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ヴィットリオ・デ・セータ『オルゴソロの盗賊』イタリア、過酷な土地に生きる羊飼いの決断

ヴィットリオ・デ・セータ長編一作目。サルディーニャ島オルゴゾロ村の羊飼いは、脆弱な土地を移動するという過酷な生活背景から、彼らの中にある掟に従い、重要なのは家族と地域の繋がりだけらしい。デ・セータはこの3年前に『オルゴーゾロの羊飼い』というカラー短編を撮っており、多くの面で本作品はその延長線上にある。主人公は羊飼いミケーレ。ある日、彼が普段使っている休憩小屋に豚を強奪した盗賊たちが入り込んだ。しかし、ミケーレは彼らを追い出そうとせず(関わりたくないとは思っている)、後を追ってきた警察にも嘘をついて元同業者の盗賊たちを庇ったため、今度はミケーレが盗賊として追われることになる。禿げた岩山や苛烈なアップダウンといった見ただけで厳しそうだなと分かるような過酷な環境を切り抜くのはやはり上手く、それでいてさり気ない。なんのためにどこに向かっているのかが終始不明瞭なのも、結局どこにも行き場がないという意味が二重に掛けられていてどん詰まりの閉塞感を強く感じさせる。オレクサンドル・ドヴジェンコのような顔の仰角アップショットも多く、人間と自然(土地)の関係性を描くという意味では二人は共通していると思うなど。また、ネオレアリズモも系譜にあるが、それらの作品が含むある種の"劇的な瞬間"が本作品にはないのも特徴か。ただ、羊飼いの流儀の面では不明瞭な部分も多く、別に他の羊飼いが助けてくれるわけでもなく(町に定住する知り合いは助けてくれる)、むしろ羊飼いとしての生活がハードモードすぎるので他から取ってくるのが一番早いみたいな感じでギスギスしてた。地域の繋がりはどこへ。それでも、警察から逃げながら、小さい弟に自分の持てる知識を全て伝えようとするミケーレの姿には目頭が熱くなった。父親も羊飼いの仕事中に死に、自分の代でも明らかに採算取れなさそうなのは分かっていても、それでも尚羊飼いとして生きていたいという思いを感じた。

追記
チネマ・リトロバート映画祭で開催されたジャン・ルカ・ファリネッリ氏による公演から抜粋する。氏は2000年代前半に行われたデ・セータ本人が監修したリマスター作業に参加していたらしい。デ・セータはパレルモの貴族生まれで、父親は市長や議員も経験した超大物、母親は芸術に造詣が深く、彼女から大きな影響を受けた。第二次大戦で兄を亡くし、本人もオーストリアで捕虜生活を送っていた。ここで様々な階級の人間と出会ったことで、当時イタリア映画界がファシストの指示で作っていたプロパガンダでは描かれなかった人々の生活を知ることになる。実際、ネオレアリズモの発生はプロパガンダへの反発が起源になっているようで、彼もまたそれに触発された人物であった。上映された短編10本は全てイタリア南部の一次産業労働者を描いており、資金は自分で捻出したそう。というのも、当時の映画館で上映前に併映する短編ドキュ枠で製作されたそうだが(そうすることで政府から補助金が貰える)、政権与党が内容を気に入らなかったようで、結局補助金が降りなかったからだ。短編ドキュ10本は10本まとめて長編映画と本人は捉えていたらしい。ほとんどの作品でセリフがなく、主人公も一人でなく、カラーであり、イデオロギー的な意味合いもないことが革命的だったそうだ。マーティン・スコセッシはデ・セータについて"詩人の声で語りかける人類学者"と言ったそうな。ファリネッリ氏が語ったデ・セータのエピソードとして、撮影から半世紀近くが経過した作品でも、撮影の詳細を覚えており、光の具合や同時録音の不備などを悔しがっていたそうだ。本作品は1961年のヴェネツィア映画祭に出品されたが、同じ年にピエル・パオロ・パゾリーニ『アッカートネ』、エルマンノ・オルミ『就職』も出品され、イタリア映画に衝撃をもたらした年となった。

・作品データ

原題:Banditi a Orgosolo
上映時間:98分
監督:Vittorio De Seta
製作:1961年(イタリア)

・評価:70点

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