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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する97 夏目漱石『行人』をどう読むか⑨

誠実さって何んだろう?

 久々に他人のnoteを覗いてみた。相変わらずここまでどうでもいいことを堂々と書くものだなと呆れてしまった。評論家の読み方に誘導されて読んでいるのに「自分なりに」などと書いてしまう。何故他人の読み方に誘導されているのに「自分なりに」などと書いてしまうのか、全く意味が分からない。しかも相変わらず「あらすじ」さえ掴んでいない。「あらすじ」が掴めていないのに感想も何もないものだと思うのは本当にこの宇宙に私だけしか存在しないのだろうか。
 要するにそれは自分が気に入った一場面だけをつまむ感想文を褒められてきた結果なのだろう。だから全体の構造が掴めない。掴む必要すら感じていない。それで「読んだ」と言い張るのだから始末が悪い。自分が気に入った一場面だけをつまむということは、残りがぼんやりしていても出来る。
 不思議なのはそれでも夏目漱石作品を好きだと書いていること。
 それはけして誠実なことではないと思う。

感覚だけでは読めない

 夏目漱石作品の中には感覚だけで読むしかない『夢十夜』みたいなものもあれば、感覚だけでは何の話か分からない『行人』のような作品もある。感覚だけで読んでしまうと悲惨なことになる。

 お貞は嫁に行くが、お重は嫁にいけない。この「ないこと」の方は普通意識に登らない。ロジックとして浮かび上がる。この『行人』を貫く縦一本の表の筋がお貞の嫁入りであるとしたら、それは確かに旅行を兼ねた二郎のお使いによって成し遂げられた。これは感覚で読める。しかしでは一郎と直の縁談の際にも二郎のお使いがあっただろうというところは感覚では読めない。ロジックとして浮かび上がる。つまり読みながら「そう言えば」と考えなければ二郎のもう一つのお使いは見えてこない。

何を理解したというのか

 それから読書メーターでも「一郎の苦悩が解る」とか「明治の知識人が……」式の江藤淳、柄谷行人に毒されたような珍妙な感想が見られたけれど、そもそも35+13という計算をした気配がない。それでどうして「一郎の苦悩が解る」などと書いてしまうのか不思議でならない。まず一郎の立場が理解できていないのだから、いったい何を理解したというのか。

  多分言いたいのはある側面は解るということなのだろう。しかしこの話はそもそも兄弟夫婦と雖も自分以外の人間と云うものは解らないということを言っている。

 なんなら一郎は二郎にお前は俺の弟だろうと訳の分からないことを言っている。そこには「自分はよその子かもしれない」という不安が出ている。一郎に共感できる人は、捨て子くらいかな。


省かれているだろうこと

 しかし問題は素人ばかりの話ではない。岩波の注解は「その不誠実さが改めて浮き彫りにされることになる」と二郎を責めるが、そこで「真摯で誠実な態度」を褒められるHさんがとんだお喋り野郎であり、Hさんの手紙からは「君がお直さんなどの傍に長くくっついているから悪いんだ」といった三沢に語ったような直截な記録が綺麗に省かれているだろうことに気が付いていない。これで定本と謳うのだから素人を責められない。

 と書くと「省かれているだろうこと」の証拠を見せろという人がいるかもしれない。その証拠は昨日書いたのに。
 Hさんは何故かおかずを説明しない。一言も。そして二郎のことも一言も書かれていない。「省かれているだろうこと」の証拠はそこだ。おかずなしでてこ盛りのご飯を食べる人がいるだろうか。書かれていることにはかならず取捨選択があるものだ。

 それにしてもここで「その不誠実さが改めて浮き彫りにされることになる」と二郎を責め、社会の規範から見れば不自然だが二郎自身にとっては自然と褒めてくれないものだろうか。『それから』の代助はあれだけ庇って貰えたのに。


性質と誠実さ

 確かに二郎はおっちょこちょいである。例えば、 

 三人は暑さを冒して岡を下った。そうして停車場からすぐ電車に乗った。自分は向側に並んで腰をかけた岡田とお兼さんを時々見た。その間には三沢の突飛な葉書を思い出したりした。全体あれはどこで出したものなんだろうと考えても見た。これから会いに行く佐野という男の事も、ちょいちょい頭に浮んだ。しかしそのたんびに「物好き」という言葉がどうしてもいっしょに出て来た。

(夏目漱石『行人』)

 ここで「全体あれはどこで出したものなんだろうと考えても見た」とあるが、それは消印を見ていないので分からないだけだ。

 好奇心に駆られた敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を披いて見た。すると西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これは田川敬太郎と長野二郎の性格の違いであろう。例えば母親に厭な顔をされるのも、

・Hさんに頼んで一郎を旅行に連れ出してもらった
・一郎が旅行に出かけたとたんに実家にやってきた
・直と二人で話をしている

 ……というロジックゆえのことで、これは「よくよく考えてみると」「見方によれば迂闊」であっても、おっちょこちょいという性格を前提にしてしまうと、この子にはそう言うところがあるという程度の話になってしまう。それを他人までが不誠実と詰ることはさすがにピントがずれていまいか。


もう「分裂」と書くのは止めよう

 またどうしても消えない「塵労で分裂」説は、例のお喋り野郎に注目するとやはり違うとしか思えない。

「B先生の話も僕のもやっぱり同じHさんから出たのだろうと思うがね。Hさんのはまた学生から出たのだって云ったよ。何でもね、君の兄さんの講義は、平生から明瞭で新しくって、大変学生に気受けが好いんだそうだが、その明瞭な講義中に、やはり明瞭ではあるが、前後とどうしても辻褄の合わない所が一二箇所出て来るんだってね。そうしてそれを学生が質問すると、君の兄さんは元来正直な人だから、何遍も何遍も繰返して、そこを説明しようとするが、どうしても解らないんだそうだ。しまいに手を額へ当てて、どうも近来頭が少し悪いもんだから……とぼんやり硝子窓の外を眺めながら、いつまでも立っているんで、学生も、そんならまたこの次にしましょうと、自分の方で引き下がった事が、何でも幾遍もあったと云う話さ。Hさんは僕に今度長野(自分の姓)に逢ったら、少し注意して見るが好い。ことによると烈しい神経衰弱なのかも知れないからって云ったが、僕もとうとうそれなり忘れてしまって、今君の顔を見るまで実は思い出せなかったのだ」

(夏目漱石『行人』)

  報告者としてのHさんの役割は明に暗に「塵労」以前にあり、「塵労」でいきなりHさんが登場したわけではない。Hさんの役割は着々と準備されていた。「分裂」と書く人は、むしろ「塵労」以前のHさんの役割に気が付いていないだけなのではなかろうか。


すべからく現代を超越すべし

「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非共生死を超越しなければ駄目だと思う」

(夏目漱石『行人』)

 この「すべからく現代を超越すべし」に岩波は、一通り高山樗牛の説明をして、

 一郎が主張したのは直接には生死の超越だが、そうであるにしても現実の超越という点で同時代人である漱石と樗牛の重なり合う一面がうかがわれる。

(『定本漱石全集 第八巻』岩波書店 2017年)

 と注解をつける。ふー。

 皮肉は皮肉と見つけられないと意味には辿り着けない。👆にあらかた書いたが「才人」は皮肉である。言葉の意味は作品の中でどのように使われているのか、そういう過程を見なくてはならない。超越とはずっと軽い意味で使われている。楽人だって現代を超越している。

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