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ガイ・マディン(Guy Maddin)の経歴と作品

私の大好きなカナダ人実験作家ガイ・マディン。世界中にファンがおり、かなり研究&紹介されている作家ではあるのだが、日本では全く紹介されてこなかった。ということで今回は特大ボリュームでガイ・マディンの人生を巡ってみよう!!

・1956-1984 初期

1956年2月28日、マニトバ州ウィニペグに生まれる。母ヘレディスは美容師、父チャールズは Grain Clerk であり、地元のホッケーチームのGMだった。また、12歳年上の長兄ロス、10歳年上の次兄キャメロン、7歳年上の長姉ジャネットがおり、ガイ(以下マディン)は末っ子だった。

彼の幼少時代は、次兄キャメロンの死(1963年)と父の死(1977)のせいで悲惨なものだった。彼はウィニペグ大学で経済学を専攻し、1977年に卒業したが、映画監督になる予定はなかったという。同年、マディンは Martha Jane Waugh と結婚し、ジュリアンという娘を授かる(1978年生)。しかし翌年には離婚する。

卒業後、変な仕事に次々と就いていく。銀行の支店長になったかと思えば、家の壁を塗ったり、写真のアーキビストをやったりしていたが、そのうちマニトバ大学の映画の授業を受講し始める。こうしてマディンはステファン・スナイダーに出会い、彼のアーカイブを使った上映会に友人と遊びに行っていた。同じ頃、友人 John Paizs の短編二本に出演する。『Oak, Ivy, and Other Dead Elms』(1982)では学生役、『The International Style』(1983)では人殺しの看護師を演じた。
当時は、 John Paizs やステファン・スナイダーの実験的な映画やルイス・ブニュエル『黄金時代』、デヴィッド・リンチ『イレイザーヘッド』などの作品に影響を受けていたと語っている。また、後に多くの作品で脚本を共同で執筆することになるジョージ・トールズとも学生と教授という形で会っている。この頃マディンと出会った人物たちは"The Drones"と呼ばれ、マディンの初期作品で重要な役割を果たすことになる。

マディンは Winnipeg Film Group に加わり、当時ケーブルテレビのドラマを製作していた Greg Klymkiw と親しくなる。ここでマディンが出演した『Survival』という作品は、避けられない核の虐殺や社会的・経済的な崩壊を生き残れ!という風刺的な作品で、ウィニペグでカルト的な人気を博した。マディンは"心配する市民の悪魔"という仮面の役を演じている。

・1985-1988 『The Dead Father』『ギムリ・ホスピタル』

マディンの初めての作品は『The Dead Father』(1985)である。40分のモノクロ映画で、死んだはずの父親が息子家族を訪れ続け、その生活にダメ出しをしまくるという話だ。予算は5000ドルと見積もられている。撮影を開始したのは1982年だったのだが、完成したのは1985年だった。その後、John Paizsやステファン・スナイダーに乗せられてジョン・ハーヴィ、イアン・ハンドフォールドとともに製作会社エクストラ・ラージ・プロダクションを設立する。どうでもいい話を加えておくと、最初はジャンボ・プロダクションだったらしいが、ギムリのピザーラで設立祝のジャンボピザを頼もうとしたらエクストラ・ラージという名前だったので改名したらしい。

マディンはデビュー作で、ジョン・ハーヴィを息子役、マニトバ大学薬学部教授 Dan P. Snidal を死んだ父親役にあてた。同作は16mmフィルムで撮影され、映像はルイス・ブニュエルやマン・レイのようなシュールレアリストの作品に近いものがあった。特に終盤の死んだ父親と息子の対決シーンはマディンの特徴的な幻想シーンとして後の多くの批評家が引用することになる。本人はそれほど完成度は高くないと考えていたが、ウィニペグでのプレミアでは評判もよく、John Paizsの説得によってトロント映画祭に送ることになる。そこでマディンはアトム・エゴヤン、ジェレミー・ポデスワ、ノーマン・ジュイソンに出会い、カナダの映画監督として親睦を深めた。

続く企画として持ち上がったのが長編『ギムリ・ホスピタル (Tales from the Gimli Hospital)』である。これも16mmフィルムで撮られたモノクロ映画だった。友人カイル・マクローチを主演に迎え、ペストに罹った孤独な漁師が看護婦の気を引くために隣のベッドの男と戦う映画を撮ったのだ。マディン自身がその時男性同士の競争の中に置かれ、嫉妬している対象を忘れ、所有することに意味を見出すようになっていることに気付いたのだ。

マディンの伯母リルが美容師の仕事を引退し、彼に元美容院をスタジオとして貸してくれた。彼女が亡くなると母はスタジオを売り払い、残った数シーンは自宅など他の場所を使って、撮影はのべ18ヶ月に及んだ。マディンは Manitoba Arts Council から2万ドルの支援を受け、実際の予算は1万4千ドルから3万ドルだったと言われている。

『ギムリ・ホスピタル』はギムリに暮らす人々からペスト時代を軽視していると言われ、トロント映画祭からも上映拒否されたが、カルト的な人気を博し、マディンのその後の人気を一気に形作った。特にジョン・ウォーターズ『ピンクフラミンゴ』やデヴィッド・リンチ『イレイザーヘッド』の配給を担当したベン・バレンホルツの目に留まり、ニューヨークはグリニッジ・ヴィレッジの映画館で一年もの間深夜上映されることになる。また、マディンは同作でジーニー賞最優秀オリジナル脚本賞にノミネートされた。

・1989-1997 『アークエンジェル』『Careful』『Twilight of the Ice Nymphs』

映画監督としてカナダ国外でも名声を確立したマディンは、より多くの予算を注ぎ込んで、かっちりとしたスケジュールを組んだ長編作品の製作に乗り出す。長編二作目『アークエンジェル (Archangel)』(1990)はArkhangelsk (Archangel)というロシアの田舎の村で起こるロシア革命に関連した紛争を描いた作品だ。基本となるコンセプトはジョン・ハーヴィによって提案された。健忘症に苛まれるボールズというカナダ人兵士が、一次大戦期終盤にアークエンジェルに辿り着く。村人はボリシェビキ蜂起のせいで、ボールズのように健忘症を患って戦争が終わったことを忘れてしまったかのようにも見える。ボールズはその地で暮らすベロニカを失った恋人イリスであると勘違いし、繰り返す戦闘を通して彼女の面影を追いかけ続けるのだ。友人カイル・マクローチが主役のボールズを演じている。また、同作は初めてジョージ・トールズと公式にコラボした作品でもあった。

マディンは同作を16mmフィルム&モノクロで撮り、その予算は43万ドルだった。そして、映画黎明期のようなパート・トーキー映画をモデルに映画を完成させた。批評家J. Hobermanは"マディン映画のもつ最も独特な特徴は、古の映画の仕来りを掘り返して再配置する奇っ怪な能力だろう"としている。同作はトロント映画祭でプレミア上映され、国際批評家連盟から最優秀実験映画賞を受賞した。

長編三作目『Careful』(1992)は映画黎明期の別のジャンル、ドイツの山映画のスタイルを踏襲している。映画監督 Caelum Vatnsdal が、"ウィニペグで標高が高い場所といえばゴミの山の上に敷設芝を置いたような人工の丘しかない"と言ったように、ウィニペグの人間が山を描くのは驚くべき選択だったようだ。プロデューサーの要求に答える形で、同作はマディン初のカラー映画となった。撮影には16mmフィルムを用い、予算は110万ドルで、カラーの方式は1930年代初頭の二色テクニカラーを再現したものらしい。カイル・マクローチが他の常連ブレント・ニールやロス・マクミランとともにキャスティングされているのも特徴の一つである。マーティン・スコセッシがノッカース男爵を演じる予定だったが、『ケープ・フィアー』を完成させるために断念、ホッケーのスター選手であるボビー・ハルにも断られ、最終的にポール・コックスをキャスティングすることになった。

本作もジョージ・トールズとともに共同で脚本を執筆するこになった。同作では、Tolzbad という山の麓の街に暮らす住民は、些細な感情変化が壊滅的な雪崩を引き起こすせいで、病的なまでに感情を抑圧しているのだ。マクローチ演じる Grigorss とニール演じるジョナサンの兄弟は執事として明るい未来が保証されているようにみえたが、ジョナサンが母親に近親相姦的な妄想に取り憑かれ、フィアンセを捨てて印象的な自決へと突き進んでしまう。そして、その母親に思いを寄せるノッカース男爵の下で働くことになった Grigorss は、恋人クララにそそのかされで彼と決闘をすることになり、最終的に登場人部全員が死に至る。『Careful』はニューヨーク映画祭でプレミア上映され、他の場所で商業的な成功はしなかったものの、なぜかモンタナ州ミズーラのアートハウスでは毎晩二回も満席になることが二週間ほど続いたという。

トールズとともに次回作を考えるにあたって、マディンは『The Dikemaster's Daughter』というオペレッタを作ろうとした。人口の殆どがオペラ歌手と堤防建設作業員となった19世紀オランダで、名家の娘と気の触れたオペラ歌手の恋愛ものだという。オペラ歌手は殺され、娘は別の堤防建設作業員と結婚させられるが、彼もまた殺される。そして、錬金術師が作った後者の機械人形に二人分の心を入れることで、レバーを使って体ごと二人を入れ替えることが可能になった、というもの。主演はクリストファー・リーとレニ・リーフェンシュタールとして話を進めようとしたが、テレフィルム・カナダ(Telefilm Canada)はマディンらしくないとして予算が下りなかったため、企画は中止になった。

この頃、マディンはロサンゼルスに行って雇われ監督として働くことを真剣に考えていたらしい。そのためにもフォックス・サーチライトで働くクラウディア・ルイスと会ったこともあったが、オファーされた企画に幻滅した。1995年になって、TV映画『The Hands of Ida』を製作したり(後に否定)、エリーゼ・ムーアと結婚したり(1997年に離婚)、BBCに委託された短編映画『Odilon Redon or The Eye Like a Strange Balloon Mounts Toward Infinity』(1995)を撮ったりして過ごしていた。同作はトロント映画祭で審査員特別賞を受賞した。また、テルユライド映画祭で生涯功労賞を最年少で受賞した年でもあった。

マディンの長編四作目『Twilight of the Ice Nymphs』(1997)はクヌート・ハムスン『牧神』に触発されてトールズが脚本を執筆した。35mmフィルムで撮影され、予算は150万ドル、二本目のカラー作品となった。太陽の沈まないマンドラゴラの島で、釈放された元受刑者が故郷のダチョウ農場に帰り、巨乳のヴィーナス像を含めたドロドロの恋愛関係に巻き込まれていく。主演はシェリー・デュヴァルとフランク・ゴーシン。ナイジェル・ウィットミーも参加しているが、ロス・マクミランの声を上からアフレコしてしまったため、クレジットからは削除されている。

本作の舞台裏を描くノーム・ゴニックのドキュメンタリー映画『Waiting for Twilight』(1997)で、マディンがプロデューサーの度重なる介入にイライラしている状況が語られている。その後、短編映画やCMは作るものの長編映画は作らない時期が続く。この時期、スパークルホースの"It's a Wonderful Life"のMVを製作している。

・1998-2003 『The Heart of the World』『Dracula: Pages from a Virgin's Diary』『The Saddest Music in the World 』

映画を撮らない期間に、マディンはマニトバ大学で映画の授業を教え始め、そこで後の映画監督デコ・ドーソン(Deco Dawson)に出会う。彼の短編映画を観て感銘を受けたマディンは、彼を雇ってトロント映画祭向けの短編を撮ってもらうことにした。アトム・エゴヤンやデヴィッド・クローネンバーグと共に、マディンは2000年の映画祭に向けて4分の短編を撮ってオムニバスにするプロジェクトに参加していたのだ。他の監督が数ショットで終わらせることを聴き、ならば自分は1分に何百ショットも入れて、長編映画でも通用するプロットで撮ってやろうと思い立つ。そうして出来上がったのがロシア構成主義を基にした『The Heart of the World』(2000)だ。オシップとニコライの兄妹が同じ女性科学者アナの愛を獲得するためにバトルするという話で、アナが地球のコアを研究する内に地球の心臓を発見し、それが死にかけていることを知る、というもの。ニコライアは葬儀屋として流れ作業防腐処理を、オシップは俳優としてキリストの受難劇を演じることで、アナを感動させようとした。しかし、アナは"世界の心臓"に飛び込み、世界が映画に変異していくことで崩壊するのを食い止めた。同作は2001年のジニー賞最優秀短編賞を、国際批評家連盟から最優秀実験映画賞を受賞した。

『Heart of the World』の成功によって、マディンは長編映画製作を再開した。続く長編五作目『Dracula: Pages from a Virgin's Diary』(2002)は、デコ・ドーソンとのコラボを止めた作品でもあった。製作時にドーソンとマディンは仲違いしてしまい、これ以降一緒に働いたことは一度もない。『Dracula: Pages from a Virgin's Diary』はテレビ局CBCの依頼によって、予算170万ドルの中で、ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団の上演を撮るドキュメンタリー映画としての企画だった。しかし、マディンはクローズアップやジャンプカットなど、この手のミュージカル映画とは別のアプローチを採用した。そして、よりブラム・ストーカーの原作に忠実になるよう、主演を中国系俳優にすることでゼノフォビアを強調した。映画は批評家に好評で、ロジャー・イーバートは"ストーリーは平凡だが、それを伝える手法は非凡である"と讃えた。同作はプラハテレビ祭の最高賞やジェミニ賞最優秀監督賞など世界中で称賛を浴び、2003年になって劇場公開された。

続く長編六作目『The Saddest Music in the World』(2003)は380万ドルというカナダ映画界でもかなりの高予算で製作され、撮影期間は24日間だった。イサベラ・ロッセリーニを初めて起用した作品であり、彼女は後の作品にも何度か登場している。また、父ロベルト・ロッセリーニの作品を参考にして、映画自体も彼女とマディンの二人で生み出した。また、マーク・マッキニー、マリア・デ・メディロス、デヴィッド・フォックス、ロス・マクミランなどが出演している。マディンと共同脚本家トールズは、基本的なプロットをカズオ・イシグロの本から借りたものの、残りは全部書き直した。ロッセリーニ演じる伯爵夫人が"世界で一番悲しい音楽"を決めるコンテストを開催し、主人公チェスターは父フョードルや兄ロデリックと戦って、最高賞を取りに行くという話である。そして、チェスターの今の恋人ナルシッサは、実はロデリックと結婚しており、彼らの子供が亡くなったことで健忘症を患い、チェスターのことを忘れていることを知り、チェスターは元恋人である伯爵夫人と結託する。そして、伯爵夫人が好きなフョードルは彼女のためにビールジョッキの義足を作るが、振り向かせる事はできず、痛飲して亡くなる。同作はジニー賞など数々の映画祭で多くの賞を受賞することになった。

・2003–2007 『Cowards Bend the Knee』『Brand Upon the Brain!』『My Winnipeg』

『The Saddest Music in the World』(2003)のプレプロ中、マディンは『Cowards Bend the Knee』(2003)をスーパー8で撮った。予算は3万ドルだった。これはフィリップ・モンクのアートギャラリー"The Power Plant"のインスタレーション作品として製作された一連の短編映画の一本で、10本の短編をまとめて短い長編作品にして上映することになっていた。これによってマディンは2003年に長編作品を二本も作ったことになる。『Cowards Bend the Knee』はマディンの自伝的"私"三部作の第一作であり、ホッケー選手ガイ・マディンが違法な堕胎手術で恋人を亡くしたことを忘れてしまい、その堕胎を担当した医師の娘との恋愛沙汰に巻き込まれる。また、亡くなった恋人の幽霊とも彼女と知らずに恋に落ち、彼女の父親と彼女への執着心を競うことになる。物語はエウリピデス『メディア』にゆるく基づいている。ヴィレッジヴォイス誌のジェームズ・ホバーマンは"マディンの最高傑作"とした。

マディンは次回作として非営利映画製作会社"The Film Company"から、会社の地元シアトルと地元の俳優の使うのであればいくらでも金を使っていいというオファーを受けた。トールズと共著で脚本を仕上げたマディンは、9日間撮影に対して3ヶ月以上の編集期間を経て『Brand Upon the Brain!』(2006)を完成させた。予算は4万ドルほどとされている。同作は"私"三部作の第二作であり、主人公ガイ・マディンの横柄な母親が島の灯台で孤児院を経営しつつ、その若さを保つため、夫婦で子供たちに科学実験を繰り返していた。同作はサイレント映画として撮影され、2006年のトロント映画祭でライブオーケストラや活弁士を付けてプレミア上映された。北米では同様の興行形態で巡業し、活弁士としてクリスピン・グローバーやジョン・アシュベリーなど有名人を呼ぶこともあった。その他の通常上映では、ナレーションとしてイザベラ・ロッセリーニが声を吹き込んだバージョンが上映されている。また同じ年、サンフランシスコ映画祭とマニトバ・アート・カウンシルからそれぞれ生涯功労賞を受賞している。

続く作品は、彼の故郷でもあるウィニペグのドキュメンタリー映画を製作する企画から派生することになった。これはプロデューサーの"ウィニペグなんてクソ寒くてクソ汚え街なのはみんな知ってるから、それ以外で頼むわ"という一言によって路線変更を余儀なくされたからだ(勿論、マディンにそんな"簡単な"作品を作るという意図は微塵もなかっただろうが)。そして、個人的な歴史・人々の悲劇・神秘的な仮設を融合させた、マディンの言うところの"ドキュファンタジア"映画『My Winnipeg』(2008)が完成した。50万ドルほどの予算で製作された、"私"三部作の最終章であり、主人公ガイ・マディンは『Cowards Bend the Knee』で同じ役を演じたダルシー・フェールが再びガイ・マディンを演じている。映画はガイ・マディンが凍てつく街を如何にして出ていくかを記録しており、昔の家を借り直して撮影するなど、個人的な記憶を再現することにこだわった。その途中途中で、マディンは夢遊病のパンデミックや川が凍ったら現れる馬の頭の亡霊など、ウィニペグに関する嘘の伝説などを事実や噂話の横に盛り込んでいった。これによって、2007年のトロント映画祭では最優秀カナダ映画賞、2008年にはサンフランシスコ批評家連盟賞最優秀ドキュメンタリー賞、など数多くの賞を受賞した。

・2008–NOW 『Keyhole』『Hauntings』『Seances』『The Forbidden Room』『The Green Fog』

マディンは2009年にプロビンスタウン国際映画祭から、2010年にカナダ" Council for the Arts Bell "から生涯功労賞を受賞する。しかし、すぐに映画を製作することなく、インスタレーション製作に戻り、トロントのベル・ライトボックス文化センターの創業記念作品として『Hauntings』(2010)を製作した。同作はサイレント映画時代に大物監督が作ろうとした或いは作ったが失われた映画を再想像するという企画だった。同年の12月、批評家のキム・モーガンと結婚する(2014年に別居)。

翌年、マディンは長編十作目『Keyhole』(2011)を製作する。ジェイソン・パトリック演じるギャングのユリシーズ・ピックが自分の昔の家に押し入り、呪われた家を旅して部屋ごとに妻 Hyacinth を探していくという、ホメロスの『オデュッセイア』に端を発した物語だ。同作は2011年のトロント映画祭でプレミア上映された後、翌年のベルリン国際映画祭を含む多くの映画祭で上映された。

2012年、マディンはウィニペグ・アート・ギャラリーのために新たなインスタレーション作品『Only Dream Things』(2012)を製作した。同作では子供時代の部屋を再現し、ホームムービーを再編集することで幾つかの短編作品を製作した。

また、この頃から『Hauntings』(2010)の手法を拡張した、新たなインスタレーション作品『Seances』(2016)製作した。撮影は2012年にパリのポンピドゥー・センターから始め、モントリオールなどでも撮影を重ねた。しかし、途中でマディンが企画に興味を失ったことも会って、妻キム・モーガンやアメリカ人詩人ジョン・アシュベリー、脚本家のエヴァン・ジョンソンなどとともに完成に漕ぎ着ける。同作を撮影しながら、マディンとジョンソンは別の長編作品『The Forbidden Room』(2015)を先に完成させる。そのため、二つの作品には同じ俳優が登場していることもあるが、完全に別の作品である(混同されることがよくあるようだ)。『The Forbidden Room』(2015)はマディンの長編十一作目として2015年のサンダンス映画祭でプレミア上映された。

現時点での最新作は『The Green Fog』(2017)である。同作はアルフレッド・ヒッチコック『めまい』を"サンフランシスコが舞台の作品のフッテージ"を使って再構築する作品で、使用した映画は50年代のノワール映画から70年代のテレビドラマと多岐に渡っていた。

・全作品

The Dead Father (短編) 1985
★ギムリ・ホスピタル / Tales from the Gimli Hospital 1988
BBB (短編 documentary) 1989
Mauve Decade (短編) 1989
Tyro (短編) 1990
★アークエンジェル / Archangel 1990
Indigo High-Hatters (短編) 1991
Careful 1992
The Pomps of Satan (短編) 1993
Sea Beggars (短編) 1994
The Hands of Ida (短編) 1995
Odilon Redon or The Eye Like a Strange Balloon Mounts Toward Infinity (短編) 1995
Imperial Orgies (短編) 1996
Zookeeper Workbook (短編) 1997
★Twilight of the Ice Nymphs 1997
Maldoror: Tygers (短編) 1998
The Cock Crew (短編) 1998
The Hoyden (短編) 1998
Fleshpots of Antiquity (短編) 2000
Hospital Fragment (短編) 2000
The Heart of the World (短編) 2000
It's a Wonderful Life: Sparklehorse (短編) 2001
Fancy, Fancy Being Rich (短編) 2002
★Dracula: Pages from a Virgin's Diary 2002
★The Saddest Music in the World 2003
Cowards Bend the Knee or The Blue Hands 2003
A Trip to the Orphanage (短編) 2004
Sissy-Boy Slap-Party (短編) 2004
Sombra dolorosa (短編) 2004
My Dad Is 100 Years Old (短編) 2005
Nude Caboose (短編) 2006
★Brand Upon the Brain! A Remembrance in 12 Chapters 2006
★My Winnipeg 2007
Odin's Shield Maiden (短編) 2007
Glorious (短編) 2008
It's My Mother's Birthday Today (短編) 2008
Spanky: To the Pier and Back (短編) 2008
Footsteps (Video 短編) 2008
The Little White Cloud That Cried (短編) 2009
Night Mayor (短編) 2009
Send Me to the 'Lectric Chair (短編) 2009
Sinclair (短編) 2010
★Keyhole 2011
Only Dream Things (短編) 2012
Mundo Invisível (segment "Gato Colorido") 2012
VCold (短編) 2014
IIIColours (短編) 2014
Elms (短編) 2014
IIPuberty (短編) 2014
The Hall Runner (短編) 2014
Bring Me the Head of Tim Horton (短編) 2015
Once a Chicken (短編) 2015
★The Forbidden Room 2015
Seances 2016
The Green Fog 2017
Accidence (短編)  2018
Stump the Guesser (短編) 2019

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