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SS【居場所】#シロクマ文芸部

お題「秋桜」から始まる物語

【居場所】(1800文字)

 『秋桜』という名前の珈琲屋がある。品書きには『珈琲 一杯三百円』とだけ書かれている。一品だけでどうして品書きが必要なんだいと聞いたら、他に何もないことを説明するのが面倒だからと言う。それなのに、他に何もないんですか?と聞く客がいるというから、そんな猿にはピーナツでもくれてやればいいさと俺が言ったら、店主はきれいな面長の顔を一瞬だけ崩してニヤリとした。店主と俺はそれ以来親しくなり、時々言葉を交わすようになった。
 人嫌いで友達もいない俺が、こんな上品そうな奴と親しくなるなんてめずらしいことだが、珈琲を美味いなと褒めた時、珈琲屋ですからねとあっさり返されたのも気に入った。

 俺は毎日仕事が終わると『秋桜』に行く。なにも言わなくても珈琲が出てくる。親しくはなったが、日によってはなにも話さないこともある。気遣い無用なのがいい。
 店主はおしゃべりで煩い客が嫌いらしい。会社の愚痴をグダグダと話していた二人組がいた時、店主は静かな声で、しかしはっきりと出て行ってくれと告げた。だから煩い客は来なくなり、結果的にこの店は一人客の多い静かな店になった。

 俺は今日も日暮れ時に『秋桜』を訪れる。客は一人もおらず、俺は黙って窓際の席に座った。そして窓から差し込む西日を見ながら一日の仕事を振り返り、会社のどこにも自分の居場所がないと思った。俺は存在を否定されている。
 しかし今、俺はこの店に来て自分の居場所にいる気がしている。しっくりと、落ち着いている。いつの間にか、この店は俺にとってなくてはならない居場所になっていたのだ。ここを知る前、俺はどうしていたのだろう。そして運ばれてきたいつもの珈琲を飲みながら、居場所について思いを巡らせた。

 俺は人間関係を構築するのが下手だから居場所を作るのも下手だ。だからここみたいな場所はそうそうできるものじゃない…。ここが俺の居場所になったのは、店主が俺の存在をゆるしてくれているからだ。なにかあって出て行けと言われたら終わり。店主が寛容だから俺はここにいられるのだ。
 しかし俺は、寛容ってやつは自分の居場所をどんどん切り取って明け渡すことだと思っていた。四畳半の部屋に住んでいるのに、我慢してどうぞどうぞと言い続けた挙句、ちぢこまって小さくなっているような。
 でも店主はそんな人間だろうか。

 考えながら珈琲を半分くらい飲み終えたところで、店主が声をかけてきた。
「少し余ったから飲みますか」
 返事を待たずに俺のカップに熱い珈琲を足す。あらためて『寛容』の文字が俺の頭に浮かぶ。
「今、居場所と寛容について考えてたんだよ」
 俺は今考えていたことを軽い感じで店主に話した。あんたが寛容だから俺はここにいられるんだろうな、と。
 店主はカウンターを挟んで俺の前に立ったまま黙って俺の話を聞き、自分の分の珈琲を一口飲んだ。俺もまた珈琲を一口飲んだ。温かい。
 店主はまだ黙ったまま、白くほっそりとした手で珈琲カップを両手で包み込んでいる。そしてゆっくりと低い声で言った。
「…僕は秋桜が好きですが、春の桜は煩いから嫌いなんです。ご存知のように煩い客も。そんな僕はお世辞にも寛容とは言えない人間ですよ…」
 俺は真面目に返されて、なんだか恥ずかしくなって窓の外に目をやった。
 窓の外に植えられている秋桜が、笑うように風に揺れている。

 店主が続けて言った。
「でももし僕が寛容だとしたら…、それは僕が自分のスペース…居場所を確保しているからかもしれませんね。寛容さは自分の居場所があれば自然に生まれるものでしょう」
 そう言って、もう一言付け加えた。
「僕は『秋桜』さえあれば…ね」
 さえ、という言葉にスラリと抜いた刀のような煌めきがあった。そしてふっと笑って付け足した。
「あなたもそうでしょ」

 夕闇が店内に入り込んでくる。窓の外では、秋桜が残照に照らされている。
 店主は…ちぢこまって小さくなるどころか、居場所を守るためなら、このきれいな顔で何か恐ろしいことだってするんじゃないのか…。ふとそんな考えが浮かぶ。

「秋桜ってあんたみたいだな。細くて弱そうに見えて…」
 店主は半分影になった面長の顔を一瞬だけ崩してニヤリとする。その顔から俺は割れたグラスを連想する。鋭く尖った欠片…。
 俺もニヤリと笑い返して、冷めかけた珈琲をぐいと飲み干す。
「うん、俺もそうだ」
 俺も居場所を守るためなら…。
 日は完全に落ち、夕闇に溶けた秋桜はもはや黒い影にしか見えない。


おわり

(2023/10/14 作)

小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました。
今回のお題は、ほっこり穏やかな作品が多そうですのに、こんな不穏な…
(;・∀・) なんでだろ。

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