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復活節第5主日(B年)の説教

ヨハネ15章 1~8節

◆ 説教の本文

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

〇 4つの福音書にはそれぞれ特徴があります。しかし、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の間の違いは、「言われてみればそうかな」程度のものです。 説教者は「マタイの並行箇所では・・」とか、言いたくなりますが(時間稼ぎになる)、たぶん会衆にとっては自己満足です。
一方、ヨハネ福音書と共観福音書の間の違いは際立ったものです。この違いをはっきりと理解することは信仰生活にとって有益です。
一つは、先週、言いましたように、ヨハネ福音書には 「キリスト者になる人はあらかじめ決まっている」というトーンが強いことです。トーンと言いましたが、この考えを純化すると、「予定説」という神学理論になります。予定説はカトリック教会は受けれませんが、予定説的考えには確かに一理あります。毎年、復活節にヨハネ福音書を読むことによって、この「一理」を自分の信仰理解に取り込むことができるのです。

もう一つのヨハネ福音書の特徴は、ヨハネ福音書には具体的な 生き方の勧めが少なく(山上の説教のような)、それよりも、イエス・キリストとキリスト者の「関係性」を重視していることです。具体的には、ヨハネ福音書に点在している「 私は〇〇である」という言明に表れています(I AM statement )。

「私は命のパンである」(6章48節)。「私は世の光である」(8章12節)。「私は良い羊飼いである」(10章14節) 。「私は道であり、真理であり、命である」(14章6節)。 「 渇いている人は 誰でも、私のところに来て飲みなさい」(7章37節)も、I AM statement (私は水である)と言えます。

その中でも、今日読まれた「私はまことのブドウの木である」という言明は 最もイメージ喚起力を持っています。

〇 「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私に繋がっていなければ、実を結ぶことができない。」

I AM statement の役割は、イエスに美しいイメージを与えることではありません。そのイメージを 媒介に、イエスと キリスト者の関係の理解を深めることにあります。
この章句は、「イエスに繋がっていなければ実を結ぶことができない」と教えていますが、同時に、「イエスに繋がってさえいれば、いつか実を結ぶことができるのだ」という含蓄を持っています。「焦ることはない、どっしりと構えていなさい」ということですね。
もっとも、「私に繋がってない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」と釘を差していますが。

共観福音書(パウロの書簡もそうですが)には、キリスト者の生き方について 具体的な教えが多くあります。そのほとんどは人間関係に関するものです。 それを熟読し、考察し、自分の生活に実現しているかを考えることは必要なことです。
例えば、「あなた方に言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」(マタイ18章22節)とか。これを読んで、「私は彼を何回赦しているだろうか」 と振り返ることは、キリスト者にとって意味のあることです。
しかし、具体的な教えをいくつも与えられると、一方で 生き方が窮屈になります。私はイエスのあの教えをどの程度実行してるだろうか、この教えはどうだろうかと、いつも考えていると、小心になります。その結果キリスト者らしい伸び伸びした 生き方を失ってしまうかもしれません。

そこで、共観福音書や使徒書簡に親しむ一方で、ヨハネ福音書に親しむ意味があるのです。一つ一つのイエスの教えにどの程度従っているかを精査することも時に必要ですが、「イエスに繋がっていさえすれば何とかなるのだ」という安心を与えてくれます。信仰生活を前向きに生きるためには、一つの 一つのことを丁寧に取り扱う細心さと共に、一つの根本的なことを大事にする精神が必要です。それを教えてくれるのが、ヨハネ福音書です。

〇 イエスという木に繋がることによって、枝が結ぶ実をヨハネ福音書はあまり特定しようとしません。ヨハネ福音書は特定しないことによって、私たちのものの見方を広くしてくれると思います。
共観福音書や使徒書簡だけを読んでいると、私たちの結ぶ実は、人間関係における徳だけみたいです。例えば、「 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、 寛容、親切 善意、誠実、柔和、 節制です」(ガラテヤ5章22節) とあります。
確かに、人間の苦しみの多くは人間関係の不調、歪みにあります。サルトルが「地獄 、それは他人である」と言っていますが、人間関係のことだと思います。また、人間の経験する最も深い喜び(激しくはないが)も、人間の関係を育てることにあると思います。結婚が秘跡とされているのはそのためです。それを否定するのではないのです。

しかし、今のキリスト教はあまりにも人間関係(社会関係も含めて)に考えが集中しているような気がするのです。これは皆さんの賛同を得られない観察かもしれません。
カトリック雑誌を読んでも、人間関係の話ばかりになっているような気がします。これを私は窮屈に感じるのです。
どんなに大事なことであっても、その話ばかりされると息苦しくなります。 人間が大事にすべきもの、喜びとなるものは他にもあると思うのです。例えば 文学、音楽、芸術です。ある人にとっては、学問、スポーツかもしれない(大谷翔平!) 。あるいは、政治活動。古代ギリシャ人は政治活動を人間の人間たる所以と考えました。

もちろん、キリスト者もこういう分野の話はするでしょう。大いにするかもしれない。しかし、そこで起こっている素晴らしい出来事を、「キリスト教信仰の実り」とは考えていないような気がします。この狭さ( 関心の一極集中) は、宣教の不調と関係があるのではないでしょうか。

ヨハネ福音書は私たちの視野を広げ、イエスに繋がることによって、私たちが結ぶ実にはいろいろあることを教えてくれます。

「 あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」
                                                                                                  (本文の 了)
▼メモ。A年= ヨハネ14章1~12節 (私は道、真理、命である)、C年=ヨハネ13章 31~35節( 互いに愛し合いなさい)