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羽を描き、空に踏み出し、いざ転職。

こんばんわ、キリイチです。

今日は料理や小説ではなく、私の本業についてお話させて頂こうと思います。
なぜ本業を記事にしたかと申しますと、私が27歳にして、初めての転職に踏み出すからです。
退職届が受理され、8月末をもって現在の仕事辞めることとなりました。
これまでの仕事の経緯とこれからの展望についてを私自身の備忘録として書いていきますので、興味のある方はどうぞ覗いていってください。

①就活時の私

私は2016年3月卒ですので、就活をしていたのは今から約6年前のことです。
短期間のインターンシップやら説明会やらに奔走し、とにかく苦しかったという一言に尽きます。
この時ほど、自分には何もないということを痛感したことはありません。

それと同時に、自分の周りは"何かを成し遂げた人たち"ばかりで非常に肩身が狭いと感じておりました。

周りの友人は「最終面接まで行った」やら「内定でた」やらで浮かれ始め、Twitterを開けば、「就活楽勝」なんて言葉が躍っておりました。
ネットニュースでも、「就活第一波が終了!次のピークは7月!」なんて煽り文句ばかりを並べる始末。
奨学金も借りているため、どうにかしてでも就職をしなければいけませんでした。
元々食品メーカーに行きたかったので、大手食品メーカーを何社も応募しましたが、ものの見事に惨敗。
運よく1次面接に行けたとしても、それ以上進むことはありませんでした。

そんな中で出会ったのが、現在の職場です。
医療機器の専門商社という、とてもニッチな業界。
医療業界については何の知識もありませんでしたが、興味本位で応募し、グループディスカッションと3回の面接を経て、内定が無事決まりました。
この内定で気が抜けてしまったのか、私はこの一つの内定を持って、就活を終えることを決意しました。

②新卒1年目

医療機器の営業としての仕事が始まりました。
最初の1ヵ月目は、座学研修で会議室に缶詰めになりながら、"社会人の基礎"を徹底的に指導されました。
挨拶の仕方、報連相の意味と重要性、名刺の渡し方……etc
とにかく覚えることが多く、夢にまで出てくる始末です。
目まぐるしく毎日が過ぎ去っていき、座学研修が終わりを迎えると、ついに配属先での本格的なOJTが始まりました。
※OJT(On the Job Training):実践業務での育成手法

OJTといっても、営業のマニュアルなんてものは何もありません。
現場でシゴかれるというのが、うちの営業研修の方針でした。

商社の営業は、とにかく覚えなければならないことが山ほどありました。
従来の営業活動(見積作成、電話対応、商品提案)を踏まえながら、同時に納品業務・物流業務を担い、なおかつ、メーカーや建築業者との仲介調整業務もあり、"何でも屋"といっても過言ではありません。

私が一番最初に配属されたのは、都内の大学病院でした。
規模が大きいため、各部署に営業が数人配置されておりましたので、毎日違う先輩について、現場を回っておりました。

半年間のOJTを終え、本格的に配属になるのかと思いきや、次に私が異動した先は、関連会社への出向です。
病院内の物流になっている会社への短期出向であり、社長から勉強してこいとの通達があり、急遽の人事発令となりました。
なんとそれを言われたのが、3日前。今考えれば恐ろしいですね。

その出向先では3ヶ月間、お世話になりました。
この会社でも、覚えることは非常に多かったですが、覚えたと思ったらまたも人事発令が出まして、元の会社に戻った私は、次は都内の中小病院の営業をすることになりました。

環境が違えば、新たに覚えることも増えます。
病院というのは少し特殊で、それぞれに独自の色と文化があります。
営業の仕方についても、どこでも同じものが通じるわけではなく、その文化を理解するために、一から覚えていかなければいけないのです。

この時、私についた新たな上司に言われた言葉を今でも覚えています。

「お前は今まで何をしていたんだ?」

私はこの言葉に、かなり痛みを感じました。
良くも悪くも、様々な人の下で働いた結果、全てが中途半端で、知識もところどころ欠けている営業になっていたのです。
私の過ごした1年は一体何だったのだろうと本気で悩み、ショックのあまり、次の日は休みました。

それでも何日も休んでるわけにはいかないので、必死で営業を覚えながら食らいつき、ようやく物を覚えてきたところで、またも突然の人事発令が出ました。

③新卒2年目、東京から埼玉へ

人事発令は突然にやってきました。
今回は二週間前であり、少し余裕があった……いやありませんでした。

どこを担当するのかもまったく不明なまま、埼玉の配属となりました。
そして当日、私に下された指令は、「営業してこい」の一言でした。
私は耳を疑いました。
担当を受け持つとかではなく、新規開拓営業をしてこいというざっくりとしたものであり、私に渡されたのは、埼玉県内の病院リストと1台500万円はするであろう、大型備品のパンフレットでした。

私は言われるがままに車を走らせました。
パンフレット片手に飛び込み営業をしまくりました。
といっても、埼玉県内は非常に広く、時間帯も限られるため、1日に営業できても5~6件がいいとこです。
最終的には病院と老人ホーム合わせて、2ヶ月で200件ほど回ったと思います。

さすがに飛び込みで500万円の備品は売れませんでしたが、埼玉のどの位置に病院が集中しているなどの地理的な知識、断られても平気なメンタル、情報の引き出し方、商品提案するまでの前提知識の集め方などは学びました。

飛び込み営業やテレアポをやるなんて時代遅れだなんていう学生さんもいるかもしれませんが、結構鍛えられます。
確かにきついことはきついですが、一番きついのは一番最初の1件目だけで、2件目以降は100だろうが200だろうが変わりません。
それに見ず知らずの場所に飛び込みをしていると、否が応でもコミュニケーション能力があがります。
社内や社外で、今まで話しかけられなかった人に、平然と話せる胆力ぐらいは簡単につくので、やっておいて損はないです。

そんなことが続き、私はずっとこの飛び込み営業をやればいいのかと思っていた矢先、埼玉の営業担当が一人退職することに伴い、私はその後任として埼玉エリアの病院を担当することとなります。

③新卒2年目の秋、初めての担当にして、シゴかれまくる。

初めての担当として埼玉県の病院を受け持つことになりました。
それと同時に、埼玉全土のエリア担当となりました。

数あるお客様の中で、埼玉にある某中小病院は、私たちの会社にとって初めて取引が開始された、非常に重要なお客様です。(50数年の付き合い)
本来であれば、2年目の新人が担当するお客様ではないのですが、埼玉出身であり、良く動く営業だということで担当することとなりました。

社長や常務に連れられ、院長ならびに理事への挨拶。
この時も、衝撃的なひと言が放たれます。

「こんな新人連れてきて、おたくは私たちをなめているのか?」

私の冷や汗は止まりません。
社長が目の前で言われているのですから。
当然「優秀なやつなので大丈夫です」と嘘でも答えるしかありません。
実際、私自身は優秀ではないので、不安と心配しかありませんでした。

これほど重要なお客様なのだから、引き継ぎは丁寧なのだろうと思いきや、退職予定の中年の前任営業担当からは、「お前に引き継ぐ気ないから頑張って」と意地悪をされ、顧客資料も何もないまま、あっという間に辞めていきました。

そして私の地獄が始まりました。
医療現場では、一刻を争うこともたびたびあり、私たちの商品物流によって左右されてしまうところもあります。
さらに、現場で飛び交っているのは、意味不明な現場用語のみです。
それはなんという意味なのかをとにかく聞いて回りますが、結局教えてくれる人などおらず、自力で調べるほかありません。

さらに、以前担当していた中年のベテラン営業は、他のお客さんでの態度が非常に悪く、信頼関係は皆無といっていいほどでした。
その尻拭いもしなければいけなくなり、とにかく毎日のように怒られていました。
情報は前任者が開示しておらず、状況は誰一人把握できておりません。
3か月後には精神的にボロボロになり、涙を流しながら仕事し、足を引きずりながら精神科に通院していたのを覚えています。

それでもなんとか食らいつき、半年が経ってようやく、新人に毛が生えた程度の営業は出来るようになりました。
そして、それと同時に、私の成長も少しづつ芽を出し始めました。

まず、私の元に舞い込んできたのは、病院の改装に伴うオペ用具の洗浄機・乾燥機の買い替え案件で、約2000万円ほどの大型備品案件でした。
飛び込みで取り引きが開始したお客様で、業者選定の中で、運よく私達が選ばれました。
それから1年をかけ、ようやくそれが決まった時には、非常に嬉しかったのを覚えています。
機械選定から、建築業者とのやり取り含め、初めてのことばかりでしたが、今となってはいい経験だったと思います。

それと同時に、私は営業数字の利益改善にも取り組みました。
これはあまり良くないことなのですが、営業をしていると、どうしてもお客様に強気に出ることが出来ず、本来頂かなければいけない利益を引き下げてしまう場合が多く、時には赤字で売り続けるものもあります。
おかげで、担当している病院の利益率は恐ろしく低いものでした。(前任営業の怠慢です……。)

私は全ての商品をリストアップし、利益がないものあるものをABCDで評価付けし、CD評価のものを、商品切り替えと価格交渉により全て改善することに取り組みました。
結果として、数%の利益改善でしたが、年間でみれば数百万単位で利益は改善が出来ました。

それにのみならず、病院での年間の症例推移などから、ある程度購入が見込める者に関しては、メーカーとの三者間で話し合い、年間購買数を売買契約で決めることで、関連商品含め、大幅にそれらの利益を出し、なおかつ、病院へのコストメリットも出すということも出来ました。

④新卒3年目、初めての開業案件

お客様との関係も良好になり、それに伴い、売り上げも上がっていきました。
以前はほとんど仕事をもらえなかったお客様からも、雑談で談笑できる仲まで回復し、信頼関係もより強固に結ぶことが出来ました。

そんな中で、舞い込んできたお話がクリニックの開業案件です。

私は当然戸惑いました。
長年お付き合いのある病院の分院ということでのクリニックですが、院長直々のご指名でしたので、2つ返事で快諾致しました。
私たちはクリニックに使用する医療消耗品・備品の選定や配置、開業に伴う関係者の仲介調整等を全て行う形となりました。

この開業案件は、関係者が多いだけでなく、横槍を入れる競合他社や、隙間を突こうとするメーカーなど、非常に障害が多く、とても苦労しました。

胃腸科のクリニックでしたので、内視鏡関係中心で購入が進みます。
その他にもベッドやら滅菌器やら洗浄装置やらを準備し、初期準備での消耗品含め合計で約3000万ぐらいだったと思います。

困難も非常に多いものでしたが、私はこの時初めて、大きな仕事を一つやり遂げたという達成感がありました。
本来であれば、上司と共に二人三脚でやれているはずでしたが、結局上司も手伝ってくれることなく、ほぼ一人で行ったのはいい思い出です。

⑤完全燃焼、そして新たな方向性。

少し話は戻りますが、私がいろいろと動いている中で、会社として大きな動きが一つありました。
それは、埼玉エリアに関連会社を一つ立ち上げるというものでした。
立ち上げ会議には参加しておりませんでしたが、私もそちらに出向がすでに決まっており、会社立ち上げからは別会社で働いておりました。(やっている仕事とお客さんは変わりませんが……)

社長は、ゆくゆくこの関連会社の社長を私にする予定だったらしく、PL/BS表、財務、株式などのことを細かく教えてくださいました。

こちらの会社も立ち上げ期は、予想外のトラブルが続き、いろいろ揉め事もありましたが、今ではそれも落ち着き、従来の業務を支障なく出来ております。
ですが、私はクリニック開業が会社で成し遂げたい目標の一つであったため、それが達成してからは、どこか力が入らない状況が続いておりました。

そんな折に始めたのが、「小説」でした。

最初は物語をつくる練習をしようという興味本位な行動でしたが、次第にそれにのめり込み、気づけば数十万字を執筆しておりました。

それと同時に始めたのが「note」です。

noteを知ったのはたまたまでしたが、始め方も簡単でしたので、気軽に文章を残すものとして始めました。
それが次第にフォロワーも増えていき、記事の閲覧数やスキの数も増えていきました。
当初は小説や料理しか記事を書いておりませんでしたが、今ではエッセイや商品紹介の記事など幅広く執筆をしています。
先日、ありがたいことにフォロワーも580人までいきました。(目標は5000人)

そんな中で、私はweb領域のサービスに興味を持ち始めました。
もともと、マーケティングやコンサルティングが好きで、それも相まって、私はデジタルマーケティングという新天地に心が動いてしまっておりました。

人生というのは、本当にどう転ぶか全く予想できないですね。

⑥転職活動、そして内定。

何社か転職活動で応募させて頂き、その中で、デジタルマーケティング事業を行うベンチャー企業へ内定を頂くことができました。
3回の面接、そしてメンバーと取締役との食事面接を経て、2ヶ月という長丁場での選考がついに終わりました。

安心したのもつかの間、次に待ち構えていたのは「退職交渉」です。

当然、上司も社長もいい顔をしません。
それもそのはずで、若手の中でリーダー的立ち位置になっており、会社の将来を担っていく一人として育成されてきたものですから、二つ返事で承諾されるはずがありませんでした。

詰めに詰められ、揉めに揉めました。
それでも、自分のしたいこと、叶えたいことがあるとはっきりと伝えると、渋々ながら飲んでいただくことが出来、晴れて退職が決定しました。

⑦羽を描き、空に踏み出す。

これまでの仕事を振り返ると懐かしいことばかりです。

新人の頃はなかなか成果が出せずに期待外れだと言われたこと、会議が長いと社内改善に取り組み反発されながらも意識改革を行ったこと、最年少で主任に昇格させてもらたこと、高校生以来の表彰を受けたこと......etc

そんなことを思い出しながら、必要のなくなった資料をシュレッダーにかけています。

ですが、ここで思い出に浸っているだけではいけないので、平日の仕事終わりや休日は勉強の時間に充てています。
デジタルマーケティング領域の知識は多岐にわたり、四苦八苦しながら、机に積まれた本と格闘する毎日です。

私はいずれ、医療業界へのデジタルマーケティングを手掛けたいと思っています。SNSマーケティングや動画コンテンツの活用、地域貢献活動の情報発信など、医療業界にはより発展できる可能性を大いに秘めています。
また、noteやtwitterなどで、デジタルマーケティングについて学んだことの情報発信もしていく予定です。

小説でも、料理でも、エッセイでも、ビジネスでも、何か一つコミュニティを立ち上げられれば、また新しいものが生み出せるのではないかと、手探りながら模索中になります。(当面の目標は文学フリマへの出店とコミュニティでの文学個展の開催です)

すごく簡単ではございますが、私が社会人になってからの話を書かせていただきました。振り返れば、苦しいことも嬉しいこともいっぱいあった5年でした。
次の仕事でも、記事になるような毎日を過ごしていきたいと思っています。

今このような人生を歩めているのも、応援してくださる皆様のおかげです。
こんな私ではございますが、これからも精神誠意頑張りますので、応援のほど、宜しくお願い致します。

静 霧一

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