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2023年映画感想No.89:愛にイナズマ ※ネタバレあり

石井監督の近作に共通する「クソな社会」と「物を作る意味」というテーマ

キネカ大森にて鑑賞。
コロナ禍ということを意識的に描いた『茜色に焼かれる』以降の石井監督作品はどれも「クソな社会」と「物を作る意味」を改めて明確に描こうとしているように感じる。『愛にイナズマ』でも前半の社会構造の話と後半の個人的な創作の話で違うトーンの物語になるという歪な構成すら主人公の創作にとっては必然であり、それを抜きにして「だから映画を作る」、「それでも映画を作る」という話にはならないのだと言っているように思った。
『茜色に焼かれる』から『月』に至る三作に共通して石井監督は弱者を虐げる社会の在り方に怒っているし、そういう社会から個人の尊厳を守る手段としての創作(芸術表現)を描いている。創作は痛みの中で孤立する人をエンパワメントする力があると描く一方で、それによって世界が根底からひっくり返ったり主人公が大成功するような一発逆転は無い。そういう過度な役割を創作という描写に持たせることはせず、あくまでその人の世界をより良くする手段という個人的な希望に留めているところが逆に切実でグッとくるし、だからこそ「映画を観る」という経験を通じて人生はより良くなると信じている僕個人も石井監督の信じている物語論に心を揺さぶられている。

「映画」が奪われていくような制作過程

前半、松岡茉優演じる花子が思うように映画を作れないという展開の描写がめちゃめちゃ丁寧で、本当に観ていて辛い。映画のアイデアをプロデューサー陣に心無く否定され、それでもチャンスを逃さないためになんとか笑顔でやり過ごして妥協点を探っている。彼女が映画の中で大切にしようとしていることがどんどん奪われていくような描写で、それでもなんとか花子が思い描くものが残った映画になってほしいと願うような気持ちで観てしまう。
花子の映画が否定されていく過程はそのまま彼女の経済的切迫にもつながっていて、芸術の価値が軽んじられている現在日本の貧しい芸術観はそのまま芸術家本人の生きる営みを追いつめている。多様であること、理解できないものを遠ざける考え方がそのまま制作陣の映画作りのジャッジに反映されており、貧しい価値観によって貧しい価値観こそが「映画で描く価値のあるもの」とされるシステムがある。
僕は映画『月』の感想で「疲弊した個人が無自覚に他者を傷つけ、その結果には無関心なまま不条理な社会は回り続ける」と書いたのだけど、この映画でも花子を直接的に抑圧しているのは残酷な社会構造に無意識に迎合している人たちだと思う。
三浦貴大演じる助監督は「理由が必要」「意味がわからない」と言いながら主人公の意見を「若い」「そんなものはない」と否定していく。そうやって自分から見えている範囲しか世界が存在せず、自分の尺度で測れない物事は全てあり得ないものとして否定する。そういう漂白された価値観こそが現在の日本映画の正義とされていて、そうやって歪んだ正しさが創作者の人権を否定することの延長線上に映画業界の性加害も繋がっていると描いているところまで、業界の悪しき構造を象徴するキャラクターになっている。
日本映画界の腐敗した構造については昨今特に具体的なエピソードがいろんなところから聞こえるようになってきたけれど、だからこそこの映画の直接的な描写にも悲しいかなめちゃめちゃ説得力を感じてしまった。早くこういう状況が無くなってほしい。この役を正しく演じる三浦貴大は本当に素晴らしいと思う。
MEGUMI演じるプロデューサーも上辺だけ親身な顔して本質的には花子の作ろうとしているものを全く信じていない。そうやって作り手の存在を軽んじる彼女は自分の意見を伝える時に「組織の決定」という言葉を使う。個人を否定することの責任を自分では取ろうとせず、常に非情な振る舞いの免罪符を作っているのが極めて卑劣で残酷だと思う。組織に従い自分の意見を持たないことが社会人としての優秀さだと思っているような人物であり、そういう人が「最も個人的なことこそ最もクリエイティブなこと」である映画制作を支えられるわけがない。(ちなみに「最も個人的な〜」という言葉はスコセッシ御大の金言です)

落合~悲劇を見つめることの意味

序盤に出てくる登場人物だと落合を演じる太賀が本当に素晴らしかった。とても限定的な出番なのだけど、落合という男にとって出演の決まっていた花子の映画がいかに人生の希望だったのかが切実に伝わってくる。
落合は結構な社会不適合者だと思うのだけど、それも含めて少ない場面だけで「こうとしか生きられない人」であることがキャラクターの根幹として感じられるし、だからこそそれすらも奪われた彼の絶望が痛いほど伝わってきて胸が締め付けられた。
冒頭で飛び降り未遂の現場に鉢合わせた花子が野次馬を映すところと誰にも存在を認められず自死を選ぶ落合のエピソードは繋がっていると思うのだけど、自分の人生を楽しむことだけを重要視する、言い換えれば自分のことだけで精一杯な現代人は物事のネガティブな背景を見ないようにして利己的な都合で悲劇を消費している。そうやって起きた出来事の「取り返しのつかなさ」を身も蓋もなく描く落合の一連の出来事は普通の人なら観てて辛い気持ちになると思うし、そういう最悪な結末を描くこともまたフィクションの大切な役割だと言っているようにも感じた。
花子の映画に出演する大御所俳優役が中野英雄で、上手くいけば親子共演が観れたはずだったことも落合が機会を奪われた喪失感を強めるキャスティングになっているように思う。『タロウのバカ』や『生きちゃった』などでも見せていた太賀の無理して明るく振る舞う演技は本当に素晴らしい。

「ありえない人物」を描くことこそ映画だと解答するような中盤以降の展開

三浦貴大演じる助監督が事あるごとに言う「ありえません、そんな人いません」という言葉に対して、花子の映画作りというこの映画そのものを機能させていく「ありえない人たち」の存在がアンサーになっているように感じた。
中盤以降の花子が実家に帰って映画を撮る展開は出てくるキャラと状況だけでめちゃめちゃ面白いのだけど、そうやって「映画のキャラだからね」と単純化して捉えやすい荒唐無稽な人物造詣の後ろ側にはみんなそうなってしまった事情を抱えている。ユーモアとペーソスの奥行きが見えるほどにキャラクターたちの印象はより複雑で魅力的に塗り変わっていくし、その観客にとっての印象の変化が映画撮影を通じて家族を理解し直す花子の視点と重なることで他者だと思っていた登場人物の理解に近付くことをこそ「映画的」だとメタ的に再定義してみせるような構成が素晴らしいと思った。
登場人物それぞれが一生懸命考えた結果どうしてもこじれてしまう状況があり、その愛すべき面白さがそのまま人生讃歌になっていることにも感動する。

豪華なキャストで空回りする映画撮影を描く面白さ

家族の話を実際の家族で撮ろう、という花子の目論見はものの見事に上手くいかないのだけど、役者的には圧倒的にどうにかしてくれそうな人たちが揃いも揃って全く役に立たない、という「上手い演技ができる人たちに上手くない演技という上手い演技をさせるコメディ」をひたすらやっているのが面白い。メタな視点で観たらどう考えても元々作ろうとしていた映画より凄い人たちが揃っているのに、この映画の中では全然ダメということになっているのがずっと意味がわからなくて笑った。佐藤浩市が佐藤浩市のまま下手くそ呼ばわりされたりしてて、さっきまであんなに応援していた花子の映画監督としての手腕が一気に信用できなくなる。
あの長男をあのバランスで成立させた池松壮亮は素晴らしいし、非マッチョで無力な次男の若葉竜也もピッタリ。『街の上で』でもあったけど多人数のごちゃごちゃした口喧嘩で「てめえは誰だよ!」となる場面は大体面白いし、若葉竜也はそういうシチュエーションに置いておきたい男の圧倒的一位であることは間違いない。

「映画」の象徴としての正夫の存在

そしてめちゃくちゃに絡まっていく花子一家の状況を「映画」として記録する視点であり続けるのが窪田正孝演じる正夫であり、彼こそが最もありえない存在でありながら最も映画的視点を体現している。映画的シンボルとして花子の物語にカットインしてきた彼は、花子の物語を前に進めていく役割を常に担っている。この映画自体が前に進んでいくための潤滑油であり狂言回しである彼の存在によって花子の家族を巡る物語が劇中で「映画」として展開していくし、それ自体がこの映画の多層な構造を成立させてもいる。
彼の利他的な善意は映画を愛する花子にとっての救世主的役割であり、文字通り物語を救い続ける。雨の口論の最中に正夫がカメラを向けることで花子は改めて「私は映画を撮らないといけない」という自分の切実さな気持ちを言葉にできる。花子の家族に対しても正夫だけがカメラを回し続けている。佐藤浩市の悲しみに寄り添う彼のハグがラストの展開を呼び、「誰も観ていない瞬間を記録する」という映画そのもののような彼の視点が美しい帰結を紡ぎ出す。まるで気持ちが溢れたかのような正夫と花子のキスシーンも花子の映画愛を象徴するような描写になっていると思うし、その「キスをしてしまった」という事実に蓋をすることを許させないやりとりにも「カメラの映像」が用いられる。常に彼の存在が花子の物語を「映画」として途絶えさせない。
一方で序盤に喧嘩を仲裁しようとした場面で正夫が無力だったように、彼が映画そのものだとするならば現実にはそれを必要としない人もいる。他者の物語と接続するものとしての映画とは反対に他者を拒絶し否定するものとしての暴力が描かれるのが興味深いし、結局それすらも花子と正夫の接点のきっかけになることでどんなに現実が酷くても映画が意味を持つ場所は存在し続けると描いているようにも感じた。

常に物語の背景に横たわる「お金」という要素

趣里や高良健吾はワンシーンのキャメオ出演で社会の内側にいる不寛容な人間の役をしっかり演じていて素晴らしかった。
芹澤興人のバーのマスターはコメディリリーフとして最高。一方でコロナ禍にわけもなく経済的に恵まれた彼の店の状況は不要不急として切り捨てられた芸術表現全般との皮肉な明暗を浮かび上がらせる要素でもある。芸術への援助の無さと飲食店を補助する制度のガバガバさは有効な金の使い方ができないという政治の在り方を表す意味で裏表のものだと思う。
正夫が映画という希望に全財産を託すのは映画の価値を信じる作り手の信念そのもののようでもある一方で、もしこの映画が彼の存在を「ありえない人間」として描いているならば、ここから先は夢の話ですという描写でもあるのかもしれない。現実に正夫のような人間はいないのだから、中盤以降に花子が自主制作で映画を作れるのは前提として夢物語であり、映画が美しいこととは別に自費をはたいて映画を作らなければいけない状況は決して美談ではないということも同時に込められているように感じた。

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