやしないやね」ということならビールは一二本で、ご飯を食べさせそうなものですが、ここでは漱石は敢えてご飯を書きません。やはり文豪飯に反対しているわけです。
そしてちょっと細かい事を書きますと現代の作家ならここで「刺身だの吸物だの」とはやらないわけです。つまりジュンサイの吸い物であるとか、烏賊の刺身と書く訳です。そうした方がいいと思われているわけですね。
しかし漱石はここで敢て何の刺身かと書きません。
何を食べたのかさえ分からない
ここで朝ご飯は「三人で飯を済ました後」とほぼ「飯」の一言で片づけられています。全く説明する気がありません。東京の朝ご飯は梅干しと鯵の開きだけど大阪の朝ご飯は納豆と干し鰈だなどとは書かれていません。
本当はそこは明確に違うと思うのです。昭和にあっても東京が焼きのりだとしたら大阪は味付け海苔ですからね。みそ汁の味噌も具もだしも全部違うはずです。なのに漱石はそこを敢て書きません。書いたら面白かろうと思うのですが書きません。
というよりなんですかね、そこにフォーカスしたくないんですね。おそらく。だから「飯」の一言で済ましたわけです。ここで干し鰈を出しても「ひめいち」みたいなことになるなと計算しているわけです。これが漱石文学なのです。
また一文字で片付ける
いやさすがに「膳」の一文字と云うのは省略しすぎではなかろうかと思えてきませんか。食堂車でビーフカツレツを食べるロンメル将軍くらいのことは書いてもいいんじゃないかと思わせるように書いていますね。「膳」って何だと思えてきます。
大阪だから刺身は鮪ではなく湯引きした鯛だろうとか、煮物もお吸い物もこぶだしで上品なのに、「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」と云わせるのはどんな加減なのかと思いますよね。しかも「浄瑠璃じゃあるまいし」のたとえ突っ込みは古いですよ。そりゃ蕎麦と天麩羅は東京が美味しいです。しかし鰻は両方美味しいですし、大阪の方が東京より発達しているものは浄瑠璃だけではありませんよね。
思い出してください。坊ちゃんはわざわざ天麩羅蕎麦を食べますよね。蕎麦と天麩羅は東京が美味しいんです。これは間違いない。しかしですよ、大阪は浄瑠璃だけということはないわけです。だからこそ「膳」の一文字なんでしょうね。そうでなくては浄瑠璃が出てこないわけです。
ほんの有り合わせで
これはどう考えてもわざとですよね。九谷焼の猪口と書いているわけですから、玉子焼きなり、茄子の煮浸しなりと具体的に書いて書けなくはないわけです。しかしここは書かないんです。
この『行人』には41回「飯」の文字が出てきますが、おかずが明かな飯は一度もありません。唯一おかずが「吸い物と刺身」だと解るところではご飯が書かれません。
しかしですよ、そんなことありますか?