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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する96 夏目漱石『行人』をどう読むか⑧

おかずが何なのか分からない

 私が近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だ、と書くのは、夏目漱石からそう書くように命令されているからです。

 夏目漱石自身は大変な食いしん坊ですが、その作品においてはけしてグルメらしいところを見せず、何を食わせても美味しいの一言もありません。

 本当にそう確信したのは三四郎が美禰子のサンドウイッチを食べるところです。三四郎は本当に一言も感想を言いません。坊ちゃんもうらなり君の送別会の料理を不味いと評し、下宿では芋攻めに閉口します。唯一褒めているのは『吾輩は猫である』の羊羹ですが、これも味ではなく見た目の美しさを褒めているのでグルメではありません。アンチグルメの極みは『坑夫』の蠅のたかった饅頭や南京飯ですかね。

 そしてこの場面、おかずが何なのかさえ解りません。

 昨日の朝食事をした時、飯櫃を置いた位地の都合から、私が兄さんの茶碗を受けとって、一膳目の御飯をよそってやりますと、兄さんはまたお貞さんの名を私の耳に訴えました。お貞さんがまだ嫁に行かないうちは、ちょうど今私がしたように、始終兄さんのお給仕をしたものだそうですね。昨夜は性格の点からお貞さんに比較され、今朝はまたお給仕の具合で同じお貞さんにたとえられた私は、つい兄さんに向って質問を掛けて見る気になりました。
「君はそのお貞さんとかいう人と、こうしていっしょに住んでいたら幸福になれると思うのか」
 兄さんは黙って箸はしを口へ持って行きました。私は兄さんの態度から推おして、おおかた返事をするのが厭なんだろうと考えたので、それぎり後を推しませんでした。すると兄さんの答が、御飯を二口三口嚥み下したあとで、不意に出て来ました。
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」

(夏目漱石『行人』)

 ここでおかずが何なのか分かる人がいますかね?

 糸ごんにゃくの煮たものですか?

 そうは書いていないですね。

 兄さんはまた無言で飯を二口ほど頬張りました。兄さんの茶碗はその時空になりましたが、飯櫃は依然として兄さんの手の届かない私の傍にありました。私はもう一遍給仕をする考えで、兄さんの鼻の先へ手を出したのです。ところが今度は兄さんが応じません。こっちへ寄こしてくれと云います。
 私は飯櫃を向うへ押してやりました。兄さんは自分でしゃもじを取って、飯をてこ盛にもり上げました。それからその茶碗を膳の上に置いたまま、箸も執らずに私に問いかけるのです。
「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」

(夏目漱石『行人』)

 これではおかずが何なのか解りませんよね。ご飯しか食べていないかのようです。しかし米の飯には何か塩気が必要でしょう。しかしまだ汁さえ書かれていません。汁なしで飯を食うとしたら、お茶くらい必要でしょうが、そんなものもまだ出てきません。

 こうなると私にはおいそれと返事ができなくなります。平生そんな事を考えて見ないからでもありましょうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張って、兄さんの説明を待ちました。
「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。今のお貞さんはもう夫のためにスポイルされてしまっている」
「いったいどんな人のところへ嫁に行ったのかね」と私が途中で聞きました。
「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求できるものじゃないよ」
 兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平らげました。

(夏目漱石『行人』)

 これがホームドラマならやはりおかずは必要なわけです。しかし漱石は敢えてここでは「おかずは書かない」という遊びをしていますね。要するに近代文学1.0が顔出しパネルと文豪飯だということに我慢がならないからです。坊ちゃんとマドンナには一言も会話をさせていないのに、強引に顔出しパネルが作られてしまっています。そのことに漱石は文句が言いたいわけです。

 私は逆に夏目漱石は東海林さだおは認めるんじゃないかと思います。あそこまで行ければそれはそれでありだと。恐露病に罹っていないと。

 しかし兎に角この場面ではおかずが何なのか分からないように書いています。文豪飯批判です。まるでここではお貞がおかずになっているかのようです。しかし岩波はここにおかずが何なのか注をつけませんね。当時はお米のごはんだけの朝食が当たり前だった、とか何とか。

 はっきり言えることは、一郎がお米のご飯をたくさん食べているということだけです。『歯車』の「僕」とは違って一郎は食欲旺盛だということだけです。
 ただそう気が付いて読み直してみると……(何回読み直す気?)

ご飯が出たのかどうかが分からない

 かと思えば漱石はこんな書き方もしています。

 宅では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧をして二人のお酌をした。時々は団扇を持って自分を扇いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉の匂いを微かに感じた。そうしてそれが麦酒や山葵の香よりも人間らしい好い匂のように思われた。
「岡田君はいつもこうやって晩酌をやるんですか」と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸で困ります」と答えてわざと夫の方を見やった。夫は、「なに後が引けるほど飲ませやしないやね」と云って、傍にある団扇を取って、急に胸のあたりをはたはたいわせた。自分はまた急にこっちで会うべきはずの友達の事に思い及んだ。
「奥さん、三沢という男から僕に宛てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」
「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」
 岡田はこう云って、自分の洋盃へ麦酒をゴボゴボと注いだ。もうよほど酔っていた。

(夏目漱石『行人』)

 ここではおかずが分かっていて、ご飯が出たのかどうかが解りません。ビールを飲むときはご飯は後で食べるという人が多いと思いますが、ご飯がないと普通は晩飯とは言いませんよね。これはおかずだけ出てきてお米のご飯は無し、という昔の村上春樹さんの晩飯スタイルでしょうか。
 それとも書かれていないだけでご飯は出て来たのでしようか。
 何しろ「なに後が引けるほど飲ませやしないやね」ということならビールは一二本で、ご飯を食べさせそうなものですが、ここでは漱石は敢えてご飯を書きません。やはり文豪飯に反対しているわけです。

 そしてちょっと細かい事を書きますと現代の作家ならここで「刺身だの吸物だの」とはやらないわけです。つまりジュンサイの吸い物であるとか、烏賊の刺身と書く訳です。そうした方がいいと思われているわけですね。

 しかし漱石はここで敢て何の刺身かと書きません。

何を食べたのかさえ分からない


 それでも綺麗ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」
「金魚は泳いでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」
 自分はお兼さんが、死にかかった金魚の運命について、何かセンチメンタルな事でもいうかと思って、煙草を吹かしながら聴いていた。けれどもいくら待っていても、お兼さんは何とも云わなかった。岡田の声も聞こえなかった。自分は煙草を捨てて立ち上った。そうしてかなり急な階子段を一段ずつ音を立てて下へ降りて行った。
 三人で飯を済ました後、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩り案内をする時間がないのを残念がった。自分はここへ来る前から、そんな事を全く予期していなかったと云って、白い詰襟姿の彼を坐ったまま眺めていた。

(夏目漱石『行人』)

 ここで朝ご飯は「三人で飯を済ました後」とほぼ「飯」の一言で片づけられています。全く説明する気がありません。東京の朝ご飯は梅干しと鯵の開きだけど大阪の朝ご飯は納豆と干し鰈だなどとは書かれていません。

 本当はそこは明確に違うと思うのです。昭和にあっても東京が焼きのりだとしたら大阪は味付け海苔ですからね。みそ汁の味噌も具もだしも全部違うはずです。なのに漱石はそこを敢て書きません。書いたら面白かろうと思うのですが書きません。

 というよりなんですかね、そこにフォーカスしたくないんですね。おそらく。だから「飯」の一言で済ましたわけです。ここで干し鰈を出しても「ひめいち」みたいなことになるなと計算しているわけです。これが漱石文学なのです。

また一文字で片付ける


 佐野は写真で見たよりも一層御凸額であった。けれども額の広いところへ、夏だから髪を短く刈かっているので、ことにそう見えたのかも知れない。初対面の挨拶をするとき、彼は「何分よろしく」と云って頭を丁寧に下げた。この普通一般の挨拶ぶりが、場合が場合なので、自分には一種変に聞こえた。自分の胸は今までさほど責任を感じていなかったところへ急に重苦しい束縛ができた。
 四人は膳に向いながら話をした。お兼さんは佐野とはだいぶ心やすい間柄と見えて、時々向側から調戯ったりした。
「佐野さん、あなたの写真の評判が東京あっちで大変なんですって」
「どう大変なんです。――おおかた好い方へ大変なんでしょうね」
「そりゃもちろんよ。嘘だと覚し召すならお隣りにいらっしゃる方に伺って御覧になれば解るわ」
 佐野は笑いながらすぐ自分の方を見た。自分はちょっと何とか云わなければ跋が悪かった。それで真面目な顔をして、「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」と云った。すると岡田が「浄瑠璃じゃあるまいし」と交返えした。

(夏目漱石『行人』)

 いやさすがに「膳」の一文字と云うのは省略しすぎではなかろうかと思えてきませんか。食堂車でビーフカツレツを食べるロンメル将軍くらいのことは書いてもいいんじゃないかと思わせるように書いていますね。「膳」って何だと思えてきます。

 大阪だから刺身は鮪ではなく湯引きした鯛だろうとか、煮物もお吸い物もこぶだしで上品なのに、「どうも写真は大阪の方が東京より発達しているようですね」と云わせるのはどんな加減なのかと思いますよね。しかも「浄瑠璃じゃあるまいし」のたとえ突っ込みは古いですよ。そりゃ蕎麦と天麩羅は東京が美味しいです。しかし鰻は両方美味しいですし、大阪の方が東京より発達しているものは浄瑠璃だけではありませんよね。

 思い出してください。坊ちゃんはわざわざ天麩羅蕎麦を食べますよね。蕎麦と天麩羅は東京が美味しいんです。これは間違いない。しかしですよ、大阪は浄瑠璃だけということはないわけです。だからこそ「膳」の一文字なんでしょうね。そうでなくては浄瑠璃が出てこないわけです。

ほんの有り合わせで


 「じゃ君といっしょに行こうじゃないか。いっしょの方が僕一人より好かろう、精しい話ができて」
 三沢にそれだけの好意があれば、自分に取っても、それに越した都合はなかった。彼は着物を着換ると云ってすぐ座を起ったが、しばらくするとまた襖の陰から顔を出して、「君、母が久しぶりだから君に飯を食わせたいって今支度したくをしているところなんだがね」と云った。自分は落ちついて馳走を受ける気分をもっていなかった。しかしそれを断ったにしたところで、飯はどこかで食わなければならなかった。自分は瞹眛な返事をして、早く立ちたいような気のする尻を元の席に据えていた。そうして本棚の上に載せてある女の首をちょいちょい眺めた。
「どうも何にもございませんのに、御引留め申しましてさぞ御迷惑でございましたろう。ほんの有合せで」
 三沢の母は召使に膳を運ばせながらまた座敷へ顔を出した。膳の端には古そうに見える九谷焼の猪口が載せてあった。行人

(夏目漱石『行人』)

 これはどう考えてもわざとですよね。九谷焼の猪口と書いているわけですから、玉子焼きなり、茄子の煮浸しなりと具体的に書いて書けなくはないわけです。しかしここは書かないんです。
 この『行人』には41回「飯」の文字が出てきますが、おかずが明かな飯は一度もありません。唯一おかずが「吸い物と刺身」だと解るところではご飯が書かれません。

 しかしですよ、そんなことありますか?

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