見出し画像

年間第16主日(B年)の説教【改訂版】

マルコ6章30~34節

◆説教の本文

〇 今日の福音朗読は短いものですが、ポイントがたくさん含まれています。「弟子たちの宣教活動の報告」、「弟子たちの休息」、「打ちひしがれた人々」、そして、「イエス様はまず言葉で教えられたこと」。
今日の説教では第一のポイント、弟子たちの報告だけを取り上げます。

〇 「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや 教えたことを残らず報告した。」

使徒とは、使命を受けて、「派遣された者」という意味です。それには、使命を一応終えた後の報告も含まれています。糸の切れた凧のように、派遣されて「行きっぱなし」では、使徒とは言えないはずです。

16世紀に日本にやってきたイエズス会の宣教師たちは綿密な報告を書いています。事実の報告だけでなく、日本の宣教についての考察、これからの方向性も含む報告書です。異国での物質的にも精神的にもチャレンジングな宣教生活の中で、どうしてこのような詳しい報告が書けたのか、驚くばかりです。

私たちは、プロジェクトの事前には計画も準備も、そして、祈りもしていますが、一区切り終わった後にきちんと総括しているでしょうか。イエス様に報告しているでしょうか。あまりしていないんじゃないかと思います。
福音宣教全国推進会議、いわゆるNICEは日本の教会の総力を挙げた大プロジェクトでした(1987年に京都、1991年に長崎で、2回行われました)。膨大なエネルギーをかけたイベントで、事前に有益な文書もいろいろ出ました。

しかし、実行後の総括は形式的なものだったと思います。もし、イエスの前で行う総括がもっと充実したものであれば、その後の日本の教会は違った軌跡を辿ったのではないかと今でも残念に思います。

総括が形式的に終わった理由の一つは、事前の期待が非常に大きかったにもかかわらず、大した成果が現れなかったという失望があったのではないかと思います。

しかし、目に見える成果の大小が問題ではないのです。プロジェクトを実行する過程で起こったことを(予想外のこと、争いも含めて)、信仰の目で見直すことができたら良かったと思います。だいたい、一つの公式文章にまとめる必要はないのです。公式のまとめとは別に、これに関わった人たちが、個人的に総括して、それに皆が耳を傾ければ良かったのだと思います。私はニコラス神父の個人的総括が聞きたかった。

今日の福音朗読にある弟子たちの報告はそのようなものだったでしょう。誰か一人が代表して総括したわけではないと思います。

〇 私はレジオ・マリアという活動グループの賛助会員であったことがあります。時々、集まりにも出たのですが、印象深かったのは病人訪問の様子を報告し合うという部分です。今のレジオ・マリエの主な活動は病人訪問なのです。一人で訪問することもあるし、二人で行くこともあります。

それぞれが病人を訪問して、相手の反応や、自分の心の動きを報告し合うのです。それが活動報告会という雰囲気ではなくて、しみじみとした分かち合い の雰囲気で行われました。病人 訪問の経験のある人も多いと思いますが、ものすごく難しいというわけではありません。「今月は誰々さんを訪問しました。まあ元気でした」で済ませることもできます。訪問を受けた相手の反応には劇的な部分はほとんどありません。しかし、訪問した側には、色々な思いが動くのです。

相手のちょっとした言動に喜びを感じることもあるし、ぎこちなさを感じることもあります。病人訪問というのは、本当に喜ばれているか、確信が持てないものなのです。本音は迷惑に思っているんじゃないか、とか。

でも、病人訪問は良いことだ、喜ばれるはずだという前提があるから、その微妙な気持ちを表現することは難しいのです。そのレジオ・マリアの会合では、本当に率直に話して、聴いていました。自分なりの司牧や宣教の努力と苦労を率直に話し合うことの中に、神は、イエスはおられると感じました。

その当時、すでにレジオ・マリアの活動は停滞していました。活動する人数も減り、訪問を求める病人の数も減っていました(今は消滅しているかも知れません)。しかし、このように神の働きを身近に感じる限り、喜びは十分にあったのです。

〇 今日の福音朗読に記されている弟子たちの報告はそのような雰囲気ではなかったかと想像します。実績報告大会のような雰囲気、「私はこの町で、このような宣教しました」「パチパチ 拍手」ではなく、「思い切って話しかけてみたら、意外に話が弾みました」、あるいは、「インタフォンを押したら、宗教はお断りですと門前払いを食った 」とか、「犬に吠えられて逃げました」とか、そういうことを分かち合っていたのではないでしょうか。

そして、そういう宣教の経験を話し合うことで、弟子たちの絆は深まったのではないか、などと想像します。

今の教会にも、いわゆる「分かち合い」の場はありますが、宣教の労苦を率直に分かち合える場はあまりないのではないでしょうか。どうしても、「報告会」か「研究会」になってしまうのではないか。私たちは宣教には困難を感じていますが、このような小さな労苦を率直に分かち合える場があれば、 洗礼が増えるという意味での成果がなくても、活動することにきっと喜びがあるのではないかと思います。

〇 「さあ、あなた方だけで人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい。」

イエスの弟子たちにも、休息は必要です。休息は身体的なもの、静かな時間をもちろん含むでしょう。しかし、上に述べたような信仰の分かち合いもしたのではないでしょうか。
休息がただ消耗した体力気力を回復するだけではない、新たな力を得るものであるためには、信じる者同士で、ともにおられるイエスの働きを分かち合う時間が必要です。
                             (了)