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年間第14主日(B年)の説教

マルコ6章1~6節

◆説教の本文

「この人は大工ではないか。マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」

〇 イエスは、ご自分の仲間のところに来られ、宣教されようとしたのに、人々はそれを拒絶した。ご自分の仲間とは、まず人類全体を言います。
「言(ことば))は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1.11))とある通りです。
次に、イエスは、同じ宗教的伝統の中にいるユダヤ人に宣教しようとしましたが、受け入れられませんでした。パウロはこれを非常に重要なことと考えます(ローマの信徒への手紙 9~11章)。

第三に、これが今日の福音朗読のテーマですが、イエスは一緒に暮らしてきた親戚、友人、同郷の人に受け入れられませんでした。私たちにとって現実感のあるのはこれでしょう。
ここには、「イエスに親しい人々であるにもかかわらず」と同時に、「イエスに親しい (慣れた)人々であるからこそ」というポイントが現れています。 親しみがかえって、イエスのメッセージを真剣に受け取ることを難しくするのです。

〇 長崎では、子供の頃から知っている青年が司祭になることが多いので、 こういうジョークがあります。
司祭が叙階された直後、関係の深い小教区に行ってミサをすることを初ミサと言います。ある新司祭が自分が生まれ育った教会に初ミサに行って、なかなか良い(もっともらしい) 説教をしました。しかし、教会のおじいさん、おばあさんたちが「 あの子は子供の頃ワルガキで、聖堂の壁に立小便しよった」と言って笑ったと言います。
これはユーモラスなエピソードとして語られるものです。長崎における神父と信徒の近さを示すとも言えましょう。しかし、新司祭が真面目に伝えたいメッセージがあった場合、それを本当に真剣に受け取ろうとしないとも言えます。

もう一つ、初ミサの話をしますと、初ミサの説教では、新司祭はガチのメッセージではなく、「叙階まで皆様にたいへんお世話になりました」という御礼の場として使うことが多いようです。私の見聞ではそうです。私はそれを残念なことと思っています。御礼は入祭の挨拶でも、ミサ後のお知らせでもできます。
説教でキリスト者の生き方を真剣に訴えるメッセージがあれば、未熟なものでも喜ばれるでしょう。むしろ、それを待っている人が多いかもしれない。

なぜ初ミサの説教がついお礼を言う場になってしまうかと言うと、世話になったのに御礼を怠ると悪く思われるかもしれないという恐れが強いからだと思います。その心配は錯覚だとも言い切れないません。年配の人には、我々は御礼を言われるべき立場だと思っている人も多いような気がします。しかし、その心配を押し切って、ガチの説教をしたからと言って怒る人はまずいないでしょう。

〇 今日の福音朗読は、親しさや馴れが、福音から遠ざけることを言っています。しかし、だからと言って、親しさが悪いわけではないのです。親しさは本来、メッセージを伝える上で有利に働くはずです。しかし、現実にはそうならない。それは福音が私たちを慰め、励ますものであると同時に、私たちに挑戦するものであるからです。

四旬節の黙想会では、遠くから指導司祭を招くことが多いですが、理由の一つは、慣れ親しんだ司祭では、回心を求める四旬節にふさわしいインパクトを持つのが難しいからだと言われています。その小教区の事情や問題点を全く知らない方が、思い切った説教ができるからです。strangers' value という言葉があります。
しかし、理想を言えば、事情や問題点をよく知った上で、回心を訴えるのが良いはずです。そして、何度も繰り返さなければ、メッセージは届きません。strangers' value に頼っていては、その場ではインパクトはあっても、永続する実りにはならないでしょう。実際、去年の四旬節黙想会のメッセージは何だったかと尋ねられて、答えられる人は少ないでしょう。その時は、それなりに感動したはずなのですが。

私たちは、馴れ親しんだ人から福音を聴く術を学ばなくてはなりません。

〇 人に慣れる(馴れる)ことの問題がありますが、福音のメッセージに慣れる(馴れる)ことの問題もあります。こちらの方が深刻かも知れません。
福音のメッセージは本来、私たちの今の生き方に挑戦するものを多く含んでいるはずです。しかし、私たちはそれを、「ウンウン、良い教えです。教会はそういう話を聴く場所です」と喜んで聞きます。少なくとも拒絶したりしません。しかし、即座に聞き流して、自分の生活と触れ合わせようとはしないことが多いのです。
例えば、「 行って持っているものを売り払い、 貧しい人に施しなさい。・ それから私に従いなさい」(マルコ10章21節)を聞いて、文字通りに実行しなくてもいいのです。しかし、この聖書の言葉が、どういう意味で自分にチャレンジしてるかを探る努力はしたいものです。それをしないで、聖書を読み流すことは不信仰です。

「(イエスは)人々の不信仰に驚かれた。」
                                                                                           (了)