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創り手への入り口

・詩歌の入り口

文系の高校生活。決して楽しいことばかりではなかったです。
それでも司馬遼太郎の「竜馬がゆく」全八巻を通学中に読破したりして、
読書体験は豊富に降り積もっていきました。

そんな時、高校の授業で「俳句」を自分流の訳で
表現してみようという時間がありました。

即興で教科書に載っている人たちの俳句を自分なりに解釈していくのは、
すごく刺激的なことでした。
長文を書くのは苦手だけど短い文章ならパッと思いつくという
自分の利点が働きました。

素敵に自分流の訳をする同級生の子は沢山いて、
それでもやはり自分が選ばれて先生の口から講評を受けるのは
特別に嬉しかったです。

特に訳していて、楽しかったのは「正岡子規」。
このnoteでも人物評を書いたことがあります。

彼のストンとした写生画の俳句は、
無駄な物が一切ないからこそ、空想力を高めてくれます。
「を」や「の」など助詞一つとっても良く考えられています。

そういう発想の飛躍が上手くいったときに、
正岡子規の俳句はどんどん膨らみをもって
私の中では「詩」のようなものになりました。

こうして考えてみると「詩」を作る芽のようなものを与えてくれたのは、
正岡子規だったのかもしれません。

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・読書の先に待っていたもの

読マンガ(こうは呼びませんが……)と読書をずっと続けてきて、
私は育ちました。

それ以外にも自分を育ててくれたものはあるのですが、
どうしようもない自分を支えてくれたのはやはり、
どんな形を持っていても言葉の力でした。

そして、本当は読書を生きる糧に、
何も言わず何も残さず生きていくことの方がかっこいいのかもしれません。

しかし、私は自分で「表現」してみたいと思って「しまった」。
そう「しまった」のです。

noteでこうして文章を書くのもその内に入るでしょう。
私はかっこよく黙っていられなくなったのです。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
次回も鋭意執筆中。
ちなみにデザインもクリエイトしています。


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