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2023年映画感想No.61:遠いところ ※ネタバレあり

明るい社会から見えない世界を生きる主人公

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。
昨年の東京フィルメックスのコンペ部門で唯一観れなかった作品だったので、こうして一般公開されてとても嬉しい。リアルタイムでの達成ではないけれど初めて一つの映画祭のコンペ部門の作品を全てコンプリートできたのは、映画の楽しみ方としてまた一つ新しい体験になった。

17歳にして2歳の息子を養うために水商売をする花瀬琴音演じる主人公アオイの生活を映す冒頭からとても苦しい。
死んだ目で接客するアオイが暗い裏路地を歩いて帰る姿だけで、明るい世界からは見えない社会に生きるしかない彼女の立場が浮かび上がる。後半に夜の世界に戻っていくアオイをこの暗い路地裏に入っていくという反転の構図で映すカットがあるなど、この場所を巡る長回しだけで社会の境界線を象徴的に表現している。
またどちらの場面でも赤信号を渡るというアクションがさりげなく繰り返されているのだけど、それもまた彼女の余裕の無さを示唆しているように感じる。赤信号を渡るような日常であり、赤信号を渡るしかない日常でもある。

男が作り出す「家族の問題」

ティーンの主人公が子供を養うにあたっての社会的孤立がとても切迫したものとして描かれる。本来助け合うべき関係のはずの旦那は家族への責任に全く向き合わない男で、仕事を辞め、アオイの貯金を使い込み、暴力を振るい、最終的には犯罪を犯す。
社会はそういう男側が作り出す「家族の問題」に対して母親も共犯であるかのようにジャッジする。助け合うべき相手から助けてもらえないことで社会的にも、一人の母親としてもアオイはどんどん追い詰められていく。

主人公が縛られる家族観の根幹にあるもの

また、アオイが早くに家族を作ろうとした背景にあるものとして破綻した両親との関係が示唆される。宇野祥平演じる父親に会いにいく道中で流れるラジオから聞こえる「誰も取りこぼさない社会」という沖縄県知事の言葉が虚しい。
アオイが自分を傷つける男とそれでも家族であろうとし続けるのは、自分が家族という形で幸せになることで生い立ちを否定したかったからかもしれないけれど、結果として父親と同じように無責任な男を選んだことで破綻を抱えているのが皮肉で苦い。
まだ親の助けが必要な年頃の主人公が若くして結婚、出産に至ったのも彼女を導くメンターやロールモデルになる大人の存在がいなかったからだろうし、未熟だからこそ未熟であることの責任を一人で抱え込まないように彼女を助ける存在であるべきはずの人たちが彼女に手を差し伸べないのがあまりに非情に映る。
彼女は自分の両親を憎んでいるからこそ同じことにならないようにダメな夫との関係に縛られているのだと思うと、家族という繋がりは主人公を不幸にする呪いのようでもある。

同僚たちとのシスターフッド~主人公がありのままでいられる居場所

アオイが唯一等身大のティーンエイジャーらしい自分を取り戻せる場所としてキャバクラの同僚たちとのシスターフッドが描かれる。家庭や母親業などの様々なしがらみから束の間だけ解放されるように夜遊びが描かれるのがアオイにあったはずの青春を見ているようで切ないのだけど、一方で本来なら何にだってなれる年頃の女の子たちが自分たちのいる場所の危うさすら自覚できないまま空虚にバカ騒ぎすることしかできない状況に危うい予感も漂う。
劇中でアオイに寄り添う石田夢実演じる親友の海音がこぼす「遠いところに行きたい」という言葉からは、彼女たちもそうなりたくてなったわけではないという背景が感じられて切ない。
主人公が友人たちと過ごす時間は警察に追われている時ですら開放感があるのだけど、警察=社会の定義する正しさに追いつかれたことでその時間が終わってしまったのだと思うとここが彼女たちの青春の最後の瞬間だったのかもしれない。主人公が母親として追い詰められていくほど同僚たちとは疎遠になっていくのだけど、プライベートと母親の役割が切り離せなくなっていく過程が同僚たちと集まる場面のアオイの状態にもしっかり表れている。

最も近くでアオイを助ける海音の飾らない優しさ

みんなで集まる以外の場所でもアオイと関係を描かれる海音は劇中唯一アオイに寄り添い続ける存在として感じられる。旦那に殴られてボロボロのアオイを助ける場面など、文字通りアオイの抱える「家庭の問題」に踏み込む良心的な役割として描かれている。
劇中で海音だけはアオイと対等に接していて、それがナチュラルにアオイの尊厳を守っているようにも感じられるのが良かった。旦那にボコボコにされたアオイの顔を海音がイジる場面も旦那に対する絶望的な気持ちが海音との楽しい会話によってフッと救われるような場面になっていて、演出の素晴らしさも相まってその優しさに泣いてしまった。
あくまで友達として自分が助けられる時は助ける、という海音の善意は全く押し付けがましくないのだけど、結果として最も近くでアオイのことを助けている。治療費を出したり、仕事も紹介したり、劇中の他の人たちより具体的にアオイの力になるし、海音の善意だけが唯一アオイが今いる場所から落ちるのを防いでいるように映る。

格差によって分断される個人の友情

一方で追い詰められていくアオイの目からは海音がどんどん違う世界の人間のように見えていく。対等な友人だからこそ海音は治療費を出すのだけど、それによってアオイは海音に対して距離や引け目を感じているように映る。かつては楽しかった夜遊びにも違う世界で楽しく生きている人間を見るかのような隔たりが生まれてしまう。経済的事情や職業といった社会的立場の違いや、そこから生まれる劣等感が個人と個人の繋がりを分断してしまう。
そうやって大きくなっていくアオイの問題は海音の良心で救える限界を越えてしまう。追い詰められて、善意が届かないところまで行ってしまったアオイが救いだったはずの海音の優しさすらも否定することしかできなくなってしまう。海音がアオイに言ってあげる「クソなのは男だろ!」という精一杯の肯定がアオイに届かないのが本当に辛い。

どこにも行けなくなる彼女たちが投げかけるもの

そうやってセーフティネットからこぼれ落ちていくアオイは多くの犠牲を払ってもなお全てを失ってしまう。家族に裏切られ、頼れる身内はいなくなり、友人とも離れ、尊厳を奪われながら孤独に働くしかない。そこまでしてそれでも何とか母親であろうとしたアオイが最後には母親というアイデンティティすら奪われてしまうことで、それまでの彼女の全てが否定されてしまうのが本当にやるせない。
アオイの絶望に寄り添うような海音の最後の選択が悲しい。かつて同じ場所にいながら人生が別れたかに見えた二人だったけれど、同じ場所で同じ痛みを抱えていたことが改めて浮かび上がる。海音が命懸けで示した連帯はアオイに大切な気持ちを思い出させるのだけど、残ったのは取り返しのつかない結末だけというのがあまりに切ない。アオイが自分を救おうとしてくれた海音の気持ちに改めて気づくのを顔面イジりをやり返すことで表現するのが伏線回収として本当に見事で、これ以上なく胸を締め付けられる場面になっている。
ラストも、どこにも行けなくなったアオイが行き詰まる。海というここではないどこか(="遠いところ")に繋がっている場所で絶望に沈んでいくという構図が皮肉で苦い。現実がこの結末を迎えないように、どうすればアオイはこうならなかったのかを考えることがエンドロールの後に続く現実の宿題として映画から投げかけられているのだと思う。

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