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聖霊降臨の主日(B年)の説教

使徒言行録2章1~11節
ガラテヤ5章16~25節
ヨハネ15章26~27節、16章12~15節

◆説教の本文

〇「 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」

使徒言行録では、共同体の上に聖霊が激しく降り、その働きが周りの目にも見えて現れる様子が描かれています。プロテスタント教会の歴史では、そういう出来事は何度もあったようです(偽物もあったようですが)。リバイバルとか、大覚醒(Great Awakening) とか呼ばれます。
しかし、私たちにはほとんど、そのような爆発的で集団的な経験はありません。聖霊の降臨は、一人一人の魂の中に静かに起こることが多いと思います。


「(聖)霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(第ニ朗読=ガラテヤ書簡)

しかし、聖霊の働きは非常にゆっくりとしているので、始めは、自分にも見えないことが多いと思います。自分が洗礼+堅信を受けた後、その前より、大いに親切、誠実、柔和になったと思える人は少ないでしょう。まして、他人にはなかなか見えません。しかし、それでも、個々の恵みは見えなくとも、「自分は聖霊を受けたのだ」、「聖霊は私の中で働いてくださっているのだ」と意識することは必要です。

聖霊降臨の大祝日は、聖霊の恵みへの確信を新たにする機会です。典礼暦の真髄は「今年新たに・・」ということです。今年新たに、聖霊は、私たちの 共同体に、また個人の魂に降られます。私たちが、その働きに気づかなくても。これは信ずべき事柄です。

〇 ところで、聖霊を、聖霊として意識する必要はあるのでしょうか。ある恵みを、イエスや御父の恵みとしてではなく、聖霊が与えてくださった恵みとして意識する「必要」はあるのでしょうか。

たぶん、「必要はない」と思います。聖霊の恵み(実り)として、聖書の中で言及されるのは、対人関係における美徳(親切、誠実に柔和など)、共同体の平和、思いがけない場所への派遣などですが、どれをとっても、「イエスの与えてくださる恵み」と言っても、何ら差しつかえはありません。
「私は聖霊によってアフリカに派遣された」と言うことが多いと思いますが、「イエスによって派遣された」と言う方が自分にとって適切と感じれば、そう言ってもよいのです。ある神父は「 聖霊様は、それで怒ったりはしません」と言っていました。

これには、perichoresisという神学用語(ギリシャ語)がちゃんとあります。「三位一体の神の相互内在」と訳されていますが、三位一体のどれかの位格について言えることは、他の位格についても言えるという意味です。イエスと親密になっていれば、イエスを通して、聖霊とも、御父とも親しくなっているのです。
イエスと共に歩いていけば、それだけで、良いキリスト者の生活を送ることができると思います。使徒パウロは「 イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(第1コリント2.2)と言っています。

「 私には聖霊がよくわからない」と嘆いたり、悩んだりする人があります。私も、それでイライラしたことがあります。しかし、その必要はないのです。聖霊降臨の大祝日は、長い復活節が終わる日です。それでもよいと思います。

〇 しかし、クヨクヨ悩む必要はないけれど、「聖霊」という方を知り、この方がしてくださることをよく知って行けば、それはやはり、信仰生活にとって良いことだと思います。なんと言うか、神様とのお付き合いが「立体的」になるんですね。妻が夫を知りたいと望むとき、夫の家族をよく知れば、夫のことがもっと分かる。夫との交わりも深くなるようなものと言っておきましょうか(不十分な喩えですが)。

〇「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」

聖霊の働きの大事な一つは、私たちに真理を理解させることだと言われています。頭が良くなって、複雑で深遠な論理を理解できるようになるというよりは、自分の生き方に深い影響を与えるような形で理解させてくださいということです。

私はニ週間前に、それを経験しました。パウロのガラテア書簡に「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(3章13節) と書いてあることについてです。まさしく、イエスではなく、「聖霊」の恵みと感じました。

私はそうは見えないと思いますが、若い頃から、社会正義に関する倫理的な強迫感を持っていました。洗礼を受けることによって、「これはキリストの掟だ」「 社会正義に携わらないと、キリストに喜ばれない」という感覚を持ったために、その強迫感に圧迫されてきました(多くの人には興味がないでしょうから、詳しい話は補足に書いておきます)。まさしく、「キリストは私たちのために呪いとなった」のです。

これは、ガラテア書簡やローマ書簡に「福音と律法の相克」の問題として、しつこく書かれていることです。私はここに書かれていることが長い間わかりませんでした。「行いではなく、信仰によって義とされる」とは何のことだろうか。そもそも、「義とされる」とは何のことだろうか。
2週間ほど前に、ローマ書簡(7章と8章)の注解を読んでいる時に、すっと腑に落ちました。

〇 今の教会が、教皇フランシスコが、社会正義に強く主張していることが間違いであるはずはありません。

「律法は罪であろうか。決してそうではない。・・律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。例えば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼり(が罪であること)を知らなかったでしょう」(ローマ7.7)

しかし、その正しい主張が、私にとっては、律法となっていたのです。正しいからこそ、律法となっていたのです。私を神の道を喜んで自由に歩かせてくれるものではなく、重い義務感で縛り付けるもの(律法の重荷)となっていたのです。

しかし、ニ週間ほど前に、この重い義務感がフッと、私の体から消えて行きました。私は社会正義の問題に、もっと自由な気持ちで考えるようになったと思います。そして、私はこれを聖霊の恵みだと思うのです。イエスの恵み、御父の恵みと言ってもいいかもしれないが、「聖霊の恵み」と言うと、ずっと適切に感じるのです。

こういうことは、皆さんにもあるのではないかと思います。考えてみてください。例えば、「人を赦す」ということは間違いなく良いことであり、キリストが喜ばれることです。ただ、「人を赦さなければならない」ということが、福音ではなく、律法になってしまっている、強迫観念になってしまっているのではないかと見える人もあります。

〇 人間の正義と解放に関する、疑いもなく正しい主張が、律法の重荷となるという事情は、60年代70年代に学生時代に送った人ならわかるかもしれません。しかし、この事情が分かる必要もない。

言いたいことは、今年、聖霊降臨の大祝日を迎えるにあたって、私は聖霊の恵みを受けたと感じているということです。そういうことは皆さんにもあるのではないかということです。

聖霊降臨の前後に、毎年こういうことが起こるとは思えません。しかし、毎年、「今年新たに聖霊は私に降ってくださる」と信じて、聖霊降臨の大祝日を迎えたから、こういう恵みを受けることはできたと思います。

「私が父のもとからあなた方に遣わそうとしてる弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。」
                             (了)

[補足]:
私は、洗礼を受ける前の、大学生の頃から、「私は世界の抑圧された人々のために働けなければならないのではないか」という思いを強迫的に持っていました。どうして、こういう強迫観念を持つようになったかは分かりません。
大学に入ったのは1970年です。まだマルクス主義の影響が大学生の間に強かった時代です。しかし、この時代の大学生の多くは、壮大で精緻な解放の理論としてのマルク主義ではなく(勉強している学生は少なかった)、ただ倫理として影響を受けたのです。「貧しい人、抑圧された人々を解放しなければならない!」

しかし私は全く政治的な人間ではなく、活動家タイプでもなかったので、漠然とそういう思いを持っているだけで、学生時代はなんとなく過ぎていきました。
1981年に洗礼を受けてキリスト者になりました。1980年代の後半に、いわゆる「解放の神学」が日本にも紹介されて、神父たちにもかなりの影響力を持ちました。解放の神学とは、キリスト者も政治活動(時には実力行使も)に携わることをためらわずに、貧しい人の解放に献身しなければならないという主張です。
この「解放の神学」の主張が、私が昔から持っている倫理的な強迫観念と結びついて、私を圧迫しました。繰り返しますが、私は資質としては、まったく非政治的な人間です。デモにも、組合活動もしたことがありません。それなのに、なぜか、頭の中から、「貧しい人々の解放に、私も参加しなければいけないのではないか」「参加しない私は神に喜ばれないのではないか」という観念が離れませんでした。この強迫観念は人には見えなかったでしょうが、私から喜びを奪っていました。

私は、この聖霊降臨を前に、この強迫観念から解放されました。貧しい人の解放などはどうでもよいと思うようになったわけではありません。その思いが強迫的でなくなったのです。自由に考えることができるようになりました。