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主の昇天(B年)の説教

使徒言行録1章1~11節
マルコ16章15~20節

◆説教の本文

「こう話し終ると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われ彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」

〇 今日の集会祈願に「主の昇天に私たちの未来の姿が示されています」とあるように、この祭日の一つの意味は、私たちの旅路の到達点を示すということです。

私たちキリスト者は、多くの車両を連結した列車のようなものです。先頭車両(動力車両)はイエス・キリストです。この列車は緊密に連結されているので(信仰と秘跡によって)、先頭車両が東京駅に到達した以上は、後続車両は到達したも同然と安心できます。

ただし、この列車の編成は非常に長くて、先頭車両から、私たちが乗っている車両までの 距離は非常に長いのです。先頭車両は東京駅に入っても、私たちの乗っている車両は、まだ横浜駅あたりにいます。でも、繋がってはいるのです。・・

この日によく使われる入祭の歌 「主は上られた、喜びの叫びのうちに」(典礼聖歌112) は、このような理解に基づいています。

〇 また、主の昇天の祭日の意義を別のところに求めることもできます。すなわち、「イエスの昇天によって、私たちの世界の外縁は大きく広がった」。

イエスは「天の父の国」に移られました。最後の晩餐に臨むイエスについて、すでにこう書かれています。「イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り・・」(ヨハネ13章1節)

もちろん、イエスはこの世界に、私たちと共におられ、私と共に働いてくださっています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28章20節)と言われている通りです。しかし同時に、この世を超越した、御父の世界に入っておられます。その意味では、離れて行かれたのです。

〇 (イエスは)「彼らの目から見えなくなった」とか、「離れ去って行かれた」 という表現が今日の第一朗読の使徒言行録にあります。
言葉にはそれ自体の持つプラス・イメージ、マイナス・イメージ があります。「近づく」、「見えるようになる」 はプラス・イメージです。「離れる」、「見えなくなる」は、普通はマイナス・イメージです。

しかし、普通はマイナス・イメージの言葉が、人間にとって、別の次元では良い出来事を表す場合もあるのです。

例えば、愛する人が死ぬことは、見えなくなることであり、私から離れることです。当然、ネガティブな感情を引き起こします。しかし一方、 死者を生きていた時よりも、より身近に、より親しく感じられることがある。この事実を経験したことがある人は多いのではないでしょうか。

「より」身近に、「より」親しく、と比較級で言いましたが、実際には、実在感(臨在感)そのものが変貌するのだと思います。 死んだ両親がより身近に、より 親しく感じられるというとき、 生きていた時に感じていた親しさがより濃厚になるのではないでしょう。違う別の次元で出会うのです。これは、両親がこの世を去った後、私が感じたことです。両親がこの世を去ったとき、私は「死者の世界」があることを実感したのです。

〇 山田太一の小説「異人たちとの夏」が、イギリスで映画化されたそうです。仕事も人間関係もうまく行かず、孤独な生活を送る中年の男が、死んだ両親(若い時の姿)に幻想的に出会うという物語です。この映画は見ていないし、小説も再読はしていないのですが、生活に疲れた男が死んだ両親に、ありのままで肯定され、生きる力を回復するという話だったように記憶しています。
両親は、この男が暮らしている世界に出現するのではないのです。むしろ、若い姿の両親が住んでいる世界に招かれて(両親はお店をやっています)、昔ながらの愛情を受けて、そこでしばらくの日々を過ごします。その日々は不意に終わりますが、元の世界に戻った男は少しずつ元気を取りもどし始めます。

なぜ、元気を取りもどしたのか。両親の愛情に癒されたということもあるでしょう。しかしそれ以上に、自分の元の世界だけが、唯一の世界ではないことを悟ったからだと思います。親しい人たちの暮らしている別の世界(死者の世界)がある。この男は両親のいる世界を、もう一度訪れることはできないでしょう。しかし、自分は今は行けなくとも、その世界がどこかにあることは知っている。いま暮らしている世界が唯一のものではない。男の世界の「外縁」は大きく広がったのです。

コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、ヨーロッパ人にとって、世界の外縁が大きく広がったように。 自分では 近所の公園にしか行けない 小さな男の子が、世界地図(地球儀)を買ってもらって、想像の中で大きな世界に心を広げるように。

若い人の間でハローウィンの人気が高いそうです。これも世界の外縁が広がることと関係があるのではないでしょうか。妖怪や魔女の世界(異界)と、自分たちの世界が地続きであることを一年に一度、確認する。 俳優の丹波一郎は 死後の世界にたいへん関心を持っていましたが、「大霊界」という映画を作った時に(なかなかよくできています)、「 この世とあの世は地続きだ」という名言を吐きました。

〇 ヘンリ・ナウエンは次のような経験を伝えてくれています。彼がハーバード大学で教えてた時に、ずっと前に卒業した学生が訪ねてきました。ナウエンとしては非常に親しくしたという記憶はなかったので、ちょっと意外だったようです。

二人はキャンパスの芝生に座って、「これまで自分たちに起こったこと」、「自分たちの今の状況」について話し合いました。予想を超えて話は弾んで、気がつけば、いつしか時間は過ぎ、太陽は西に傾いていました。

訪問者(元の学生)はズボンの埃を払って立ち上がり、別れを告げました。 「先生、今日私たちがこうして話し合えたことは良いことでした」。ナウエンもこう応えました。「そうだ 、本当に良いことだった」。 そして、その後で、元学生が言ったことは、彼がそれまで聞いた言葉のうちで、最も美しいものの一つだったそうです。

「今日から後、私たち二人を隔てるすべての土地は、町も、畑も、川も、山々も、すべての土地は聖なる土地(Holy Land)です。」

どこからこういう素敵な言葉が出てきたのか分かりませんが、この学生は遠く離れた土地に住んでいたでしょう。そして、多分、学生にとってはナウエン は非常に心に残る(ナウエンが思っているよりずっと) 教師だったのだと思います。

二人を隔てる全ての土地が聖なる土地(Holy Land)となるならば二人が隔たること、離れることは良いことではないでしょうか。離れれば離れるほど、良いのではないでしょうか。聖なる土地がさらに広がるからです。世界の外縁は再び広がり、世界はより美しいものとなるからです。

この言葉が紡ぎ出された背景はともかく、主の昇天の祭日が来るたびに、私はこの言葉を思い出します。そして、いつの間にか狭くなってしまった私の世界の外縁はもう一度広がるのです。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」

聖書の中では、この天使の言葉は「ぼんやり天を見ていないで、しっかり働け」という咎めるような響きを持っていますが、私は、時に天を見上げて立っているべきだと思うのです。
                            (了)