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【読書】『大きな熊が来る前に、おやすみ。』島本理生

人は成長するにつれ、受けた傷に蓋をし、感受性を押し殺して生きていくのかもしれない。
そうしてある程度、タフに生きる術を身につけていくのかもしれない。

だが時として、その蓋を開け放ち、抑え込まれた感情を溢れさせ、その正体に迫ろうとする。

同じように傷を抱えた人間と時間を共有することによって。
あるいは、危険なものや苦しい環境に自ら身を投じることによって。

それを期せずして追体験できる世界があることが、小説の魅力の一つではないだろうか。

そう思わされる作品に出会った。

「大きな熊が来る前に、おやすみ。」

本書では、主人公である珠実が、恋人の徹平との関係の中で葛藤し、もがき、過去の父親の記憶とも対峙しながら最終的には自分自身との折り合いをつけていく姿が描かれる。

◇◆

外見上は安定している関係に、少しずつ暗雲が立ち込めるところから、物語は始まる。

うすうすと感じていた危うさは、彼からの暴力という形で決定的になる。
薄氷を踏むような生活は、あまりにたやすく音を立てて崩れ去る。

だが、珠実は彼の暴力に、憎しみではなくすがるような脆さを感じ取る。
それは、彼女が幼少期に父親に対して抱いていたイメージと重なる。

彼女は彼の中に父親を理解するための鍵のようなものを見出し、本心を探ろうと徹平に迫る。

その後、徹平の押し込められた過去が彼の口から語られ、それまでの冷めた表情や態度が崩れ、やり場のない苦悩が表出する。

一度起きてしまった暴力、それによって生じた恐怖心や猜疑心は、取り消すことはできない。

だが、彼の内側からの垣根の決壊に付き合うなかで、珠実は彼と共に時間を積み重ねていく淡い決意をする。

◇◆


この物語を一つの追体験として読み取ったのは、次の2つの要素が色濃く出ているからだ。

・いくつもの矛盾する感情
・傷の直視と意味づけ


いくつもの矛盾する感情

この小説に惹かれる理由の一つは、登場人物たちの内側にいくつもの相反する感情が存在することだ。

愛情と恐怖心、強硬さと脆さ、安心感の切望と自己破壊性、優しさと攻撃性、それらすべての感情の封印と瓦解…。

判然としないまま複雑に絡み合った心の内を、丁寧に掘り起こしていく作業が、綿密に描き出されている。

それは、珠実の次のような心情描写にも表れる。

今が手放しで幸せという気分ではあまりなくて、むしろ転覆するかも知れない船に乗って岸から離れようとしている、そんな気持ちがつねにまとわりついていた。
彼と話していると、今まで自分が当たり前だと思っていたことを簡単に否定されてしまうときがある。相手を好きな分、価値観がぶれる瞬間はいつもはっとする。


何か問題に向き合おうとするとき、すっきりとひと言で表せる感情はさほど多くない。
むしろ真剣に向き合おうとすればするほど、矛盾する感情がない交ぜになり、単純化できず途方に暮れてしまう。

読み進めがら、人生のどこかで多少なりとも感じたことのある葛藤に思い至り、それを代弁されているかのようなシンパシーに取りつかれる。

これが、本書における追体験の一側面だ。


傷の直視と意味づけ

もう一つが、負った傷の直視と意味づけという側面だ。

だれしも、実体の見えない傷を抱え込んだまま生きていくことは難しい。

受けた痛みの理由が分からないままに黙殺された時、不自然な傷跡だけが癒えずに孤独にうずきつづける。

それが余りに大きいと、耐えかねて別な何かに説明を求めてしまうのかもしれない。

本書では、珠実は徹平に、徹平は珠実にその手がかりを求め、自身の古傷に向き合うために互いの存在を必要としていた。

感情に必死に蓋をしながら、一方ではそれを取り払ってくれる誰かを切望していた。
傷を訳の分からぬ異物としてではなく、存在を認め意味を与えて、受けとめられるようになることを望んでいた。

彼女はのちに、次のような自覚に辿り着く。

父を許せない。父を許したい。だからこそ徹平を理解したかった。同じ穴蔵の中で、今度こそ向き合って訊きたかった。


現実世界では、自己の傷つきやすい領域を露わにしていて生きていくのは難しい。
だからこそ、私たちは時にフィクションに解を求めるのかもしれない。

本書では二人が共に痛みを伴いながら自分の奥底に潜む闇に接近していく。

それが、小説を読む側にまで届き、感受性の蓋をこじ開け、中の柔らかい部分を揺さぶるのだろう。

◇◆

本書は、表題作である「大きな熊が来る前に、おやすみ。」のほかに、中編2作品を収録している。

いずれも、弱さを内包した人間の葛藤や影に焦点が当てられ、言語化され、その延長線上で読み手の心を解きほぐしてくれる、そんな物語だ。

mie


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