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年間第15主日(B年)の説教

マルコ6章7~13節

◆説教の本文

〇 今日の福音朗読では、十二使徒の派遣が語られます。ここまでは、弟子たちは必ずイエス様と行動を共にしてきましたが、はじめて、イエス様と離れて行動したのです。

故郷で受け入れられなかったという記事(6.1~6)に続いているのは、たまたまではないと思われます。血縁や地縁をたどって宣教できないかという気持ちはイエス様にもあったかもしれないけれども、故郷での冷たい現実に直面することによって、その種の絆に頼ることを思い切られたのではないかと思います。

ただ、「血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた人々」(ヨハネ1.13)に語りかけようと心を決められた。そういう人はどこにいるかわからないので、広範囲に宣教の種を蒔くことが必要です。イエス様一人ではとても間に合いません。そこで、弟子たちをあちこちに派遣された。少なくとも、その準備を始められた。

〇 「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・と命じられた。」

宣教の旅には、軽装備で出かけるように(travel light)と命じられています。 これはモノに頼らず、神により頼むことを教えるためだと言われています。 確かにそうでしょう。

しかし、こういう勇ましい言葉は注意して読むことが必要です。装備をもっと充実させることができるのに、神により頼むことを示すために、あえて充実させないというのはおかしい。実際、私たちは使える状況なら、パソコンやコピー機を使っているのです。

私はローマで、ケニアの管区長に4輪駆動のランドクルーザーを送ってほしいと頼まれたことがあります。ケニアでは、村から村へと宣教と司牧の旅をするためにランドクルーザーは非常に有効です。ここで、福音のこの箇所を持ち出して、「いや、 歩いて苦労して旅をする方が、福音のメッセージをより有効に伝えることができる」と主張するならおかしいでしょう。それは論理の転倒です。

この章句が言っているのは、「装備がすっかり整うまで宣教を待つな」ということだと思います。装備というのは、機材や資金のことだけを言うのではありません。知識やコミュニケーション技術も含みます。
ランドクルーザーが届くまで、宣教しないということはない。今の貧しい装備でも、つたない知識でも、イエスの名を伝えるためにできることはあるのです。すっかり準備ができるまで、宣教を始めないということは、習作を書き留めるが、作品を発表しない作家の卵のようなものです。

「今できること」を見つけるためには、古典的な宣教のイメージ(例えば、フランシスコ・サビエル)から解放されること、発想の転換、想像力が必要です。

〇 しかし、イエス様は、弟子たちをいきなり宣教に派遣されたわけではありません。それに先立って、マルコ福音書は 2組の兄弟(1.16~20) 、そして、レビ=マタイ(2.14) の召命を語っています。そして、3章(13節~19節)で、12人を使徒として選び出したことが改めて語られています。何のために?

「彼らを自分のそばに置くため、 また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」 (3章14節~15節)

派遣するまで、ご自分の身近に彼らを置いて、ご自分の働きを親しく見せて教育されたのです。つまり、弟子たちは、イエスの種蒔きの喩えなどの教えを身近で聴き、質問することができたのです。

また、イエスの力ある業を目撃することができたのです。ただ見て、「イエス様、スゲェー 」と感心するためではありません。行動、振る舞いの仕方も含めて学ばせるためでしょう。
シモン・ペトロの姑の熱病を癒した後、イエスが「彼女のそばに行き、手を取って、起こされる」 (1.31)のも見たのです。

宣教は一つの芸術(art)であって、神学的知識だけでもできないし、熱誠だけでもできないものです。見て、仕方を具体的に学ばなければならないのです。
日本の教会に欠けているものの1つは、この宣教のためのトレーニングではないでしょうか。
「イエス様のことが大好きなら、この方のことを語りたくてたまらないはずです」などと言う人がいます。見知らぬ人にいきなり、イエスとやらいう方のことを熱く語り出せば、どういう反応が返ってくるか分かりそうなものです。無手勝流、自然体を良しとする日本の文化的伝統でしょう。
しかし、ジョン・ストット (John Stott)という有名なイギリスの宣教師は、「宣教に必要なものは何ですか」と尋ねられて、「一にトレーニング、ニにトレーニング、三にトレーニング」と答えたと言います。

福音書は、1箇所だけを読んで、「福音書にはこう書いてあるじゃないか」 と主張するものではありません。広く読んで、色々な箇所を関連させていくことが必要です。宣教なら、準備が整うのを待たずに始めること、そして、それと並行して準備や装備を整えること。福音書は、それを言っていると思います。
                                                                                                         (了)