来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしてい…

来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしています。 司祭職の醍醐味は、主日(日曜日)のミサにおける信徒に対する説教です。 説教を掲載します。 お読みいただければ、光栄です。 プロフィール写真出典:キリスト新聞社

最近の記事

年間第20主日(B年)の説教

◎ ヨハネ6章51~58節 ◆説教の本文 〇「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」 「私はパンである」というメタファーが、ここで「私の肉」に変わります。 「私はパンである」と言うと、「もぐもぐ、美味しいね、お腹いっぱいになったね」というノンビリした感じがありますが、「私の肉を食べる」と言うと、もっとビビッドでワイルドな感じがします。 イタリアに二年滞在した頃、無性に肉が食べたくてたまらない時ありました。日本人にとっての「米のご飯」にあたる

    • 年間第19主日(B年)の説教

      ◎列王記・上、19章4~8節 ◎ ヨハネ6章41~51節 ◆説教の本文 〇 [典礼暦メモ] ヨハネ福音書の6章全体を5回の主日に分けて読む、その3回目です。 この章は非常に内容が豊富で、ポイントがたくさんあります。説教のテーマを選ぶのに迷います。 こういう時は、第一朗読(旧約聖書) が参考になります。何度か言ったことですが、年間主日はまず福音朗読が選ばれて、次に福音朗読をある一つの方向から照らす旧約朗読が選ばれるというのが原則です。今日の旧約朗読は列王記ですが、旅路の

      • 年間第18主日(B年)の説教

        ◎ ヨハネ6章24~35節 ◆説教の本文 〇 [典礼暦年メモ] ー 今日はB年の年間第18主日ですが、第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章の全部が読まれます(16~21節は除外)。 ヨハネ6章は「地上のパン」「天からのパン」を巡る話です。 福音書のある一章を五回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。 今の朗読システムでは、年間には共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を読むことにな

        • 年間第17主日(B年)の説教

          ◎ヨハネ6章1~15節 ◆説教の本文 〇 今日の福音朗読は、いわゆる「パンの奇跡」です。B年は、マルコ福音書の大事な箇所を順に読んでいくことになっています。その順番で行くなら、今日はマルコ福音書の「パンの奇跡」の記事であるはずです(6.34~44) 。しかし、今日の福音朗読では、それに代えて、ヨハネ福音書から同じエピソードが読まれます。 (ここだけではなく、B 年にはヨハネ福音書が読まれる年間主日がけっこうあります) 「パンの奇跡」は 3つの共観福音書 (マタイ・マルコ

        年間第20主日(B年)の説教

          年間第16主日(B年)の説教【改訂版】

          ◎マルコ6章30~34節 ◆説教の本文 〇 今日の福音朗読は短いものですが、ポイントがたくさん含まれています。「弟子たちの宣教活動の報告」、「弟子たちの休息」、「打ちひしがれた人々」、そして、「イエス様はまず言葉で教えられたこと」。 今日の説教では第一のポイント、弟子たちの報告だけを取り上げます。 〇 「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや 教えたことを残らず報告した。」 使徒とは、使命を受けて、「派遣された者」という意味です。それには、使命

          年間第16主日(B年)の説教【改訂版】

          年間第15主日(B年)の説教

          ◎マルコ6章7~13節 ◆説教の本文 〇 今日の福音朗読では、十二使徒の派遣が語られます。ここまでは、弟子たちは必ずイエス様と行動を共にしてきましたが、はじめて、イエス様と離れて行動したのです。 故郷で受け入れられなかったという記事(6.1~6)に続いているのは、たまたまではないと思われます。血縁や地縁をたどって宣教できないかという気持ちはイエス様にもあったかもしれないけれども、故郷での冷たい現実に直面することによって、その種の絆に頼ることを思い切られたのではないかと思

          年間第15主日(B年)の説教

          年間第14主日(B年)の説教

          ◎マルコ6章1~6節 ◆説教の本文 「この人は大工ではないか。マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」 〇 イエスは、ご自分の仲間のところに来られ、宣教されようとしたのに、人々はそれを拒絶した。ご自分の仲間とは、まず人類全体を言います。 「言(ことば))は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1.11))とある通りです。 次に、イエスは、同じ宗教的伝統の中にいるユダヤ人に宣教しようとしましたが、受け入れられませんでした。パウロ

          年間第14主日(B年)の説教

          年間第12主日(B年)の説教

          ◎マルコ4章35~41節 ◆説教の本文 ◇「 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。 すると、風はやみ、すっかり凪になった。」 〇 イエスがおられる限り、大丈夫だ。私たちの乗っている舟は決して沈むことはない。このエピソードはそう告げているようです。 しかし、現実の生活では、舟が沈んでしまうことは珍しくないのです。 実際、その2年後に、エルサレムで舟は沈み、イエスは深い海の底へ沈んで行かれたのです。 私たちキリスト者の安心は、舟は決して沈まな

          年間第12主日(B年)の説教

          年間第11主日(B年)の説教

          ◎マルコ4章26~34節 ◆説教の本文 〇 「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」 この箇所について、今まではだいたいこういう説教をしていました 。 「植物を育てる自然の力に信頼せよ」。「太陽の光、土壌の持つ力、水の力に信頼せよ」。つまり、「歴史を進行させる神の力に信頼せよ」。これが喩え話のメッセージである。・・・単純にそう考えていた時が、私にもありました。 この読み方が間違っているのというのではないのですが、あまり

          年間第11主日(B年)の説教

          年間第10主日(B年)の説教

          ◎ マルコ3章20~35節 ◆説教の本文 〇 長い四旬節と復活節が終わって、典礼暦の主日は「年間」 (ordinary time)に復帰します。今日は年間第10主日です。 実は、「聖霊降臨の祝日」の後で復活節は終わって、年間に入っているのですが、主日については、「三位一体の祭日」、「キリストの聖体の祭日」が続くので、主日が年間に戻るのは今日からです。 今日は年間第10主日ですが、四旬節の直前の主日( 2月11日)は 年間第6主日でしたから、 3つの主日が抜けていること

          年間第10主日(B年)の説教

          聖体の祭日(B年)の説教

          ◎ マルコ 14章12~16, 22~26節 ◆ 説教の本文 「キリストの言葉に従って、私たちはその記念を行い、命のパンと救いの杯を受けて、主が来られるまでその死を告げ知らせます。」(キリストの聖体の敘唱) 〇 聖体の祭日は「私たちは何を祝っているのか」、対象が曖昧になりがちです。まず、「祝う対象はこれだ」ということをはっきりしましょう。少なくとも、この説教では何を祝うと考えているか、を明確にしたいと思います。 先週も言いましたように、典礼暦の本筋は、救いの歴史の出来事

          聖体の祭日(B年)の説教

          三位一体の主日(B年)の説教

          ◎ マタイ28章16~20節 ◆ 説教の本文 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。」 〇 典礼の本筋は、イエス・キリストの「救いの出来事」を記念するということにあります。数多い聖人の記念日は脇筋です。マリアの祝日や記念日も、少数を除いて(聖母の訪問など)、ほとんどは脇筋です。 今日、祝う「三位一体の祝日」は神学的祝日とか、idea feast と呼ばれます。神学的と言っても 、学者だけが集まって神学的議論

          三位一体の主日(B年)の説教

          聖霊降臨の主日(B年)の説教

          ◎使徒言行録2章1~11節 ◎ガラテヤ5章16~25節 ◎ヨハネ15章26~27節、16章12~15節 ◆説教の本文 〇「 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」 使徒言行録では、共同体の上に聖霊が激しく降り、その働きが周りの目にも見えて現れる様子が描かれています。プロテスタント教会の歴史では、そういう出来事は何度もあったようです(偽物もあったようですが)。リバイバルとか、大

          聖霊降臨の主日(B年)の説教

          主の昇天(B年)の説教

          ◎使徒言行録1章1~11節 ◎マルコ16章15~20節 ◆説教の本文 「こう話し終ると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われ彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」 〇 今日の集会祈願に「主の昇天に私たちの未来の姿が示されています」とあるように、この祭日の一つの意味は、私たちの旅路の到達点を示すということです。 私たちキリスト者は、多くの車両を連結した列車のようなものです。先頭車両(動力車両)はイエス・

          主の昇天(B年)の説教

          復活節第6主日(B年)の説教

          ◎ヨハネ15章9~17節 ◆説教の本文 〇「私の愛にとどまりなさい。」 今日の福音朗読は、先週の主日の福音のすぐ後に続きます。先週は「 私はブドウの木、あなた方はその枝である。私に繋がっていれば、あなた方は実を結ぶ」とイエスは言われましたが、今日の朗読はその変奏です。 「私の愛にとどまりなさい」と言われていますが、情緒的なことを言っているのではないと思います。第二朗読のヨハネの手紙に言われている通り、「神は愛です」から、イエスの愛に留まるとは、イエスその方(perso

          復活節第6主日(B年)の説教

          復活節第5主日(B年)の説教

          ◎ ヨハネ15章 1~8節 ◆ 説教の本文 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 〇 4つの福音書にはそれぞれ特徴があります。しかし、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の間の違いは、「言われてみればそうかな」程度のものです。 説教者は「マタイの並行箇所では・・」とか、言いたくなりますが(時間稼ぎになる)、たぶん会衆にとっては自己満足です。 一方、ヨハネ福音書と共観福音書の間の違いは際立ったものです。この違いをはっきりと理解することは信仰生活にとって有

          復活節第5主日(B年)の説教