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久米正雄「漱石先生の死(記錄)」

※久米正雄の「漱石先生の死(記錄)」が国立国会図書館のデジタルライブラリーとデジタルコレクションで公開されています。久米の漱石への思いが溢れたこの記録を読んでいくうちに、まさに死につつある漱石を見詰めている気分になり、涙を禁じ得ませんでした。

 この作品は、青空文庫にはまだないようです。漱石ファンなら是非とも読んで貰いたいと思い、潰れていたテキストデータを目視で補正しました。


「漱石先生の死(記錄)」     久米正雄

 健やかな先生の顏の見納めであつた最後の木曜日は、忘れもしない十一月の十六日であつた。其夜吾々は、殆んど其場限りの雜談しか伺はないで、いつも十二時近くまで居殘るのを、十時少し過きに辭去して了つた。後から聞くと、其時居殘つた森田さんや安倍さんたちには、又々「則天去私」の文學觀に就て、一層詳しいお話があつたのださうである。私は今でも猶あの時早く歸つたのを悔んでゐる。田端までの芥川の歸りが晩くなるのと、私が黑潮へやる原稿の締切を前にしてゐたのとのため、用のない赤木君まで誘ひ込んで、松岡を加へた本郷行の四人は、例になく早い時刻を柳町の停留場に佇んだのであつたが、あの時先生がいつもの通り、輕く親しげな會釋と共に、「失敬」と仰しやつたのを、永久に先生とのお別れの言葉であると知つたなら、あゝ迄手輕く辭去するのではなかつたに、それもこれも今は只徒らに遺憾の種として思ひ出さるゝのみである。

 後から聞く所に依れば、先生はあの夜旣に少しく不快の徵を萌して居られたのださうである。其次の木曜日は丁度十一月の廿三日で、私の二十五歲が滿ちた誕生日に當つてゐた。私は此の紀念すべき日の一夜を、先生の傍で過ごさうと思ひ、その祝ひのために心ばかりの洋酒を携へて、七時頃先生のお宅を訪れた。所がいつも夜は閉めてある筈の表門が廣く開け放たれて、暗い玄關には俥が二臺待つてゐた。私は何事が起つたのかと思つた。併し其日の喜悅に滿ちた輕噪な氣分で、私はそれを何でもない富裕な訪問客があるのだと云ふ位にしか考へずに、枯れてさらさら鳴る柱の葛をまさぐり乍ら可なり勢ひよく玄關のべルを押した。するといつも見馴れた女中さんが出て來て、「あの今日は御病氣でございまして、どなたにも御目にかゝれません。」と云つた。私は驚いて暫らく女中の顏を見守つた。而して急に浮々してゐた(私は少しく酒氣をさへ帶びてゐた)今までの自分を、堪へ難く恥づかしいやうに感じた。御容態を詳しく聞きたゞす言葉もなく、何ものにか叱られたやうな心持で、倉皇と先生の門から踵を返したのであつた。※「倉皇」あわてふためいたようす。

 それは先生が、御持病には最も怖ろしい兆候である、嘔吐を催された翌日であつた。玄關に待つてゐたのは主治醫の眞鍋さんたちの俥であつた。その又次ぎの木曜日には、私は一二の雜誌から依賴された、新年號の原稿に忙殺されてゐた。併し夜數時間を先生の許で過ごすことは、勞作の慰癒にもなり又刺戟にもなるのが常であつたら、先生の御病狀さへ快ければ出掛けたいと思つた。而して一と先づ赤木君の所へ電話を掛けて、先生の樣子を問ひ合せ、よければ一緒に誘つて行かうと思つた。處が赤木君は少しも先生の容態を知らなかつた。それで止むを得ず更に先生のお宅へ電話を掛けた。すると若い男の人の聲で、二三日前は大變惡かつたけれど、今は少しく落着いたから安心せよと云ふ旨の返事があつた。私はそれで訪問を思ひ切ると共に、「どうぞ御大切になさるやうに」と云つてすぐ電話を切つた。旣に、此時の先生は、第一回の大出血を見た後だつたのである。

 二三日前に惡かつたと云ふのは、廿八日の夜十一時半頃に、先生は不意に床上に起き上つた卒倒されたのであつた。越えて其次ぎの木曜日は、十二月の七日であつた。それは今度こそ先生に會はれるだらうと期待して、しかも空白のまゝで過ぎた、第三回目の木曜だつた。而して吾々にとつては主人である、漱石山房と切り離して考へる事の出來ぬ、木曜日と云ふ木曜日の、その最後のものであつた。

 私は旣に前々日新年物の約束を果して、可なり暢然たる氣分の中に、鎌倉にゐた芥川を訪れた。松岡もその前日から行つてゐた。僅か五日ばかりの短日月でも、此三人を暫らく離してゐた日子(にっし)は、會ふ早々からの談話にいつも以上の勢ひを與へた。三人は枕を揃へて寢乍ら、又砂濱を歩き乍ら、いろいろ創作に就て語り合つた。勿論先生の病氣の話も出た。けれども誰一人として、先生の死を考へたものはなかつた。吾々は只管に快癒するものと信じ切つて、すべての事柄を其上に築き上げてゐた。私は前月中にある職を得て、すぐ廢めた事實を記錄的に書き綴つたものを、是非先生に讀んで頂く心算でゐた。先生はすべて吾々の物を讀んでゐて下すつたが、殊に此の記錄は、私が先生に事實を報告した時、先生から「そいつを書くと露西亞物になるね。」と嘲笑と同情とで微笑された生々しい記憶を持つてゐたからであつた。

 兎に角かう云ふやうな明るい心持で、吾々はその木曜の午後六時頃に東京驛へ歸りついた。蒼茫と暮れて了つた街路には、もう寒い風が立ち初めてゐた。三人はその儘話し足りないやうな心持で、街を歩いた。而して神田のパウリスタへ寄つて、又々「駄辯欲の充足」を試みようとした。

 皆の心にはいつもなら先生を取り圍んで、打ち興じてゐる毎(いつ)もの木曜日が浮んだ。而してそれの無い今日の寂びしさを、ぼんやり心に沁みて感じてゐた。

 歸り道に家が近くなると、松岡は急に「何か僕の留守中に惡い事が出來てゐるやうな氣がする」と云ひ出した。私も何だか胸騒ぎがしてゐた。併しそれを先生の死と結び合せる事は、夢にも考へなかつた。吾々は只それを或る事の緊張狀態を閱した疲れから生じたものと論斷した。

 その或る事と云ふのは、かうである。實は吾々は、否吾々の中でこんな惡戲を最も好んでゐる松岡は、八幡宮の鳩を一羽、ひそかに捕へて懷ろに入れた儘東京まで歸つたのであつた。彼は恰も白晝の盜人のやうに、鈴木さんの小說にでもありさうな可愛いゝ小鳩を、鳴かぬやうに動かぬやうに左の胸の處で抑へて、二三時間の途中を、吾々以外の誰れにも氣づかれずに持ち歸つたのである。

 私はそれやこれやで餘り妙な惡戯が過ぎたゝめ、又人に氣づかれねやうにする冥々の努力のために、何となく氣疲れが生じたのだと思つた。而して私はそれを鳩の祟りだと云つた。併しそれが果して祟りとすれば、實に大き過ぎる程大きい崇りであつた事が、二三日ならずして知れたのである。

 三人が最も近い松岡の家まで辿りついて、そこの室內に放つた時、少し弱つたらしい鳩は、可愛いゝ赤い眼をきよとつかせて、不審さうに四邊を見廻した。もう三人は默つてゐた。その時急に私は何とも知れぬ寂しいやうな氣がして、又いつもの樂しい木曜日を思ひ出した。而して急に先生へ手紙を書きたくなつた。(それも今から考へると廻り合せだと云ふ氣がする。)それでその机へ坐つて、傍にあつた松岡の手束紙をのべて、取とめもなく暢氣なことを、(先生が飽く迄快方に向つてると信じてゐたので)長々と書きつらねた。それには自分たちの近況やら、又層々累々とアクセレレートしつゝある「明暗」の叙述に、驚歎の言葉を呈したりした。私は明かにそれが病床で、若くは旣に常態に近く恢復してゐる先生に依つて、讀まれる事を豫想してゐた。而して更にそれが先生の或る微笑を釀すだらう、從つて或る種の御見舞にもなるだらうと迄、考へてゐたのである。

 傍にゐた芥川はそれを見て、「今手紙を上げた處で、きつと讀めないから徒勞だ」と云つた。けれども私は私の心持としてそれを投函せずにはゐられなかつた。その翌日(八日)の夕方、私は右の手紙に對する返事を夏目さんから頂いた。併しそれは先生から頂いたのではなかつた。裏には夏目鏡子代としてあつた。先生のに似てはゐるが、疑もなく小宮さんの手蹟であるのが解つた。私には鏡子の「鏡」を崩したのがどうしても讀めなかつた。けれども私は不安と危惧とに驅られ乍ら、慌てゝ封を切つた。

※「鏡」の崩し字

 その手紙にはかうあつた。御手紙拜見致しました。先生は二十三日にすこし吐血、夫からずつと寢つゞけで、二十八日と今月二日と、其後二度內出血がありました。二度ともかなり險惡な狀態だつたのですが、殊に二日の晩は、あとでお醫者の話によると、夜明けまでもつかしらと思つて心配した位だつたさうです。二日以後稍平穩だつたのですが、昨日から又大分工合がわるくなりました。これは二週間以上絕食のため衰弱が來たので、この衰弱は營養の供給を十分にしなければ危險であり、然かも營養の供給を十分にするためには、內出血があるかも知れないと云ふ事を豫想しなければならず、お醫者は大分心配しておいでゞす。ゆうべは眞鍋さんはじめお醫者が外に二人ほとんど徹夜的についてゐて下さいました。事件が突發しない限り、營養の補充がつくかぎり、大丈夫だと思はれますが、夫でもまだどうなることか分かりません。

十二月八日、                      夏目鏡子代

久米正雄樣


 其日も遊び呆けて歸つて來た私は、美しい書體で流暢に書かれた、しかも險惡極まる內容を讀んで、殆んど吃驚して了つた。けれどもまだ死ぬとは考へてゐなかつた。而して何事を置いても、お宅へ駈けつけて然るべきを、まづ機を見てからにしようと思つた。それにまだお宅とは少しも親密になつてゐない自分が、取り込みの最中上つても御迷惑だと考へて、私かに先生の恢復を祈るだけにとゞめた。

 後から聞く所によると、前の私の手紙は先生が生死の境を辿つて居られる、大切な危機に屆いたのださうである。而してそれを開けて見た小宮さんは、奧さんに「こいつ餘り呑氣な事を云つてゐるから、一つ嚇かしてやりませうよ」と云つて、今迄なるべく祕密にして來た症狀を、可なり威嚇的に知らして呉れたのださうである。

 それを見て私が驚いたのも無理はなかつた。さて、その日も暮れて、明くる九日となつた。私は私の生涯に於て、忘るゝ事のできぬ此の日を、今淚と共に語らなければならない。

 九日の午前中の私の部屋には、昨日の手紙から持ちつゞけた心配だけで、まだ何事もなかつた。私は遊びに來た松岡と、もう一人中戶川君とを對手に、四方山の話をしてゐた。松岡は勿論であるが、中戶川君も先生の崇拜者であつた。而して丁度朝日の懸賞小說の話が出た時、同君は「夏目先生に見て頂けるなら、落選してもいゝ」と云ふやうな話をして、私から最近の症狀を聞くと、可なり吃驚して心配してゐた。けれども吾々はまだ死には、一語も云ひ及びもせず、考へもしなかつた。それで瞬く間に話題はそれからそれへ移つて、とかうする中、晝近くなつた。

 すると其時である。

 私は夏目さんからと云ふ電話の取次によつて、女中から驚かされた。急いで出てみると、それは同邸に行つてゐた赤木君から掛けて吳れたものであつた。私が慌てゝ耳に當てた受話器の中で、赤木君の興奮した甲ン高い聲が、途斷れ乍らかう響いた。「先生は今危篤なんです。もう一二時間持たれるかどうか解りません。今から直き來たら死目に會はれるかも知れません。君から芥川君の方へすぐ知らして吳れ給へ

 私は之だけの要點を聞き取ると、戰へる手で受話器を掛け終つて、急いで室へ取つて返した。何だか駈けた譯でも何でもないのに、獨りで息切れがした。私は唾を飮むやうにして氣を落着かせ乍ら、松岡と中戶川君に電話の內容を報告して、何よりも先に、先生のお宅へ駈けつける事にした。松岡はまだ殘つてゐて、差し當つた雜誌の用務を片附けねばならなかつたのである。私は下宿を出ると、急いで森川町の郵便局へ行つて、鎌倉の芥川へ電報を打つた。私は今日彼を主賓にした歡迎會が鎌倉の小町園であるのを知つてゐた。そこで彼の居宅とその料亭とに向つて同文電報を二つ打つた。

 而して可なり慌てふためいた心持の中でも、さういふ宴席半ばに飛電を手にした彼の態度を、まざまざと想像して、その後の成りゆきを氣遣つてやる餘裕もあつた。只併し電報料として五圓紙幣を出した時に、釣錢がないからと局員に云はれた時は、譯もなく急がれて腹が立つた。それで場合が場合だからと言葉忙しく說明して、やつと料金を借りる事にしてそこへ來た電車に急いで飛び乘つた。電車の中の私は、明かにわくわくしてゐた。けれども危篤と聞いてゐ乍ら、猶先生の生を信じてゐた。松住町の停留場で一日下車すると、そこに齋藤阿具先生が黑ぽい外套を着て立つてゐた。

 私はすぐに齋藤さんも先生のお宅へ行く處だなと思つた。私は帽子を取つて挨拶した。「夏目先生の處へいらつしやるのですか。」「えゝ、大分惡いと聞いたから、鳥渡見舞ひに行かうと思つて。」私は齋藤氏がまだ今日の急變を知らないのを知つた。「もう御危篤ださうです。これから行つても先生の死に目に會はれゝばいゝと思つてるんです。」「そんなに惡いのですか。」齋藤氏も驚いた。

 私は齋藤氏とそこへ來た電車に乘つた。私は吊皮につかまつて、亂れる心を抑へ乍ら、齋藤氏と先生の事に就て話した。「一諸に大學にゐる時分は、夏目君もあゝ云ふ創作家になるとは夢にも思はなかつたがねえ。」話はそんな事から、先生の小說や、最近の「明暗」の事なぞに迄及んだ。「此頃のは何だか心理學の講義を聞いてゐるやうなので、私には面白味が解りません。」こんな事も云つた。私は苦笑し乍ら聞いてゐた。私には何だか、さう云ふやうな話題に固執する事のできない、亂れた心持が起つてゐた。私は何だか齋藤氏の平靜を、羨ましいやうな腹立たしいやうな氣持で眺めてゐた。

 柳町の停留場で下りると、私の焦慮は南町まで自分の足で歩るく氣を起させなかつた。それで猶も、「夏目君があゝ云ふ小說を書けるのも、學問の根柢が出來てゐるからですよ。」と話しかける齋藤氏を振り切つたやうに、「何だか氣が急ぎますから、失禮ですが俥に乘ります。」と云つてそこの車夫を呼んだ。「さうですか。どうせ僕なぞは今行つても會へまいから、步るいて行かう。」かう云つて齋藤先生は先へ步き出した。私は俥を急がせた。

 而して門前で乘り棄てると、あたふたと勝手の方の緣側へ廻つた。私が一度も通つたことのない、そこの茶の間には、多くの人たちが默然として集まつてゐた。それを見ると私は、まだ大丈夫なのだと思つた。而して「久米君か。まあ此方へ來給へ。」と赤木君に請ぜられる儘に、狩野さんや大塚さんや菅さんなぞの背後を廻つて、森田さんや津田さん等のゐる、座敷の隅の、簞笥の間の席に割り込んだ。

 「一御容子はどうなんです。」私は何よりも先に小聲で訊ねた。すると傍にゐた赤木君が聲を低めてかう語り出した。「先刻はもう駄目だと云ふんで、皆が告別に病室へ入つたんだがね。最後に殆んど絕望的にやつたカンフル注射が効いてねえ。今朝からもう何度やつても反應がなかつたのを、それをやると急に頭を動かし出したんだ。それでやつと又一縷の望を得たんだが、僕は何だか奇蹟が起つて先生が癒りさうな氣がする。現に修善寺のやうな事もあつたんだから、此際奇蹟の起ると云ふのも不自然でないやうな氣がするよ。これは何も僕が先生に對する愛情からさう思ふんでなくて、これ迄に科學的に手當を盡して愈々駄目だと云ふ最後まで來た時、殆んど諦めのためにやつたデスペレートなカンフルの一本が、急に反應を現はしたと云ふのは、人力を盡し切つた後に、自然の力が働きかけたとも見られるからねえ。もう醫術の上で、ナツウルのハイルングを待つしかない時に、それが現はれさうになつて來たんだから、どうしても僕には先生が助かると思ふよ。先刻から僕の直覺がさう感じてゐる。きつと癒るよ。」かう云ふやうな事を云つて、僕の顏を見乍ら赤木君は念を押すやうに眉を上げた。※「ナツウルのハイルング」 Natur Heilung 自然の癒しの意か?



 するとその傍にゐた森田さんも、「僕も何だか先刻から、さう云ふやうな氣がしてゐた。」と云ひ出した。私もそれを信じて疑はなかつた。赤木君は猶も云ひ續けた。「何しろ先生の身體ほどねばり强いのはないんだからねえ。普通人なら死期の脈搏大抵百廿だと云ふんだけれど、先生のはもう百三十まで上つて持ち續けてるんだもの一體死ぬ時には脈搏がどんどん上つて行つて、それに反して體溫がぐんぐん下つて行くんで、其表が丁度十字形に交叉するため、それを死の十字架(トーテンクロイツ)と云ふんださうだが、先生のはとうにそれを越えているんだからねえ。そいつを見ると實に凄いやうな氣がするよ。それに先生は飽く迄意識が鮮明と來てるだらう。先生の頭と心臟とはどこまで丈夫に出來てるんだか解らないよ。さう云ふねばり强い身體なんだから此處で惡い絕頂まで來て、猶持ち續けてるのを見ると、此上惡くなりつこはない、きつと下り坂で順調になつて行くよ。」

 飽く迄信じ切つた赤木君の言葉を聞くと、希望を持ちたい持ちたいと庶(ねが)つてゐた皆は、慰められたやうに元氣を浮ばせて來た。殊に修善寺で死の峠を越した經驗を持つてゐる事が、この瀨戶際まで來て人々を全く絕望せしめる事がなかつた。而してその希望は、決して一時の附け元氣でなく、飽く迄信念から出たらしく皆には感ぜられてゐた。

 その時向うの机の處にゐた松根さんが、そこにゐた人々に一斑を知らせるため、先生の病狀の經過を略記した紙片を擴ろげた。私はそれによつて先生の病狀を初めて知ることができた。それに記るされた事や、後から奧さんに伺つて知り得た、其日までの先生の病狀は、ざつとかう云ふ事であつた。※「一斑」物事の一部分。

 先生は最後の木曜日--十一月十六日の日から氣分が勝れなかつた。而してその一兩日後に、大谷澆石さんから貰つた鶇の滓漬を甘さうに食ふと、少しく胃に疼痛を感じた。けれども床につくと云ふ程の事はなく、廿一日まで其儘「明暗」の執筆を續けて居られた。廿一日は今年私共と一緒に佛文科を出た辰野君の結婚披露會が精養軒にあつた。辰野君は面識こそないが、先生の崇拜者であつた。而して其新婦の君は、先生に親しく私淑して居られたる山田三良氏夫人の御令妹に當つてゐた。それで同夫人の懇請によつて、先生は其席へ出る事を承知して居られたのである。※「大谷澆石」不詳。

 先生は其日例によつて午前中「明暗」の第百八十八回を書き終られた。而していくらか胃の疼痛を覺えたので、其儘ぢつと書齋の瓦斯ストーブの前に橫臥して居られた。その中に夕方の四時近くにもなつたので、奥さんは衣服を着かへて支度をしてゐると、女中が「旦那樣は何だか御鹽梅が惡いと仰しやつておいでゞす」と云ふので、それでは今日は廢すのかと思つて、其儘支度をして了つた、奧さんは書齋に入つた。先生は其時机に凭れて、顏を伏せて居られた。「あなたどうなさいます。おいでになりますか。」奧さんは傍に寄つて訊ねた。「うん。もう行くのか」かう云つて先生は靜かに顏を上げた。奧さんは萬一を心配して、一御鹽梅が惡いのなら、今日はお廢めになつたら如何です。」と猶も云つた。すると、先生は、「いや、折角だから行かう」とかう云つて立上つた。精養軒で先生は食卓にあつた、前食の南京豆を食べた。奧さんが心配して「そんなものを食つて、大丈夫ですか」と云ふと、「なに大丈夫だよ」と云つた儘、ぽつりぽつりと、その香ばしい南京豆を、先生は平氣で食べ盡くした。

 それからこれは病氣には關係ないが、先生は其席で好きな小さんの落語を聞いた。語つたのは「うどんや」だつた。其時先生の側に座を占めてゐた安倍さんの話によると、先生は小さんが出てくると、すぐ微笑を湛へて聞き終つたさうである。歸つてから、其夜は、奧さんの心配する程もなく、無事に過ぎた。而して奧さんが、「何ともありませんか」と訊ねると、「何ともないよ」と云つて、安らかに床に就かれたのであつた。明くる廿二日の朝、いつも早く眼醒められる先生は、どういふものか中々起きて來なかつた。それで奧さんが「どうかなすつたんですか」と云ふと、「何だか頭の工合が惡い」と仰しやつて、澁澁起き上られた。而していつもの通り、「明暗」を書くための机に坐つたが、先生の眼は、原稿紙の上方に、小さく心覺えに記るした189と云ふ回數の數字を見凝めた儘、永く動かなかつた。

 而して其儘机の上へうつ伏したきり、晝頃までゐたが、とうとう原稿紙の上には一字も書かれずに了つた。絕えず胃部に起つてくる疼痛と、それに從つて惱み勝ちな頭部を押へて、先生は完結されない草稿を前に、靜かに、併し乍ら必死に苦悶と闘つて此の午前を過ごしたのである。晝を過ぎると先生は奧さんを呼んで、「今日は苦るしくて書けないから寢る」と云はれた。而して猶も語を續けて、「人間も何だな、死ぬなんて事は何でもないもんだな。俺は今あゝして苦るしがつてゐ乍ら、靜かに辭世を考へたよ。」と云はれた。奧さんは氣味の惡い事を云ひ出したなと思つた。それでその辭世がどう云ふ事であるかを聞く勇氣もなく、强ひて其問題を回避した。而して其時考へた辭世と云ふのは、永久に先生の口から洩れずに了つた。奧さんもかうなると知つたなら、あゝして避けるのではなかつたと、今つくづく悔いて居られる。私は其時の奥さんの心持も同感はできるが、果してどんな事を先生が云ふつもりだつたか、それを逸したのは呉々も惜しいやうな氣がする。

 かうして先生は、此時初めて床を敷いて眠に就かれた。これが抑々の先生が死床であつたのである。先生の御病氣は一ト寢入りすると、回復するのが常であつた。その日も先生は宵に眠から覺めると、元氣がよくなり、空腹を覺えて、奧樣に「何か食はせろ」と請求した。かう云ふ場合に、何か固形物をうつかり食べさせると、あとがきつと惡くなるに定まつてゐた。けれども先生の請求止み難く、奥さんは牛乳と、申譯だけに一分ほどの厚さに切つた一片のバンを先生の前に置いた。するとそれを見て先生は、「ずるい奴だな、これつぱかりしか持つて來ない」と叱つた。それで奧さんは更に一分厚さのバンをもう一片添へて、「そんなに召し上つて惡くなつたつて知りませんよ」とたしなめた。先生は少し滿足したやうに笑ひ乍ら「大丈夫だよ。惡くなれば俺の身體で、俺が苦しがるんだからいゝぢやないか。まさかこれで死にやしないよ。」と云つて、その二片の麵麵を甘さうに食べ終つた。

 するとそれから小一時間も經たぬ中である。先生は急に氣分が惡るくなつて、嘔吐を催された。而して先刻のバンをすつかり吐いて了つたのであつた。廿二日の夜の十二時頃の事である。胃の惡い先生に取つて、さういふ事はこれ迄屢々ある事だつたので、奧さんも大して驚かなかつた。

 而して明る朝を以て初めてお醫者を迎へる事にした。醫師と云ふのは、甞つて先生がかかりつけの菅さんが死んで以來、又去冬の糖尿病を診療して貰つた以來、先生の主治醫たるべき內約のあつた眞鍋嘉一郎氏であつた。

 折よく廿三日の祭日なので、學校も傳研も休みであつた爲、眞鍋さんはすぐ來て吳れた。而して一と通り胃部の診察をした後、思ひの外に重態なのを知つた。而してかう云ふ場合には藥を吐く恐れがあるため、今迄先生の用ゐ馴れた處方に依るのを可と思惟したが、それを菅さんへ聞きにやる迄の處方として、適當な藥を盛つて家へ歸られた。先生はそれを飮んだ。すると晝の十二時半頃であつたらう。危惧してゐた通り先生はその藥を悉く吐いて了つた。奧さんは眞鍋さんへ電話をかけたが、折惡しく眞鍋さんは居なかつた。處が容態はそれに止まらなかつた。その午後の四時頃になると、先生はもう一度の嘔吐を催された。吐いたのは黑い胃液で、その中には僅か乍ら薄赤い血が、脈を曳いたやうに混じてゐたのである。奧さんはその黑い胃液を見て、驚いて又吐血だと思つた。而して慌てゝ眞鍋さんの許に電話をかけたり、すぐお宅の前の中山醫師の許へ走つて、醫師が在宅であるなら、どんな急變があるか解らぬから、外へ往診しないでゐて下さるやうに賴まうと思つて、自らそこへ赴いたり、獨りで氣を揉んでゐた。※「傳研」…「伝染病研究所」今の「東京大学医科学研究所」。

 その騒ぎの最中に、鵠沼から木曜日を目的にして、わざわざ先生に會ひに來た阿部さんと和辻さんが玄關へ訪れた。今朝から絕對に訪客を避けてゐたのであつたが、折からの急に人手が足りなくなつたので、奧さんは早速二人を招(しょう)じ上げた。病室に通つた和辻さんと阿部さんが、會々その壁に吊るされた羽根箒の影を、鼻の曲つた天狗面のやうな不祥の影繪(シルエット)として見たのはその時である。

 さうかうしてゐる中に、眞鍋さんが阿部さんと云ふ醫師を連れて來診された。學校其他の公務で忙しい眞鍋さんが、萬一留守であつた時の代りとして、住所も近い阿部さんを、相談相手に連れて來たのである。二人の醫師が診た結果は、可なり惡い容態であつた。

 藥は嘔吐を恐れて匙で少しづつ飮ませる事になつた。看護婦が二人つき切りで、容態を見る事になつた。而して翌日から先生は三日間絕食せられる事になつた。それはいつもの胃の療法であつた。けれども先生はいつもよりずつと衰弱の氣味があつた。而していつものやうに安靜でなく、始終苦悶の體で、夜もすつかり熟睡する事なく、床上に起き上つて見たり、うつ伏せになつて見たり、座禪を組んで見たりなぞして、なぜか落着いて居られなかつた。又頻りに身體のだるいのを訴へられた。― かうして三四日を經過した。

 廿八日は先生は割合に元氣がよかつた。而して數日來の絕食の結果、頻りに食慾を訴へられた。前日頃から先生は朝の六時から夜の九時迄に六回、三時間置きに牛乳や果物の汁やアイスクリームなぞの食物を藥と交互に取るやうに定められてゐた。

 ところが先生はその三時間が待ち切れなかつた。而してそれがだんだん短縮して、二時間半となり、甚だしきは二時間たつかたゝぬに次の食物を請求された。かう云ふ食物にかけては先生はまるで赤ん坊のやうなものであつた。此日もその赤ん坊のやうなだゞで頻りに奧さんを困らせてゐたのである。かう云ふ風で九時に終るべき、最後のアイスクリームを、先生は殆んど七八時頃食べて了つた。

 而して其上に又何か食ふ物を要求した。奧さんは勿論拒絕した。すると先生はそんなら「藥を飮む、藥なら差支はあるまい」と云ひ出した。餘りの病人の我儘に中つ腹になつた奧さんは、「ぢや勝手になさい。惡るくなつたつて知りませんよ」と云ひすてゝ、なすが儘に任してゐた。それがかれこれ十時近くでゞもあつたらう。先生は寢に就き、奥さんは枕許の机に凭れて、ホトヽギスが何かを讀んでゐた。するとそれから一時間ほど經つた時、安らかな寢に就いてゐたと思つてゐた先生は急に「おい」と云つて起き上つた。

 而して吃驚して見上げてゐる奧さんに、「頭が變だから水をかけて吳れ」と云はれた。餘りの不意に奧さんは猶も意をとりかねて瞠目してゐる一瞬間、先生は更に突然「あつ」と云つた儘床上に昏倒した。急いで奧さんが駈け寄つて、脈を見ると手には脈搏が絕えてゐた。看護婦は容態に變りがないため、早く寢に就かせて、起きてゐたのは奧さん一人であつた。奧さんは驚いて手を拍いて皆を呼んだが唯も起きて來ない。隣りの室に寢てゐた令孃を呼び立てたけれど、それも起きて來る樣子が無かつた。そこで止むを得ず奧さんは、人事不省の先生をそこへ置いて、急いで書齋から廊下へ飛び出した。

 看護婦や下女たちがやつと起きて來た。それで奧さんはすぐ書齋へ取つて返して、そこにあつた藥鑵の口から水を喞み、先生の額をめがけて霧を吹いたり、濕したりした。するとやうやく先生は息を吹き返して、目を開き、「どうも頭が變だから、もつと水を掛けて吳れ」と云ふので、奧さんは藥鑵にあるだけの水を、寢床の上をもかまはずざあざあと先生の額に注いだ。すると先生は身ぶるひをされて、「あゝいゝ氣持だ。ほんとにいゝ氣持だ」と蘇つたやうに仰しやつた。

 奥さんは一と安心した。けれども再びこんな事があつては大變だと思つて、早速御醫者さんの處へ電話をかけたり、自身でお宅の前の中山醫師の家へ、カンフル注射をして貰ふ心算で行つた。中山さんはゐなかつたけれども奧さんは代診の人に賴んで、注射の用具を取揃へて連れて來た。けれども先生の樣子にさう危險もないので、其儘模樣を見てゐたが、其中に中山さんが來て、カシフルなら何度やつても別に影響を殘す譯のものでないから、安心のためやつたらよからうと云ふので、朝.眞鍋さん達の來る迄の用心に、注射をした。

 朝になると眞鍋さんが阿部さんを連れて來診した。其の後灌腸に依る眞つ黑な血便を見て、先生に此日大出血があつた事がわかつた。由々しい重態なので、お二人で相談の結果、其道に老練な先輩で自由に相談の出來る專門家を招聘する事になつた。胃腸病院の南さんが其の選に上ぼつた。

 此日からして四人の御醫者が交る交る先生の家で宿直をすることになつた。かう云ふ危險な狀態で、又々先生に絕食の二三日は過ぎた。するとやがて又食欲が先生の腹の中に燃え立つ時が來た。

 越えて十二月二日の日は、先生の加減もよく、元氣もよかつた。而して何か食物を要求さるゝに至つた。お醫者さん達はやうやく薄い葛湯を許るした。その淡い、申分ばかりの葛湯を、試めしにお醫師さんたちが先づ飮み、次いで勸められるまゝに奧さんも飮んでみた。少しも味らしい味がなかつた。而して其殘りの淡い葛湯は、やうやくにして先生の枕許に運ばれた。それでも先生は美味さうに飮んだりした。

 ところがその午後であつた。三時頃であつたか、先生は便通を催して床上に起き上つた。而して看護婦のあてがつた便器に向はれた。當番は眞鍋さんであつた。氏は先生の脈搏を取り乍ら樣子を見ると、先生は便を促がすために、平常の場合のやうに力まうとしてゐた。それで大に吃驚して、それを禁めるやうに注意を與へようとした一瞬時、先生はもう「うん」と力んで了つた。すると其途端に、眞鍋さんの抑へてゐた手の脈搏がぴりぴりと亂れて上つた。

 而して先生の顏は見る見る中に蒼くなつて、やがて人事不省に陷つて了つた。-これが第二回の大なる內出血であつた。

 急報に應じて四人の醫師が集まつた。南さん、阿部さん、加藤さん(眞鍋さんの助手)、それに又更に相談相手として聘び迎へた宮本さん。これに眞鍋さんを加へた醫師たちは、それからを夜徹して診療に力めた。カンフル注射の間には、出血をとめるためのゲラチンが注射せられた。二日の夜は絕望の中に過ぎた。醫師の面上にも、爭はれぬ悲愁の色が見える。奥さんはその絕望の顏と、「駄目だ!」と云ふやうな感投詞と共に、囁き合つてゐる聲を聞くのが、何よりも辛かつた。それで居間へ歸つて、床の中に寢てゐた。けれども寢ようにも寢つかれなかつた。同じ心の野上さんも、毛布を被つて茶の間に寢てゐた。すると四人のお醫者さんが、一時間置きに交る交る病室へ行つては、診察をして、結果の報告を齋らして來る。而してそれを獨逸語で語り合うてゐる。野上さんは寢たふりをして、聞くともなくそれを聞いてゐた。望みのある言葉は一つもない。野上さんも全く悲觀して了つた。

 門人の重だつた人は、三十日頃からして、交る交る萬一に備へる當直をしてゐたのであるが、此呪ふべき日は實に野上さんが當番に當つてゐたのである。すると曉近くになつて、やうやく醫師たちの面上に喜色が見え出した。「大分いゝやうだな」「此分なら大丈夫かも知れない。」かう云ふ言葉が切れ切れに聞かれた。而して奧さんが起きて行つた時には、眞鍋さんがはれぼつたい眼に喜びを湛へて、「奧さん、御安心なさい。大變工合がようございます」と云つた。小康はあつた。併しそれは實に小なる小康に過ぎなかつた。衰弱し切つた先生の體は、前後二度の內出血を經て今や僅かに生死の劍ヶ峰を踏みこたへてゐるに過ぎないのである。もう滋養灌腸も効がなかつた。食道を濕ほすにも足りぬ僅か一匙の赤酒が、先生の攝取する唯一の飮物であつた。-かくて先生は、次第々々に衰へて行くばかりだつた。

 唯先生の意識は飽く迄明瞭で、醫師の施す注射の態を、何かのために深く觀察して置くかの如く自らしげしげと見凝めてゐたりした。その注射をする先生の大腿部は、見るかげもなく骨立つて、旣に十數回の注射の針は、無慙な膏藥の跡をとゞめてゐるのであつた。

 七八日の朝であつた。先生が急に呼びによこしたので、奧さんは急いで病室へ行つてみた。而して「何か御用でございますか」ときくと、先生はぢつと奧さんの顏を見乍ら、「いや、何でもないんだ。お早う!」と云つて微笑まれたりした。又會には「今日の宿直は誰れだい」と訊いて、「野上さんです」と云ふと、「鳥渡會つて見たい」と云はれた事もあつた。最後の病床にある先生が何とはなしに寂寥を感じて居られたのが、これによつて淚ぐましく思ひ返される······。

 かうして衰弱に衰弱を重ねた先生は、愈々最後の九日に達した。八日の夜の門人の當直は內田君であつた。奧さんは連日の看護疲れで、病人を見れば起こる悲痛の感に堪へ兼ねて、强ひて早く床に就いてゐた。內田君は百四つも打つ自分の脈搏を數へ乍ら、獨り寒燈を守つて起きてゐた。すると朝の二時頃になつて、醫師から愈々最後の宣告が下つた。もう絕望だから、知らすべき親戚故舊にはそれぞれ通知を發せよと云ふのである。內田君は電報用紙に危篤の報知を何枚も記るして、また一人肅然として夜が明けるのを待つてゐた。

 十二月九日の夜は灰色に明け放れた。心痛を慮つたものか、まだ醫師から知らされてゐない奧さんは、朝病室へ入つて見ると、先生の顏は昨日とまるで違つてゐた。昨日までのそれは衰へたなりに生氣があつた。けれども今日のそれは······あゝ奧さんはそれを見て、如何ばかり悲しく覺悟を定めねばならなかつたのであらう。それで室外へ出て眞鍋さんに、「先生、病人はもう駄目でございますね」と云ひ誘ふと、眞鍋さんも言下に、「えゝ、もう駄目です」と答へた。

 覺悟を定めた奧さんは、そこで初めて先生の舊友たる、中村是公氏等に急報を發して、待つべからざる臨終に、備へねばならなかつた。此際急に知らすべき先生の御親戚と云つても、只矢來の御令兄だけで、その人は旣に先生の安否を氣遣うて、朝からお宅へ來てゐた。令息や令孃は、醫師が「午までは持つでせう」と云ふので、それぞれの學校へ出掛けて行つた。士官學校に教鞭を取つてゐる內田君は、同じく學校へ行かうかどうしようかと思つて、醫師に「先生は二時位までは大丈夫でせうな」と訊ねたら、「吾々は最後まで回復の信念を持つて、全力を盡すだけの事で、さう云ふ豫言は出來ない」と叱られたので、其儘思ひ止まる事に決心した。

 絕望の中に時は過ぎて行く。十一時近くの事であつた。愈々醫師から臨終が近いから一同最後の死床に集まつて、永訣をせよとの宣告が下つた。先生は今朝から食鹽注射の反應もなく、脈搏は益々あがるばかり、體溫は益々下るばかりの狀態であつた。終臨近しと聞いて奧さんはすべてを棄てゝ枕邊へ寄つた。令息、令孃には、それぞれの學校へ、急使を走らせて迎へにやつた。一番初めに恒子さん(次女)と愛子(四女)さんとが歸つて來た。而して先生の枕邊に坐るや否や、しくしくと泣き初めた。奧さんは淚が先生の心を激動させるのを慮つて、それを靜かに禁めた。すると今迄默つて病床に橫はつてゐた先生が、「泣いてもいゝよ」と落着いた聲で仰しやつた。而して其泣いてる娘が、誰れであるかを聞きたがつた。奧さんは默つてゐた。

 その中に曉星へ通つてゐる純一さんと仲六さんが歸つて來た。可愛い金モールの微章を縫つた制服の二人は、病室に駈け込むや否や、先生の枕許にどつかと膝をそろへて坐つた。すると其動搖が臥てゐる先生の頭に響いたのであらう。見動きもしなかつた先生は、只目を擧げて此の二愛兒を靜に見上げた。而して何とも云へぬ微笑を、―奧さんの言葉に從へば「にやーつ」と浮べた。前後して筆子さん(長女)や榮子さん、(三女)や千鶴子さん(令姪)も歸つて來た。筆子さんの俥は、急いだため途中で毀れて、も一度乘り換へねばならなかつた。

 集つてゐた友人門弟らも、永訣のため續いて枕邊へ入つて來た。―今は唯先生の安らかな最後を待つばかりであつた。既に昏睡に入つた先生の息は、細く絕々に續いてゐた。所が其時遲れて其場へ來た宮本さんの發言で、たとへ絕望にもせよ、姑息にもせよ、もう一度最後の食鹽注射をして、それで駄目だつたら眞に諦めようと云ふ事が提言された。旣に死を覺悟しても、奥さんや醫師たちの心に、未練と云ふ軟弱な字では形容の出來ぬ、或る一縷の望があつた。「ひよつとしたらまだ!」かう思つた人々は、茲に最後の、しかもデスペレートな一針から、もう一度先生の體内に食鹽を送る事になつた。

 枕邊に集うた人は一縷の望を抱いて又去つた。而して殘つた醫師と看護婦の手によつて注射は初まつた。すると今迄殆んど昏睡の狀態に陷つてゐた先生が、突然頭を動かし出した。反應があつたのである!先生は眼を開いて、何か食つて見たいと訴へられた。一匙の赤酒が與へられた。先生は一「甘い」と仰しやつてそれに舌を潤された。―かくて又一時乍らも、各々の心に望みの念は湧き立つた。

 さうかうする中に、急を聞いて中村是公氏が駈けつけた。注射後の小康で先生は微睡んで居られたが、奧さんが招じ入れる儘に病室へ從いて行つた氏は、病床の枕許に默つて立つてそつと瘁れ果てた舊友の顔を覗き込んだ時、堪へ兼ねてそこへ坐つた儘、はふり落つる淚をやつと手で押へた。奧さんもそれを見ると、今迄堪らへてゐた涙が、とめ度もなく流れ出るのを感じた。 しばらくは室の中に、此の半生の親交を續けて來た老友と、半生を共にして來た夫人との、抑へ兼ねる靜かな歔欷の音が滿ちてゐた。※「歔欷」むせび泣き。

 やがて奧さんはそつと先生の傍に寄つて、「あなた、あなた」と呼び起した。先生は靜かに眼を開いた。「あなた、中村さんがいらつしやいました。」奧さんは續いて云つた。「中村?中村誰れだ?」「中村是公さんです。」「あゝさうか。よしよし。」かう云つた先生は、又靜かに滿足して眼を閉ぢた。老友の訣別は飽く迄靜かに終つた。中村さんは赤くなつた目を抑へて出て行つた。絕望の中に、一縷の望みを持つた時間は、凡てに關はらず過ぎてゆく。その時間の經過はそも、先生を死に急がすのであらうか、生に向つて運び行くのであらうか。私が先生のお宅へ行き着いたのは、丁度この生死を定め難い九日の午後三時前後であつた。

 ― 話は又もとへ歸る。其時、茶の間に集つてゐた人々の間には、その一縷の希望を土臺にして、飽くまで先生の生を信じようとする信念が、燃え立つてゐた。それで奧さんが入つて來て、「朝日」の寫眞班に囑して、病床にある先生を撮影しようと云ふ相談を皆にした時、皆は何となく不吉なシヨツクを受けた。一方寫して置きたいと云ふ念と共に、若しそんな事をして病床の先生に知れたなら、あの敏感な先生を却つて死に急がせはしまいかと云ふ危惧で、各々は是非を云ひ爭つた。「大丈夫ですよ奧さん。今撮らなくたつて、先生がこれでお亡くなりになるやうな事はありません」誰かゞ云つた。「でも記念のために、わたし撮つて置き度いと思ふのよ」奧さんの顏には、取り附けたやうな微笑があつた。それに就ては誰も異存はなかつた。光線を試めすと、まだマグネシアを焚かずに濟む事がわかつた。それならば病人に知らす事なく、撮影が出來る。― かう一決して、病室の隣りの襖は靜かに外づされた。而してそつと病床の足許の方から、レンズは衰へた先生の顔に向けられた。タ暮に近い仄光りが斜にさし入る枕頭の、愛用の時計、白布を掛けた藥罎、二つに折つた座蒲團の枕.軟かに蔽うた白い毛布、それから遠く霞んだ書齋の絨氈、それらを背景にした先生の病顏が、殆んど銀に近い髯を光らして、嚴かに種板の中に收まつた······。

 夕暮近くなると共に、何事もなく時間の經つと共に、吾々の希望は益々色を濃くして行つた。先生の恢復を强調して止まない赤木君は、猶も其信念を語り繼いでゐた。森田さんが傍で同じくそれに加つてゐた。吾々は各々の心の代辯者を得たやうに、それに耳を傾けて且つ信じ且つ慰めてゐた。そこへ診察を終へた醫師たちが入つて來た。如何にも冷靜な自然科學者らしい南さんの顔が、私の目を引いた。眞鍋さんの顏は心痛で、ありありと感情が浮んで見えた。「どうです。希望(ホッフヌング)を持つてもいゝでせう。」赤木君が眞鍋さんに初めから吉報を要求するやうな口調で問うた。「いや、もう偶然(ツーファル)を待つばかりです。」眞鍋さんの沈んだ聲が答へた。

 併し併々は全くその偶然を信じて疑はなかつたのである!

 而して其偶然の奇蹟を信じた儘、「朝日」の人たちが來たり、急を聞いた知人が來て、茶の間が混雜して來るまゝに、僕らだけ門の小さな離屋の方へ行つた。森田さん、阿部(次郞)さん、津田さん、內田君、赤木君、岡田君なぞの同勢であつた。茶の間の方には狩野さん、大塚さん、菅さん、齋藤さん、畔柳さん、森さん、速水さん、松浦さん、などの知友門人諸氏及び松根さん、野上さん、小宮さん、なぞの頭株だけが殘つた。離屋へ行つてみると、そこの小さな六疊に、長男の純一君が矩燵に足を入れ、身を一閉張りの机に凭りかけて、一生懸命勳章の畫を描いてゐた。皆はそれをいゝ事にして炬燵の周圍に集まり、「大變入つて來やがつたなあ」と云つたまゝ、金鵄勳章の輪廓をなぞつてゐる純一君に調戯ひ出した。「純一ちやん。先刻お父さんは何と仰しやつたい。」誰かゞ聞いた。「おやぢは汚ない顔をして寢てゐたよ。何處の爺いくたが寢てゐるのかと思つた。」此の十一になる露惡家は此の危急な際を知らずに、平氣で峻辣に自分の父の寢顏を批評した。此の無邪氣なる惡口家は、甞つて常に通すがりの父を見て、「あばた面」と呼んだのである。此の伸び伸びと育つた、愛すべき都會の自然兒は、此の清透な眼を擧げて、此の一生の大異變を何と見てゐたか。彼は只衰へて面變りのした父の顏だけを見た。而して其顏の背後に、恐ろしい影を作つてゐる死を、まるで知らずにゐる。

 私はゆくりなくも此の言葉によつて、先刻岡田君と共にそつと病室へ入つて、見て來た先生の顏をまざまざと思ひ出した。永訣の際ゐなかつた私と岡田君とは、四時頃遲れて先生のお顏を拜しに行つたのだつた。初め吾々は病室の窓の外から、そつと先生のお顔を垣間見るだけに止めようと思つた。而して祕かに窓帷の際から暗らい病室の中を覗き込んでゐた。すると中にゐたお醫師さんが、手眞似で招き入れて吳れた。それで、吾々はそつと音のせぬやうガーゼを捲きつけてあるドアを開けて中へ入つた。先生は何も知らずに寢て居られた。暫らく遠い枕上の方からおづおづ覗き込んでゐると、今度は體をさすつてゐた看護婦が、小聲で、「此方へいらつしやい」と云つて吳れた。吾々は先生の顏に面した、寢床の左側に端坐して、改めて先生の顔を凝と眺めた。黑布を蔽うた電燈の光りが、陰鬱に落ちてゐる部屋の中で、白く仄めく毛布の端から、まだ赤みのある、てらてらした先生の顏が、靜かに息をついてゐた。兩頰には甞つて見た事のない疎鬢が、もぢやもぢやと生えてゐる。しかも龍色に光るその髯のために、先生の顏は云ひやうのない聖さと、嚴さと尊さとを增してゐた。吾々はそれを見てぢつと頭を垂れた。而して退出して來た。その尊い顔を捕へて、今しも茲に此の愛すべき赤裸々の少年は、一言「汚ない顏」と云つた。私は自分の受けた感じを是認すると共に、又此の愛兒の受けた感じをも是認せざるを得ない。私はそこに何とも云へぬ意味を讀んだ。

 而して改めて此の愛すべき少年の相手となるべくそこの黑板の前に立つた。純一君はその黑板の上に、私と兜の繪のかき競べをしようと要求したのである。私と純一君とは白墨を取つて兜を畫き初めた。純一君はそつと私の方を伺ひ乍ら、自分の畫の足りない處を訂正した。丁度その兜の鍬型の、小さな環狀の凹處を補つてゐた時である。命を受けた女中が、さる知己の方へ先生の臨終が近い旨の電話を掛けに來た。電話器は吾々の畫を描いてゐる、すぐ背ろにあつた。「もしもし、あの旦那樣が、もうどうしても駄目でございますから、すぐおいで下さいまし······かう云ふ意味の女中の言葉が、何の容赦もなく、兜の鍬型をなぞつてゐる、純一君の耳に入つた。純一君は不意に白墨の手をとゞめて、僕の方を見返つた。「お父さんはほんたうに死ぬの」かう云つて見上げた眼には、先刻の「批評」の「犀利」はなかつた。而してそれは眞實の危憂と悲哀とに滿ちてゐた。私は心から此の少年を抱きしめてやりたいやうに感じた。一「いゝえ、大丈夫ですよ。大丈夫ですよ。」私は狼狽してかう云つた。而してそれに慰められたともなく純一君は、再び兜の打紐に取りかかつた。

 此の間の事であつた。先刻から先生の生に對して、飽く迄自信を增して來た森田さんは、家が近いのを賴みにして、夜來の睡眠不足の體を休めんがため、若し萬一の事があつたら、早速最寄りの酒屋へ電話をかけて吳れと私に賴んで、可なり安心して歸つて行つた。それを見ると疲れてゐた赤木君も、一と先づ下宿に歸つて休みたくなつたのであらう。これも又僕に萬一の際の電話を賴んで、二人とも歸つて了つた。もう先生が恢復するものと、旣に信念を築き上げて終つた一座は、萬一を慮つてそれをとめる者さへなかつた。二人が歸ると入れ違ひに、鵠沼の安倍さんと和辻さんとが到着した。私と純一君の兜は大抵出來上つた。

 すると其時である。母屋の方から慌しい下駄の音がして、女中が急いで飛び込んで來た。「純一さま、早くおいで遊ばせ。お父さまが大變でございます。」女中は叫ぶやうにかう云つて、純一君を捕へた。そこの炬燵にゐた連中は、それと云ふので、皆一度に立上つた。而して慌てゝ母屋の方に駈け付けた。私は一人殘つて、わくわくし乍ら電話の把手を執つた。交換手はなかなか出て來なかつた。私は叱りつけたり賴んだりするやうな聲で、やつと森田さんの處へ急報した。それから更に赤木君へ。― 赤木君はまだ下宿へさへ歸りついてゐなかつた。かうしてやうやく私は急いで離屋を出ようとすると、そこには私の下駄がなくて、どう間違つたものか、却て純一君の小さな下駄が、謎のやうにぽつりと置き殘されてあつた。私は考ふる暇もなく、その小さい下駄を爪尖に引かけて、母屋の方へ走つて行つた。

 私が病室になつてゐる書齋に入つた時、自づ目を打つたものは、病床の周圍に默つて立つてゐる黑い人々の群であつた。而して其人々が眼を注いでゐる中心に、先生の死床が白く橫はつてゐた。電燈の蔽ひは取除かれて、光りは鮮にベツトを照してゐた。橫はつてゐる先生の左側には、先生の胸のあたりに手を置いて、奧さんが端坐してゐた。而して先生の枕許には、令孃と令息、令兄其他の親戚の方々が坐つてゐた。歔欷の聲がそのあたりから洩れた。私が入つて行くと、先刻まであの兜の繪を一諸に描いてゐた純一君が、ふと涙に滿ちた眼で見返つた。奥さんは死者の顏を見ずに、ずつと正面を見るともなく見凝めてゐた。而して死んでゆく先生の唇を濡らすために、一々枕邊へ寄つて來る人々に、末期の水筆を渡してゐた。其顏と其姿は明かに「泣く」以上の悲哀を表白してゐるのであつた。

 私が人々の後ろから、今息を引きとる許りの先生を覗き込んだ時、丁度岡田君が筆で先生の唇を濕してゐた、性急な私は、岡田君がさうしてゐるのを見て、もう大抵の人が濟んだなと思つた。而して一つには其雜の無分別と無遠慮から、前にゐた人を靜に押しのけるやうにして、そつと進み出た。而して奧さんの手から水筆を受取つて、さて先生の御顏をぢつと見た。その御顏は先刻見た顏とは又全く異つてゐた。顏色はすつかり靑く光澤を帶びて、眼は大きく見開かれてゐた。而して其瞳は、凝視するともなく茫然と前方を見据ゑてゐた。それは恰も、眼前にゐる私の存在を通り越して、香か永遠なる何物かを見凝めてゐるやうであつた。

 私は筆で血の氣のない先生のを唇撫でた。先生はその口を通して、引釣るやうな息使ひをして居られた。私はその筆を奧さんに渡さうとした。併しぢつと正面を見やつて居た奧さんは、私の筆を受取らうとはしなかつた。私は靜かなる狼狽を感じた。而して改めて注意を促すやうに、奧さんに筆を手渡しした。私の後から、大塚さんや菅さんなぞの多くの人々が、先生に最後の水を供した。私はこの大いなる悲みの中にも、自分の無作法を悔いた。電話をかけた森田さんが、遲れてやつと到着した。而して人々の最後に、最後の水筆を取つて、先生に捧げた。今はたゞ皆默つて、先生の死を見凝めてゐるばかりであつた。黑く押し默つた人垣の中に、先生は時々願を引くやうにして、苦るしい呼吸をゆるく刻んで居た。時々忘れたやうに呼吸が止る、而して思ひ出したやうに、「ぎくり」と喉を動かされる。その喉の中で、微かに二三度の痰の鳴る音がした。而して呼吸はだんだん靜かになつて行つた。周圍の人は只手を拱ねいて、だんだん微かに又數少なになつてゆく呼吸を、ぢつと見凝めばならなかつた。枕邊に近いお孃さん達の間からは、幾度か啜泣の聲が洩れた。一分、二分、時は過ぎて行く。先生の息は益々微かになつた。

 すると病床の右側に坐つてゐた、眞鍋さんが、手で奧さんに合圖をした。奧さんは先生の額の上に蔽うてあつた白布を眼の處まで下げて、靜かに先生の眼を閉ざすべく、幾度かそつと撫で下ろした。それが濟むと眞鍋さんはも一度指圖をした。今度は奧さんが、先生の口を徐ろに閉ぢ初めた。いつの間にか呼吸は、天地の寂寞の中に潛み入つたやうに、靜けく消去つてゐた。眞鍋さんは聽診器を取り出した。而して胸にかけた先生の毛布をとりのけて、心臟の上にそつと其白い象牙の尖を載せた。而してぢつとそこから指を離して、其中の音に聽き入つた。それから更にも一度少し上の方に其聽診器を移した。その後からは傍らの阿部さんが、同じく靜かに聽診器を心臟の上に當てた。二人はしばらく聞き入つてゐた。皆は固唾を飮んで見てゐた。やがて聽診器を前のやうにそつと徹した眞鍋さんは、「お氣の氣でございます」と奥さんの前に頭を下げた。

 それを聞くと皆も、同時に首を垂れて、何ものとも知れぬものに禮拜した。萬事は休した。先生の顔の上には、白布が蔽はれて、もう見る由もなかつた。見た處で何にならう。先生にはもう息がないのだ。あの理智と溫情に滿ちた眼は、もう永久に閉ぢられたのだ。先生は死んだのだ。今自分の眼の前で死んだのだ。― 私にはそれが信ぜられないやうな氣がした。「さあ皆さん。どうかお立ち下さい。」奧さんがかう仰しやつた。

 皆は靜かに出て行つた。私は茫然として立ち盡してゐた。而して小宮さんに眼で促されて、初めて見返り乍ら病室を出て行つた。向ふの隅では津田さんが、泣き崩れて立たうともしなかつた。奧さんが困つて、それを引立てゝゐた。私は涙が出なかつた。否、出たのかも知れない。併し自分には感ぜられなかつた。赤木君と松岡とは、とうとう臨終の間に合はなかつた。前後して遲れて來た二人は、旣にあの名園有別天地の屏風を逆まに立てた下で、息のない先生に對面した。私は赤木君の間に合はなかつたのを、自分の電話の行き屆かぬためであり、自分の過失でゞもあるやうに氣の毒に感じた。後で聞くと赤木君の急がせた自動車は、途中でパンクしたのださうである。

 先生の遺骸は、― もう先生も遺骸となつて了つた ― 奧さんと眞鍋さんと小宮さん達の合議の結果、すぐ大學病院で解剖に附する事と定まつた。それから又先生の死面は、森田さん達の意見で、すぐ取られる事になつた。その作製者には、大塚さんの親友である處から、新海竹太郞氏が選ばれた。死面はどうして取るものだらうか。そんな事が悲しみに沈んで許りもゐられない群の間で、一つの問題になつた。鷗外先生の「金比羅」によると、愛兒の死面を取つたらしく書いてあるから、電話をかけて聞いたらどうだと云ふ人がある。誰れも彼れもベエトオフエンやプレーグの、寫眞版で見た白い石膏の死面を知つてはゐたが、畫家の津田君さへどうするものか實際の方法は知らなかつた。

 急使を走らした新海さんからは、早速上りますと云ふ返事の電話があつた。此の間の夏目邸は、悲痛と混亂とに閉ざされてゐた。逝去の發表は朝日が各新聞社へする筈であつた。けれども絕えず他の新聞記者が訪れて來た。記者は鈴木さんとか森田さんとかを引張り出して、意見を徵さうとした。此の生涯の大事に際して、鈴木さん達が一々記者の引見が出來ないのも無理はなかつた。けれども受附を命ぜられて玄關にゐた僕らは、一々それを斷つて歸すのに苦心をした。私はつくづく記者と云ふ職業に同情した。彼等は手をかへ品を換へて幾度も幾度も會ひに來た。而して會へないと、むつと居直るやうな樣子を示したりした。とうとう森田さんが代表して、と云ふより實は代表するやうな羽目になつて、離屋の方で記者を引見するやうになつた。

 此間に吾々は電報を打つ。見舞ひの手紙や電報を受取る。なかなか忙しくなつて來た。岩波さん、松根さん、小宮さん、さう云ふ事務の方を司宰すべき人々は殊に只管悲しみを押へて、立ち働かねばならなかつた。事務の擔任が定められた。吾々は取りあへず、受附の役に廻つた。その中に新海さんが、型から石膏像を作製する人を連れてやつて來た。かくて日本最初の死面は此人の手に依つて作られるのであつた。吾々は立つて見てゐた。先生の顔は先づ、頭から頤を掛けて、毛のある處にぐるりと布を卷かれた。而して其中の顏には、油のやうなワゼリン(ママ)が塗られた。それが少しく私には厭な感じがした。それが濟むと、今度は鉢の中へ、食鹽と水を入れて、石膏が溶かされた。而して新海さんの助手は、そのとろとろした白い半液體を、匙ですくつて容赦なく先生の額の上に滴らし初めた。

 此時は私は猶更に厭な氣がした。こんな事をさせるんぢやなかつたと思つた。たらたら、たらたらと塗り上つてゆく白い石膏の汁は、鳥渡乾きさうにもなく思はれた。而してそれが今死んだ許りの先生に、若干かの不快な感を與へ、又死顏の神聖を汚すやうな氣さへした。けれどもすぐそんな事を云つてる場合ぢやないと思ひ返した。白い石膏は、箆によつて容赦なく、髯だけを殘した先生の顏の上に盛り上げられた。而して其型を外づす時に折れてはならぬと云ふので、針金が其間に挿入された。石膏が約六七分厚みに蔽ひ終ると、その製作者は初めて手を休めた。石膏が固く乾くのを待つのである乾くのは思ひの外に早かつた。約五分と待たぬ中に、製作者はそつと型を顏から外づしにかゝつた。內の部分はすぐとれさうであつた。けれども眉毛や疎髯にかゝつた部分は、毛が石膏に粘りついて、中々離れないらしかつだ。とかうする中にやうやく型は顏を離れた。もう新海さんの手で持つた白い石膏の中に、先生の顏の凹面が、はつきり刻み込まれてゐた。それは旣に半夜近くであつた。

 かうして割合に簡單に、死面の作型が濟むと、通夜の第一夜が來た。木曜日にいつも來馴れた室の中央、やゝ奧寄りの火鉢には、杉村楚人冠氏や「朝日」の人々が三人ほど集つてゐた。それから向ふの隅には、松浦さん速水さん阿部さん二宮さんなぞが坐つてゐる。此方の隅には、和辻さん內田君岡田君赤木君及び僕らの連中がゐた。僕らの仲間では話がいつの間にか先生の書畫の事になつて行つた。誰れは何幅、彼れは何幅、己は先生がまだまだ御存命だと思つて、書いて貰はうと思ひ乍ら一枚も書いて貰はずに終つた。なぞと口々に云ひ出しな此の場合逸することのできぬ蒐集家として、瀧田さんの事も話題に上つた。

 而して皆はひどく羨ましがつた。赤木君は自分の最大の收獲として、明暗の原稿を誇つた。かうして皆の心が只管先生の書畫に向き切つて了つた時、岡田君がふと書齋の隅から、先生の書き損じ(と云つても反故と云ふ程ではない)を見付けて、引出して來た。皆の心に專有欲が湧いた。而して各々其中からいゝのを選び出して、持つて歸らうと云ふ大それた考になつた。そここゝで爭奪が初まりさうになつたり、先取權の主張がありさうな程、事態は騷々しくなつた。

 吾々はそれが先生の枕頭である事、通夜の第一夜である事を殆んど忘れかけて、その書畫を繰り廣げてゐた。そこへ小宮さんが何氣なく入つて來た。もとより渦中にゐなかつた小宮さんには、此の場合かうした有樣は、普通以上に苦々しく感ぜられたに違ひない。入つて來た時から、吾々はこれは飛んだ事を見付かつたと思つた。果然、藏ひ遲れて愚圖々々としてゐた私は、先づ第一に「よし給へ」と穩か乍ら强く叱られて了つた。僕の心に初めて惡い事をしたと云ふ感じが湧いた。それで藏ひ込まうとした一幅を、思ひ切つて吐出した。するとそれと同時に、誰れも彼れも懷中から深く祕め込んだ書畫を出し初めた。欲しいと云ふ心持は傳染して、意外な君子人まで、懷中に藏ひ込んでゐた。皆は吐き出し乍ら、事もなげに苦笑したが、實は何とも云へぬ悔恨の念に襲はれてゐた。それで今までの衝動的行爲を、只管悔恨によつてジヤスチフアイせんがために、かうなる迄の心理を、解剖したり說明したり、辯解したり後悔したりした。その事に就ても、赤木君が一番多く喋つた、それで結局は赤木君が、一番この行爲に就て、多く云はずにゐられないだけ、不安(アンイーヂー)を感じてゐるのだと云ふ結論さへ出來た。併しそんな事々で通夜の永い二三時間は、瞬く間に過ぎた。

 而してその後には、四時五時と云ふ拂曉の、最も眠い通夜の難關が來た。けれどもそれも、赤木君と和辻さんとの間に生じた、或る議論を聞いてゐる中に時間が立つた。議論は何でも自然主義前派に連關した問題だつた。

 朝になりかけた頃、奧さんが出て來られた。皆は夜來の醜態を懺悔して、改めて奥さんのお叱を受けた。叱られると皆は何だか改めて償罪をしたやうに、心が安らまるのを感じた。

 さうかうする中に、先生の遺骸に侍した第一夜は、「硝子戶の外」から明け放れて來た。明くる十日の一日を、私は赤木君、岡田君、松岡と共に、玄關にゐて弔問者の應接をした。色色な階級の色々な人々が來た。私はその一人々々に就て、さう叙述を費すべき印象を持たない。只最初に來たのが松岡映丘氏だつたのを、明かに記憶してゐる。それから午前中に私の知つた限りでは、馬場さんが來た。戶川さんが來た。田村俊子氏が來た。確か午後に近松秋江氏が來た。長谷川時雨女史も來た。文壇の人が餘りに來ないのが不思議だつた。その外にはお孃さんのお友達が、花を持つて來たのを、單調を破るものとして記憶してゐる。此の繁忙の間にも、吾々は先生の遺骸を、一時頃大學病院へ送つた。稗色の幌を掛けた、奧のやうな擔架狀の車臺へ、先生の亡骸を運び入れた時、更に其車臺の四隅を界いで、玄關先まで運び出した時、私の手は殆んど輕重の感じがなかつた。夕方から冷たい濠雨が落ちて來た。大學へ腦と胃とを遺して來た遺骸は、夜に入つて雨の中を歸つて來た。人々が濡れた幌を押し拭つて、中から殆んど行つた時と同じ先生の遺骸を移した時、私は再び端正な死顏を見て、涙が込み上げてくるのを感じた。

 長與博士の解剖を見終へて、遺骸と共に歸つて來た眞鍋氏は、奧さんに、「私もこれでやつと安心しました。これがほんとに先生の死期だつたのです。たとへ今度癒つても、胃壁の或る部分が、まるで薄くなつてゐたんですから、いつぱくりと穴があいて、急死するか解りません。それに今度の解剖によつて、吾々も微力乍ら全力を注いで、人事を盡したが駄目だつたのが解りました。全くかうなるのが先生の天命だつたのです。症狀に就ても私もおかげさまで、非常な參考になりました。」と前提をし乍ら、先生の剖檢の結果を、逐一報告した。吾々は胃部の潰瘍面の大さに驚くと共に、先生の腦に關する、聯想中樞の異常な發達を、改めて興味深く聞いた。此夜、逝去の報知文が刷り上つて來た。吾々は發信係の野上さんの依囑で、封筒に宛名を書いて手傳つた。隨分澤山の數があつた。宛名を書く、原簿と照合する。容易な事ではなかつた。お孃さん達が其出來た分へ切手を面白がつて貼つて吳れた。而して今日から來た江口君や岡君に受附の任を賴んで、一と先づ疲れを休めるため、夜中過ぎて離室へ寢に行つた。そこの六疊では矩燵の左右に純一ちやんと伸六ちやんとが、矢來の叔母さまのお伽噺を聞いて、眠りに就かうとしてゐた。私と岡田君とは其次の間に行つて、私は一枚の裏の赤い蒲團に包まつて、隅の方に臥した。

 暫らくすると私の眠りは、不意の侵入者によつて中斷された。令孃たちの一小隊、一聯隊ほどの喚聲を擧げて、寢に來たのである、彼女らは自分よりも先に。神聖なる此の部屋を狼藉にも占領した私共を見て、內心腹を立てたに違ひない。況んや彼女らの夜具が、謂れもなくむくつけき男の手に使用されてるのを見ては、不平の聲を洩らさゞるを得なかつたのである。令孃たちは世話をして吳れる矢來の叔母さんに「あら厭だわ」とか、「寒いわ」とか、「風邪を引くわ」とか、口口に訴へてゐる。而して一人が本文を云ふと、後から口を揃へて一「ねえ」と感投する。この中に「明暗」の中に延子の前身がゐる。繼子や百合子の原型がゐる。さう思つて自分は眠を醒された腹も立つたが、我慢して私かに注意してゐた。打見たところ。いづれも可愛いゝお孃さん達である。これでは此の中のどの人でも萬一眇になつたとしたら、僕ならは永久に「うむ、さうか」なぞと平氣で居られないと思つた。その中に笑ひ且つ不平を云ひ乍ら、此の人々は寢ついたらしい。私も疲れてはゐるしすぐ眠りに入つた-かうして私は通夜の第一一夜を、半ば寢て過ごして了つたのである。※「則天去私」について、漱石が「例えば、自分の子がめっかちになっても、ああそうか、という態度でいられること」というような解説をしていたという逸話に絡めている。

 あくる十一日、吾々は又受附をして半日を過ごした。玄關へ來た訪問客の名を聞いて、帳面へ書きとめる。奧へ通ずべき人は招じ入れる。香奠を貰つたら、障子一重を隔てゝ座敷の中にゐる會計係の壯さんと孝ちやんとに渡す。さう云ふ事を可なり復雜に繰り返して、其間には議論もすれば、批評も加へる。けれども平常なら、お互ひの自我が衝突し合ふ所も、先生の死と云ふ大いなる事實の前に、すぐ打融けて了ふ。皆は只管怡々として働いた。性來無精な僕すらが、毫しの骨惜しみをもしなかつた。そんな小さな骨惜しみなぞはまるで生れ變つたやうにし度くなかつたのである。

 正午頃芥川が鎌倉から來た。黑いフロツクを着て、一擲したやうに髪を頭上に亂してゐた。彼は二三言遲くなつた申譯をして、それから奧さんに挨拶して、先生の死顏に對面するともう吾々と共に忙中の人であつた。午後になると芥川と私とは、明日の葬式の服裝を調へるため、一と先づ家へ歸つた。二人は新らしい感激で話し合つた。電車を待つてゐる間に、私は誰れからか聞いた眞鍋さんの挿話を彼に話した。それは大學へ講義に出てゐる眞鍋さんに、學生で誰一人大山公の容態を訊ねるものはないが、夏目先生の事は、氏が教室へ入ると何處でも第一に安否を訊ねられる。而して氏が先生の重態に手を放し兼ねて、休講の旨を通じると、學生は擧つて夏目先生のためならば、どんなに講義が遲れてもかまはないと言ふ、眞鍋さんもそのため全く後顧の忠なく手を盡し得たと云ふ感激に滿ちた話であつた。私はそれを話してる中に、胸が迫つて淚が溢れて來た。見ると芥川も眼に一ぱい涙を溜めてゐた。

 吾々は共に往來の人に顏を見られるのが恥づかしいやうに感じた。電車の中でも、吾々は先生の事に就て語り合つた。芥川は頻りに先生が亡い後の文壇の貧寒を論じてゐた。夜六時頃、私は再び芥川と誘ひ合はして、南町へ行つた。その時葬儀に、門弟からも弔詞を捧げたものかどうかと云ふ小議論が起つてゐた。一體弔詞は、全廢する豫定であつた。が併し折角大阪の村上さん(朝日社長)から捧呈して來たものを、受け附けないと云ふのも、餘り非禮であると云ふので、それと友人のと門下生のと、此の三つを限る事に一と先づ決定した。處が門下生の中でも、そんな形式的な弔詞は、先生の意志に反すると云ふので、反對する者が生じて來た。それに門弟の中で、誰れからも不平の生じないやうな、總代を選むのは六ヶ敷かつた。そこで議論は百出した。皆は母屋の六疊の間に集つて、改めて相談會を開いた。松根東洋城さんは初めから敢然として反對した。理由は前に云つた通り、先生の意志に反すると云ふのだつた。此人と捧呈の熱心なる主張者赤木君との間に、鳥渡した議論の火花が散つた。森田さんは事面倒と見て、いつの間にか座を外づした。鈴木さんはいつも神經質な藝術家肌で、弔詞には反對した。阿部さんは火鉢の傍で沈着いた謙讓を守つてゐた。議論は安倍さんが穩な口を開いて仲裁したのでやつと纏つた。弔詞の名目は、自ら「無志」だと稱する鈴木さんの命名で、「門弟有志」と云ふ事になつた。總代には小宮さんが推された。小宮さんは此の際弔詞の文案をするだけの、心に餘裕がないからと辭した。けれどもそれは、只心ばかりを記して、捧呈するに止めると云ふ事だ、友人總代の狩野さんまで、渦中に引入れた弔詞捧呈事件はやつと落着した。

 それから皆は一と安心したやうな心持で、先生の遺骸の枕頭に集つた。通夜の第三夜、最終夜はいつの間にか更け渡つてゐた。室の向ふの隅に、今夜は矢來の先生の令兄を初め、令息や令孃たちまで、列んで坐つてゐた。その中に奧さんも出て來た。

 而して席上の話は、森田さんの懺悔話をきつかけにして、ゆくりなくも先生生前の色々な逸話に入つた。奥さんや先輩達の話に連れて、それぞれの場合の先生の姿が、あの時はあゝだつた、この時はかうだつたと、それともなく思ひ出された。

 座は笑ひに滿ち乍ら肅やかになつて行く。追憶は追憶を呼んで、盡くる所を知らなかつた。而して多くの其逸事がユーモラスであればあるだけ、先生の生前の風格が躍動し、又その諧謔に裏づけられた先生の心持に、肅然と襟を正さねばならないやうなものが、多きを占めてゐた。

 奧さんも語り倦むことを知らなかつた。吾々も聞き倦む事を知らなかつた。― かうして通夜の最後の夜は、初めて通夜らしい氣分の中に、靜かに曙を仄めかして來た。外には曉靄(あさもや)が、夢のやうに罩(こ)め渡つてゐた。


[出典]久米正雄『金魚』(春陽堂、大正十三年)

[付記]

 昨日三時間ばかりかけて書いた記事ですが、誰も読んでいないようなのでいくつか気になる点を誰も読まないと知りつつ付け足します。

 まず全体として久米正雄という人の誠実さ、漱石への深い尊敬と、思慕、漱石山脈の大きさ、弟子たちそれぞれの漱石への思いが伝わってくる見事な記録だと思いました。

 俥や自動車があちこちで壊れるのも何か因縁めいていますね。話としては久米が「何だか氣が急ぎますから、失禮ですが俥に乘ります。」そして「前にゐた人を靜に押しのけるやうにして、そつと進み出た。」という辺りの感情が切ないですね。

 漱石山脈の序列では久米や芥川は下っ端で、だからこそ漱石の何かを得たいという我儘が滲み出ている「岡田君がふと書齋の隅から、先生の書き損じ(と云つても反故と云ふ程ではない)を見付けて、引出して來た。皆の心に專有欲が湧いた。而して各々其中からいゝのを選び出して、持つて歸らうと云ふ大それた考になつた。そここゝで爭奪が初まりさうになつたり、先取權の主張がありさうな程、事態は騷々しくなつた。」という場面、そしてそこに小宮がやってくるという下りは、まるでドラマのようです。

 ところでこの記録によれば、

・漱石が食べたのはツグミの焼き鳥ではなく鶇の滓漬

・弟子たちの弔辞は総代が小宮豊隆

・芥川の「あれが森さんかえ」が書かれていない

 ……のですが、私はてっきり別格の寺田寅彦が総代に推されていたと思い込んでいました。もしかしたら寅彦は門弟とは別格なので、こういう記録になっているのかもしれませんが。鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆の中ではやはり小宮でしょうか。

 それにしてもやはり時代と人物との差ではありましょうが、幸田露伴の葬式に安倍能成、小宮豊隆、和辻哲郎、川端康成くらいしか顔を出さなかったことを考えると夏目漱石はやはり恵まれていたんじゃないかと思います。

 ただ残念なのはその偉大なる夏目漱石作品が徹底して読み誤られているということですね。少しずつ解きほぐしているつもりなのですが、やはりどこにも届いている感じがしません。こうした記録を読むにつけ、ますます何とかせねばという気持ちになります。埋もれ木の花咲くこともなかりしに沈むや何の水屑なるらん。





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