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ペトラ・コスタ『Elena』亡き姉との想い出を受け入れるまで

ペトラには13才年の離れた姉エレナがいた。彼女は女優になる夢を叶えるべく、母親と7歳のペトラを置いて単身ニューヨークへ飛んだ。"これを使ったらいつでも話せるよ"と貝殻の片割れをブラジルに置いて。

2003年9月4日。20歳のペトラはコロンビア大学で演技の勉強を始める。周りの人間はエレナのことなんか忘れろと言ったが、ペトラがニューヨークに戻ってきたのは、もしかするとエレナを通りで見つけられるかもしれないって、希望がどこかにあったからかもしれない。

姉妹が映画に興味を持つのは、母からの遺伝だと父は言った。そして、一本のビデオを見せてくれた。母が主演のサイレント映画で、彼女の夢はハリウッド女優になってフランク・シナトラにキスをすることだった。でも時代的にそれは厳しかった。16歳になった母はあこがれの国から帰ってきた父に出会うけど、彼が持って帰ってきたのはシナトラじゃなくてチェ・ゲバラだった。

暴動に参加した両親は逮捕された。逮捕された多くの若者は軍によって処刑されたけど、エレナがお腹の中に居たおかげで二人は助かった。この混乱のさなか、エレナは産まれて、誰にも住処を教えないようにと、隠匿の中で育った。

エレナが13歳のとき、プレゼントでビデオカメラを貰った。ちょうどペトラが産まれたときのことで、当時のブラジルは政治的にオープンで、秘密に暮らす必要はなかった。エレナはペトラやナニーを撮って遊んでいた。ペトラが2歳のとき、両親が離婚して、エレナはカメラを置いてしまった。

やがて、エレナはペトラとも遊ばなくなり、サンパウロの劇団に入って取り憑かれたように演技を練習を始めた。新聞に載るくらいの成功は収めたが、エレナは映画女優になりたかったから決して満足はしなかった。ペトラが7歳になった日、エレナは貝殻を残してアメリカへ去った。ペトラは貝殻を耳にあて、長い間姉を待ったのだ。

ニューヨークで、エレナは色んな映画事務所に履歴書を送り、色んなオーディションを受けた。待っても待っても連絡は来ないし、電話をかけても"待ってろ"としか言われない。追い詰められた彼女は体重の増減を繰り返し、終わりのないこの生活に終止符を打とうとしていた。都市での生活は肌に合わないのかもしれない。

ペトラがまだ7歳の時、エレナはブラジルに戻ってきた。故郷なら"根を張る"ような場所があるかと思ったんだろう。でも直ぐにニューヨークから大学に合格したと手紙が届いて、今度は母とペトラを加えた三人でニューヨークへ渡った。今度は独りぼっちにならないように。

どうやって飛行機が飛んでいるか、ペトラに語っていたエレナも、ニューヨークが近づくにつれて泣き出してしまって、ペトラはそれを不思議そうに眺めていた。

ある日、エレナはペトラを『リトル・マーメイド』に連れて行った。そして、この日を境に二人は演劇ごっこを再開した。楽しかった幼い頃の日々が束の間戻ってきたのだ。

しかし、孤独はエレナを着実に蝕んでいた。自分は何も愛せないという恐怖から声も出にくくなり、より孤独を感じるようになったのだ。ふさぎ込むようになって、ペトラの友達が遊びに来ても、泣き腫らした目を向けるだった。ある日、母に"イライラするのはよくない"と言われたエレナは、死んでやると叫んで家から飛び出していった。母は死に物狂いで街中を探し回った。しばらくして、エレナは家に戻ってきた。

母は戻ってきたエレナを精神科医に診せた。エレナは既に追い詰められていた。"芸術は私にとって全てなの。奪われるなら死ぬほうがマシだし、もし芸術家になれなくても死にたい"と言ってたけど、エレナは大学に一ヶ月も通っていなかった。母がブラジルに帰ってしまって、エレナはペトラの面倒を見ることになった。そして、昼間の間、エレナは再び独りになった。

その日、大学時代の友人がエレナを観劇に誘ってたんだけど、彼女は出てこなかった。アスピリンの箱とお酒を持って遺書を書いていた。友人はアパート中の住民を叩き起こしてエレナを運び出した。彼女の部屋には注射器やナイフが散乱していて、体にも注射痕がたくさんあった。

そして1990年12月1日、エレナは亡くなった。自殺だった。

7歳だったペトラには理解できなかった。自分を守ろうとエレナについて頑なに語ろうとしなかった。

ペトラは10歳になり、友達の家に遊びに行った時、突然エレナの死に気が付き、その思考は母もやがて死ぬということを考えるに至る。彼女は自分に様々な制約を課して、母親が死なないようまじないをかけた。そうするうちに、恐怖も薄れ、エレナのことを思い出すことも少なくなっていった。

やがて、大学を受けることになったペトラは演技の道を志すことにする。そして、エレナの経験した空虚を自らも感じるに至った。歳を重ねるごとにエレナに近づいていくようで、恐怖を感じていたが、21歳の誕生日の日、母に"もうエレナより年上ね"と言われて、エレナの後を追うことはなくなった。そして、自分の中に、世界の中に、エレナを探し始めることになる。

監督であるペトラがこの映画を撮影することを考え始めたのは17歳の彼女が、ブラジルの自宅で13歳のエレナが書いた日記を発見した時まで遡る。これを呼んだ時"まるで自分の日記を呼んでいるようだった"と語るほど、姉妹の繋がりは強かったようだ。また、『ハムレット』に登場するオフィーリアにも着想を得ていると言う。この頃、短編ドキュメンタリーで多くの賞を受賞したペトラはエレナへの思いを映画にする準備ができたと感じ、本作品の製作に至った。

まず、ペトラはエレナが撮影した50時間にも及ぶホームビデオを発見する。加えて、親族やエレナの友人を含めた50人ほどに総計200時間を超えるインタンビューを行ったらしい。結局完成まで2年半の時間を要し、2012年のブラジリア映画祭でプレミア上映された。そこでドキュメンタリー監督賞、一般審査員作品賞を含む多くの賞を受賞した。

映像としてはペトラのかき集めたホームビデオを繋いでいるため、ジョナス・メカス作品を思い出す。ただ、彼の作品はホームビデオのみを使用しているが、本作品ではエモさを誘発するよく分からない映像もホームビデオの間に突っ込まれているのだ。監督が橋の上を歩く映像、監督がごろごろ床を転がる映像なんかを挟むこの世界観を受容できるかで"美しい"と捉えるか"ナルシズムの結晶"と捉えるかが変わってくるように思える。

実際、エレナに語りかけるような口調で進み、監督のエレナに対する様々な感情が渦巻くのをそのまま映像にしているので、全然問題ない。しかし、冷静に考えてみると、極めてパーソナルな内容に対して映像が結構前衛的と言うか自分に酔っている感じもしなくはない。評価の分かれ目はそこだろうか。

しかし、これはペトラが亡くなったエレナに対しての整理しきれない感情の現れである。エレナにより添えなかった理解できなかった自分に対する怒り、失った時間への喪失感、そして何より、姉に対する愛情。ペトラはエレナに一番近かった自分ですら理解できなかった姉の死因をこの映画で肉薄し、自分を救おうとしているのだ。

ペトラはエレナの想い出を受け止め、痛みは漂う水に変わり、記憶の一部分となった。ペトラはエレナのように回り続け、エレナはペトラのように回り続け、こうしてペトラはこの映画によって救われた。

・監督経歴

1983年7月8日、ブラジルはミナスジェライス州ベロオリゾンテに産まれる。15歳のときから女優の仕事を始めた。コロンビア大学バーナード・カレッジを人類学専攻で卒業後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでコミュニティ開発の修士を取得する。
2009年、短編ドキュメンタリー『Olhos de Ressaca (Undertow Eyes)』で監督デビュー。
2012年、『Elena』で長編デビューを飾る。
2015年、長編二作目『Olmo and the Seagull』を発表。
2019年、長編三作目『ブラジル -消えゆく民主主義- (Impeachment)』を発表。

ジッロ・ポンテコルヴォ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケルに影響を受けたと語っている。

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