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年間第18主日(B年)の説教

ヨハネ6章24~35節

◆説教の本文

〇 [典礼暦年メモ] ー 今日はB年の年間第18主日ですが、第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章の全部が読まれます(16~21節は除外)。
ヨハネ6章は「地上のパン」「天からのパン」を巡る話です。

福音書のある一章を五回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。

今の朗読システムでは、年間には共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を読むことになっています。ヨハネ6章は非常に重要なので、いちばん短いマルコ福音書を読むB年のこの箇所に突っ込んでいます。

その結果、マルコ福音書の「パンの奇跡」の箇所は読まないことになります。しかし、共観福音書のパンの奇跡の記事はほとんど同じなので、実害はありません。マタイ(A年=18主日)、ルカ(C年=12主日)に、この記事はしっかり読まれます。

〇 「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、 パンを食べて満腹したからだ。」

ヨハネ福音書の「パンの奇跡」の記事は、共観福音書のそれとほとんど同じです。しかし、共観福音書においては、イエスのなさる奇跡(力ある業)は、 信仰への招きです。早い話が「イエス様すごい!」ということで、それ以上の考察はありません。

一方、ヨハネ福音書においては、奇跡は人々の応答を試すものです。そして、人々の応答はだいたいにおいて芳しくありません。それに関する対話が 第21主日まで長々と続くわけです。先週の福音朗読の終わり (6章15節)において、すでにこう記されています。

「イエスは、人々が来て自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」

イエスが5000人の群衆を食べさせる力を持っていることを知ったので、さらに、ローマ人を追い出す力を持っていることを期待したのでしょう。人々が食べることを望み、占領軍からの解放を期待するのは間違ったことではありません。しかし、人々は自分の目先の欲望を満たしてくれることをイエスに望んだのです。パンや政治的抑圧からの解放を「目先の欲望」と呼ぶのは酷いようですが、ここではそう言っておきます。

つまり、物質的に満腹した人々は、「人間にとって本当に必要なものは何か」を、それ以上考えなくなりがちなのです。これは必然とまでは言いませんが、大抵そうなるのです。
あるフィリピンの貧しい村では、キリスト教基礎共同体(basic christian community)というものがあって、聖書の素朴な分かち合いが行われていました。それは、人々の生きる力になっていました。しかし、だんだんに地域が都会化し、豊かになるにつれて、その分かち合いに参加する人は少なくなりました。若い人が最初に来なくなったのです。私たちの日本の教会にも、思い当たることがあるでしょう。

また、あるカトリックのグループでは、病気の人の癒しがよく起こるそうです。しかしそうなると、「あそこに行けば病気は治るよ」という評判が生まれて、それを求める人ばかりが集まってくる。それがこのグループの霊的な目的が変質するということでした。しかし、切実な癒しへの欲求を否定することもできないでしょう。

これは、イエスの宣教活動に伏在する根本的なジレンマであったと思います。そして、それがイエスが「十字架の道を歩むしかない」と心を定められた理由の一つだと思います。

〇 マタイとルカの福音書の初めの方に、いわゆる「荒野の3つの誘惑」が記されています。その一つは、パンの誘惑です。

「誘惑するものが来て、イエスに言った。『 神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。』(マタイ4章3~4節)

昔のキリスト者は、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉に即座に頷いたでしょう。それがキリスト教だ!
しかし、今のキリスト者は、彼が良いキリスト者であればあるほど、「 ちょっと待った」と言いたくなるのではないでしょうか。「 確かに、人はパンだけで生きるものではないでしょう。しかし、パンも確かに必要なのですよ。そのことがあなたには分かっていますか」と言うでしょう。

貧困は大昔からありますが、現代は、世界に大いなる貧困が存在するということの意識が、かつてないほど高まっています。そして、それは正しいことなのです。「 人はパンだけで生きるものではない」と言う人は、疑惑を引き起こすことになります。パンを与えることには関心を示さず、霊的精神的なことのみを強調する人は信用されないのです。修道会の総会でさえ語られることの多くは、人々にパン(と健康、安全)を与えることです。

〇 しかし、それを認めた上でなお、「人はパンだけで生きるものではない」 ということは強調されなければなりません。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

イエス様は、出会った飢えている人を見過ごしにせず、パンを与え、また病気の人を癒された。憐れみと慈しみの人であったからです。しかし、当時の ユダヤに腹を空かせている人、病気の人は数えきれないほどいたはずですが、イエス様がガリラヤ中を巡って、片っ端からその欲求を満たしていかれたようには見えません。どこか奥歯に物が挟まったような、ためらいがあるのです。イエス様がそうしようと思えばできたでしょうに。

それは、人々の要求を片っ端から満たして行けば、かえって彼らを神の国から遠ざけることになるというジレンマではなかったでしょうか。

このジレンマを解く道は、イエス自身が受難と十字架の道を歩くしかなかったのだと思います。ご自分の身をもって、「人はパンだけで生きるものではない」ことを示されたと思います。

祭司長も律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに自分は救えない 。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるが良い。それを見たら信じてやろう。」マタイ(27章42節)
                           (了)