戦後女子高生のデモクラシーとレッドパージ
昨日今日は群馬県桐生市や太田市でインタビュー。主に中島飛行場があった太田市の女性たちの戦中戦後の経験について聞いてきた。
この記事では少しだけ昭和9年(1934年)生まれのあるインタビュイーの戦中戦後を紹介します。
日本軍の戦闘機のかなりの割合を生産していた中島飛行場。ここでは日本人職員と共に、中国人や韓国人が徴用されていたそうだ。この地域は、1944年以降、頻繁に米軍による空爆にさらされることとなる。
インタビュイーは、中島飛行場の3軒隣に住んでいた。だから、米軍機が通った後、ペン型爆弾を拾った子供が爆死したのを見たり、中島飛行場から山に逃げる工場の職員が機関銃で撃たれるのも見たそうだ。
彼女の父親は、ロシア系のクオーターで、憲兵隊からスパイ疑惑をかけられていたらしい。それで、家族ともども収容所で見せしめにされていた連合軍の捕虜を見せられたという。彼女が驚いたことは、米軍のパイロットには女性がいたこと。収容所では、女性の戦争捕虜が裸で行進させられれていたという。
裕福な家庭で育ったこの人は、戦中も恐ろしいものを見たが、戦後の方が辛かったという。それまで信じていたこと全てが否定されたからだ。
彼女が鮮明に覚えているのは、米軍が太田市に進駐してきた1946年2月のこと。1000人(2000人?)規模の米兵が東京方面から中島飛行場(後の富士重工、そしてスバル)に軍用トラックなどで進駐。インタビュイーの朝鮮人のクラスメイト(当時13歳の女子中学生)が米軍のトラックに跳ねられて即死した。寸前まで生きていた友人が紙のようにぺしゃんこになり、それでも何事もなかった様に過ぎ去ったトラックの光景は決して忘れられないものだそうだ。
それから、闇夜にみる黒人の兵士たちは、軍服だけが立っているかのようで恐ろしかったという。その後、実家の自転車販売で米兵と商売をし、米軍にも慣れたのだという。
戦後の高山神社では、群大生が女子高生たち相手にデモクラシーの講義をしていたそうだ。大学生たちは熱心に語り、70人の女子高校生たちはブランコなどに座って静かに聞いていたらしい。大学生の姿は米兵と比べればみすぼらしくて「全然素敵じゃなかったけれど、彼らのお話は今まで聞いたことがないステキな講義」だったそうな。この秘密の講義に3回出席すると木彫りのDバッヂ(デモクラシーのD)がもらえて、大変光栄だったらしい。それをセーラー服のリボンの裏側に隠して着けて、政治的な帰属意識を感じていたという。
1948年か49年のある日、70人の女子高生たちは、在日朝鮮人たちや、同和の人たち、群大生たちと一緒に高山神社で決起集会をやり、ハチマキを巻いて警察署へと行進した。参加者には新田パンのコッペパンが配給された。他のグループの要求は覚えていないが、女子高校生たちは、教師による暴力を止めさせるように訴えていたという。
警察によってデモ隊が逮捕、補導され始めると群大生たちはそそくさと逃げてしまった。
「イデオロギーは教えてくれたけど、逃げかたは教えてくれなかったんよ(笑)」
補導された彼女は、父親に連れ帰られ、前橋のお料理学校へと「レッドパージ」されてしまった。他の女子高校生活動家たちは、就職先がみつからず、パンパンガールや芸者になり、中には気が狂った子もいたという。太田市の歴史書には載っていないが、70名の女子高生がデモで補導されたというのは、この地方都市では相当な騒ぎだったらしい。
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