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聖体の祭日(B年)の説教
◆ 説教の本文
「キリストの言葉に従って、私たちはその記念を行い、命のパンと救いの杯を受けて、主が来られるまでその死を告げ知らせます。」(キリストの聖体の敘唱)
〇 聖体の祭日は「私たちは何を祝っているのか」、対象が曖昧になりがちです。まず、「祝う対象はこれだ」ということをはっきりしましょう。少なくとも、この説教では何を祝うと考えているか、を明確にしたいと思います。
先週も言いましたように、典礼暦の本筋は、救いの歴史の出来事 (イエス・キリストの降誕、受難、死、復活)を祝うところにあります。三位一体は出来事ではなく、「考え方」みたいなものなので、神学的祝日とか、idea feast と呼ばれます。
聖体の祭日は、救いの歴史の(一回限りの)「出来事」を祝うのではありませんが、神学的祝日でもありません。あえて言えば、ミサ聖祭という「制度」が、私たちには与えられていることを感謝し、祝う祭日ではないかと思います (これは私なりの考えです)。
中世は、信仰生活の中で、モノとしての聖体、見るモノとしての聖体の意味が非常に大きかった時代です。その時代は70年ぐらい前、つまり第2バチカン公会議前まで続きました。聖体行列、聖体降福式が盛んに行われました。 しかし今では、 聖体の祭日は、いわゆる聖体に限定されず、ミサ全体を指していると思います。聖体は、ミサの恵みを凝縮しています。
〇 カトリック教会におけるミサ聖祭の決定的重要性は、これまでも様々な視点から強調されています。近頃は、ミサと世界平和との関わりがしきりに語られます。
私は、 (個々の)キリスト者の生活を統合するものという視点を強調したいと思います。
前にも言ったと思いますが、故 アドルフォ・ニコラス神父はこう言いました。「ミサの中に全てはまとめられる」。
「ミサの中に、キリスト者の営為のすべてはまとめられていく」という意味だと思います。ニコラス神父は本当に日本語の上手な人で、私には思いもつかない、砕けた表現を使って、大事なことを教えてくれました。
私の若い頃の生き方はヘドモドしたものでした。司祭になってからも、やろうとしたことはほとんどが中途半端に終わったと思います。やれるところまでやったという、やり切ったと思うことがほとんどありません。唯一の例外は執筆出版活動です。この活動は書籍という見えるアウトプットがあるので、いちおう成果と思えるものがあります。
しかし、それ以外はほとんどが中途半端です。例えば、私は宣教に関心が強くて、自分で小さなプロジェクトをいくつか始めました。しかし、ほとんど始めるやいなや、立ち消えになりました。霊的指導もそうです。信徒との指導的関わりは集結まで行ったことがありません。関係がギクシャクするか、なんとなくやめるかでした。
神父というものは、だいたい自分の仕事における失望を話さないものです。職業上、あまりグジグジしたことが言えないのです。しかし、私の想像するところ、ほとんどの神父が挫折感を持っているのではないかと思います。 「私はいたずらに労苦し、意味もなく、空しく力を使い果たしました」(イザヤ49.4)
信徒も、いやキリスト者に限らず、人生の後半に差し掛かって、そう感じる人は多いのではないかと思います。
〇 自分の人生を振り返って、確固とした達成感を持てる人は少ないのではないか。多くの人が、「自分の人生は散らばっている」 (fragmented, shattered)と感じるのではないかと思います(元気のいい時、高揚している時はそうでもありませんが)。
ミサは、散らばってしまいそうな私の人生をまとめてくれたと思います。アウトプットという点から見れば挫折してしまったことにも、私の内側には様々な思いがあります。自分の野心も善意も、達成感も後悔も罪も。そのすべては、ミサの中にまとめられてきました。そして、人生の終盤に当たって、私は、自分の人生は無意味な骨折りではなかったと思うことができるのです。
ニコラス神父は「ミサの中にまとめる」と言ったのではありません。「ミサの中にまとめられていく」と言ったのです。これは実に味わい深い表現だと思います。
私の人生に統一をもたらす力は、私の中にはありません。それがあれば、はじめから散らばりはしないのです。ミサ聖祭の持つ力によって、「まとめられていく」のです。
ミサという礼拝形式の中に、なぜそのような力があるのかを説明することは私にはできません。誰にとっても難しいことでしょう。ただ、ミサの中に、そのように「まとめる力」があることを感謝します。また、勤勉な者でなかったにもかかわらず、曲がりなりに、ミサに与かり続けることができたことを感謝しています。カトリック教会に、ミサという「制度」が与えられていたことを感謝しています
「私はいたずらに労苦し、意味もなく、空しく力を使い果たしました」。「それでも、私の公正は主と共にあり、私の報酬は私の神と共にあります」。 (イザヤ49.4)