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年間第20主日(B年)の説教

ヨハネ6章51~58節

◆説教の本文

〇「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」

「私はパンである」というメタファーが、ここで「私の肉」に変わります。
「私はパンである」と言うと、「もぐもぐ、美味しいね、お腹いっぱいになったね」というノンビリした感じがありますが、「私の肉を食べる」と言うと、もっとビビッドでワイルドな感じがします。

イタリアに二年滞在した頃、無性に肉が食べたくてたまらない時ありました。日本人にとっての「米のご飯」にあたるものは、ヨーロッパ人にとっては、パンではなく、「肉」ではないかと思いました。四旬節に肉は断つが、 同じ動物性タンパク質である魚や卵は平気で食べるというのは意味不明だと思っていましたが、こういうことかなと思ったものです。

〇 私の指導司祭が好んで話してくれたエピソードがあります。
太平洋のパプア・ニューギニアにもキリスト教が入って、土地の人からも司教が出るようになった頃のことです。その司教はキリスト教の文化的土着(inculturation)に大胆な人で、ミトラの代わりに酋長の大きな羽飾りを身につけ、司教の杖の代わりに戦士の槍を持っていたそうです。司教はある時、こう言ったということです。

「ヨーロッパの神学者どもは、御聖体の神学とか言うが、頭の神学に過ぎん。やつらは何もわかっておらん。しかし、わしらにはわかっておる。なぜなら、じいさんの代まで、人を食べていたからだ。腹の神学、guts theology なのじゃ。」

人肉を食べる習慣はいろんな文化にありますが、単なる栄養補給ではないそうです。その人の持つ生命力、知恵、勇気を 自分の中に取り組もう(appropriate)としているのだと言います。パプア・ニューギニアは過酷な環境で、生きることは困難だと痛感している人々にとっては、単なる栄養分以上のものが必要だったでしょう。

〇 パプアニューギニアで生きるのも大変ですが、キリスト者として生きることも困難です。時代の価値観と、自分の自己保存本能と戦わなければならない時があります。そんな時に、ご聖体が、パンというよりも、かぶりつく「イエスの肉」として感じられることもあるでしょう。
                                                                                                     (了)