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エッセイ『「死ぬのが仕事だあ」と言った婆ちゃん』

 元日に帰省すると、祖母が入院したことを知らされた。年の瀬に体調を崩したらしい。祖母は確か八十も後半の歳である。お別れも近いかもしれない。
 最後に「健康な」祖母に会ったのはもう十年近く前のことで、今やその体は健康な部分を探す方が困難である。
 ガスコンロを消し忘れるようになったのが五年前。震える手を、同じく震えるもう一方の手で押さえながら、
『生きてるのがつれえよ』
 とぼやくのに苦笑させられたのが三年前。
『もう(生きるのは)いいだけえが』
 とも言っていた。
 こういった台詞は、老体に煩う愚痴の範疇を出ない。苦笑はしても驚きはしない。だが一年前の元旦に聞いた、
『おら死ぬのが仕事だあ』
 この台詞には感銘を受けた。
 誰のための仕事かと言えば、それは家族を筆頭に自分が世話をかける人たちのためだろう。気持ちばかりやたら若くて、そのくせ労られて当然という顔をする年寄りもたまにいる。そういう連中と比べれば、この台詞は驚くほど利他的で、私は祖母に対し尊敬の念を抱かずにいられなかった。
 死を受け入れる姿勢それ自体は特別尊いとは思わない。苦痛、悲観、諦念、そういった感情の行き着く場所の一つでしかないと思う。しかし、その更に向こう側、自分がやれることの中で死が最も有益であると思い至れるのは凄い。

 ――私だって生きていいはずだ!

 このシンプルな本音は、どんな人間にもあると思っていた。たとえ余命宣告を受けようと、自死を望もうと、特攻に志願しようと、死を享受する心とは別に胸の底で燃えたぎる炎だと思っていた。尊重すべき、また尊重されるべき炎でもあるはずだ。それを、自力の衰えや十分に生きたという実感があれば、消し去れてしまうというのか。齢三十ほどの私には、にわかには信じがたい境地である。
 だが私はこの台詞を気に入った。
 一聴する限りではネガティブに思える台詞だ。しかし考えてもみれば、「懸命に生きます!」という姿勢があくまで生>死の価値観を匂わせるのに対し、「懸命に死にます!」という姿勢ほど死をポジティブに捉えた様もない。
 懸命に死にます、と胸の内で反芻していると、死への恐怖や生存本能とのギャップがそうさせるのか、じわじわ笑いが込み上げてくる。私は現状人生を辛いとは思ってないが、それでいてなお、心が軽くなる気がした。
 そこで皮肉極まるのは医療の発達である。八十を過ぎた老人が死を仕事とさえ言っているのに、医療は容赦なくその仕事の邪魔をする。かと言って家族は医者に診せないわけにはいかない。保護責任者遺棄になりかねない。時折苦しそうに唸り声を上げて横になる祖母は、もはや病気と闘っているのではなく医療と闘っているのだ。
 私は尊厳死より手前に安楽死という選択肢を設けることに賛成である。しかし現在の法律でそれは認められていない。生きること強いて、また生かすことを強いている。それは仕方ないとしても、口が利ける内に家族のためにやっておけることはある。
 人間最後は死ぬことが仕事だと思うと、表明しておくのだ。たとえ炎を消し去れずとも、表明しておくのだ。世話になって感謝するのも大事だが、感謝は時として次なる要求に等しい。したがって感謝だけでは足りない。パフォーマンスでもいいから要求を辞退して初めて、世話する側が目に見えぬものに背負わされる重荷を取り除き、その心を軽くしてあげられるだろう。

 私はストーブの天板で餅を焼きながら、祖母の娘である母に言った。
「俺はいいよ。手厚い医療はいらない」
 すると母は、
「なに言ってんの私が先に死ぬんだよ!」
 と餅みたいにふくれた。
 私は独り懸命に死ぬしかなさそうである。

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